第43話 昭和な専業主婦と令和な働く女性の対立と母娘の関係と

文字数 4,545文字

 その夜はカーテンの向こうにウルフがいるのかもしれないと思うときもちが高揚して寝付けなかった。
 彼を無視すると決めたのに、心は伴っていなかった。
 夜中3時ころに我慢しきれなくなって布団の中から這い出たわたしはカーテンを1センチだけ開けて外を見た。真っ暗闇の中にひとつだけついた街灯の脇には人影はなく、寒さに枯れた木々がゆらゆらと風に揺れていただけだった。
 ほっとしたと同時に少しさみしくなった自分を愚かに思った。ウルフが3時間もここに立っているわけないでしょう? 彼は今をときめく金融マンなのだから、彼の不在で彼の会社は赤字になる。彼は忙しいのだ。わたしのことなんて、すぐに忘れるだろう。
 わたしとセックスしたことなんて、数日前に食べたパエリアの味のようにすぐに忘れてしまうのだろう。それでいいのよ。これでもう恋の悩みからも開放されるのだから。


 数日後。
 珍しく母が予約したイタリアン料理店でわたしと母は顔を合わせた。
「パエリアにハマってるのよ、うふふ」と母は笑ってメニューをパラパラと開いて何かを探していた。イタリアンなのにフランス料理店のように豪奢な店内は広々として、間隔をあけてぽつぽつと設置された丸テーブルには赤いテーブルクロスがかけられている。
「ねえ、お母さん。このお店はイタリアンよ。パエリアはスペイン料理だから、このお店じゃないと思うわ」
「え? そうなの? パエリアってイタリアンじゃないの? じゃあ、ここでは食べられないの?」
 母は残念そうにため息をついた。若いころから流行に敏感で流行りの物は必ず買ったり食べたりしてきた人なのに、パエリアは盲点だったことに最近気づいたそうだ。ネットで取り寄せたパエリアを家の鉄製のフライパンで焼いて食べる日々だったが、せっかくだから銀座でいまホットな店で食べてみたいという思いに駆られて事前調査もせずに予約したためにこんなミスが生じてしまったのだ。
「パエリアは二軒となりのビルに入ってるお店じゃない? ここは老舗のイタリアンだから、美味しいって噂だけどパエリアはないみたいよ」
「インターネットでいちばん上に出てきたから、ここがパエリアのお店だと思って予約の電話をしたのに」
「ちゃんと口コミとか見た? 地図は?」
「クチコミ? さあ…」
 社会に出たことがなく、外で働いたことがない母は、時々通常人には予想できないくらい基本的な知識が抜け落ちていることがある。歯抜けの老婆のようにいちばん大切なところが抜け落ちていることもあって、ぎょっとすることがある。専業主婦という生き物は社会的な常識に触れる機会が少ないのだからしょうがない。よくあることだ。わたしはこういうことあるたびに気持ちをなだめてきた。とくにSNSが普及する現代では、社会人と専業主婦の常識度数の乖離は激しくなっているし、それに、母は年も取ったのだ。
「まあいいじゃない。ピザが美味しいって有名なお店だから、せっかくだし、ピザを食べましょう。わたしは定番のマルガリータにしようかな」
 わたしがそう言ってメニューをめくると、母はなにごともなかったかのように「じゃあ、わたしはこのスペインっぽいペスカトーレにするわ」と言った。

 大きなピザとかまぼこみたいなモッツァレラチーズを切り分けているときに、母が唐突に尋ねてきた。
「イシ君とはうまくやってるの?」
「別れたの」唐突な質問には唐突な返事が合う。
「え?! どうして?」母は思ったとおりの反応をした。
「どうしてって、別れたいから別れたいって言って別れたの。それだけ」
 それまで美味しくて平和な空気に満たされていた頭上が途端に重苦しいものになる。
「ダメよ。取り消しなさい」
「なにを」
「別れたいって言ったのを取り消しなさいって言ってるの。謝るのよ、イシ君に」
「嫌。わたし、イシ君とは結婚したくないもの」
 恋愛は当人同士の問題だ。別れた事実を伝えただけなのに、母に対してそれを言うとまるで自分が我儘な駄々っ子になったような気持ちになる。
「イシ君はあなたにぴったりなのよ。彼と結婚しないでどうやって生きていくつもりなの? あなたももういい年なんだから、ちゃんと将来のことを考えなさい。今はいいけど、年を取ると誰も助けてくれないのよ。頼れるのは、お金だけよ。イシ君ならば、余裕のある生活が保障されるわ。あなたのことを思って言ってるのよ」
「わたしのことを思って言ってるのなら、わたしの自由にさせてよ。お母さんは、わたしのことを思ってるって言いながら、家のことと自分のことしか考えていないのよ」
「違うわよ。母親としての経験から言ってるの。あなたはまだ子供だからわからないのよ。女が生きていくのは大変なのよ。イシ君に謝りなさい」
「嫌だってば」
 母の眉間に皺が寄る。
 昔からこうだ。母は絶対に引き下がらない。わたしがいくら反論しても、反抗しても、母は引き下がらない。わたしがあきらめるまで、説得しつづける。幼いころからずっとそうだった。自分の思い通りにわたしを動かすことに人生を賭けてきたと言っても過言ではない。
「わたしはもう子供じゃないの。家のための道具じゃないし、お母さんがいつも作っているような人形じゃないの。着せ替え人形じゃないの。飾り物じゃなくて意思があるのよ、わたしにも。専業主婦にはなりたくない。一生社会に出て働きたいの。ちゃんと仕事をして、社会人として生きていきたいの。PCもろくに使えないような非常識な専業主婦にはなりたくないの。自分の意思で選択して、ちゃんと好きな人と結婚したいの」
「好きな人って誰なの? 夢ばかりみていてはダメよ。もっと現実を見なさい。せっかくいい人を捕まえたんだから。イシ君に謝りなさい」
 イシ君に謝りなさい。その一点張りだ。わたしがなにを言っても、母の頭の中はわたしをイシ君に謝らせることでいっぱいなのだ。
 今までのわたしだったら、ここで諦めただろう。母の言う通りにして、良い娘を演じて、母を喜ばせることで幸せを感じていただろう。
 けれど、今日のわたしは今までのわたしとは違った。
「わたしはお母さんよりもずっと現実を見てきたわ。家の中でお父さんの言いなりになって着飾って家事をするだけの人生が幸せなの? そんなの家政婦と一緒じゃないの。ううん、家政婦以下だわ。家政婦はお金をもらって社会で仕事として家事をやっているけど、専業主婦は社会に出ていないんだもの。PCさえろくに使えない専業主婦として生きて死ぬだけの人生なんて、嫌なのよ。どんなに豪華な豪邸だって、わたしから見れば、女性を閉じ込めておく檻と同じなの。社会に出る機会を奪われて、暇をもてあまして料理教室や人形教室に通ったり、ママ友ランチとかお菓子ばかり食べて噂話ばかりして脳みそが溶けて使い物にならなくなったような主婦にはなりたくないの。いまは男女平等の時代よ。女性も財布を持てるし、社会に出ることができる。そういう時代にイシ君と結婚して自由を奪われるわたしの気持ちにもなってよ。イシ君と結婚させるのは、わたしを殺すようなものよ」
 母の目の中に炎が浮かんだ。母の怒りが伝わってくる。
 母がわたしのことを思って怒っているのは、わかっている。けれど、わたしのきもちを母にわかってもらいたいのだ。
 父は仕事で海外にいることが多かったためいつも不在で、母ひとり、子ひとりの母子家庭同様の環境で生きてきたからこそ、人生の大事な価値観を母に理解してほしかった。
「それに、イシ君はわたしのことなんて好きじゃなかったの。うちの家のお金を好きだっただけなのよ。そんな人と結婚してほしいわけ? お金目当てで女性を付き合うような人と? そんな人よりも、世の中には自分の力で働いて生活している人がいっぱいいるわ。自分だけの力で努力して勉強して能力を身に着けて稼いで生活している人のほうが何倍も、何十倍も偉いわ」
 そこまで言って、わたしは言葉を失った。努力して稼いで生活している人というのは、ウルフのことだった。わたしはこの期に及んでウルフのことで頭がいっぱいだったのだ。
 母がわたしをじっと見つめてから、静かに言う。
「それって、前に言ってた人のこと? 貧乏で奨学金を貰ってたっていう人。リリィ、まだその子と関わっているの? そんな人と関わってもロクなことがないって言ったでしょう?」
 ろくなことがない。そのとおりだ。
 いつだって、母が正しいのだ。それもわかっている。
 専業主婦として社会から隔絶された世界で生きてきた母は、社会常識に欠けていて、一見頭が悪そうに見えることもある。けれど、学生時代は成績優秀で表彰されたこともある才女だったそうだ。父と結婚して、家庭に入るように言われ、良き妻、良き母親という役割を演じてきただけで、本当のところはIQの高い天才児のまま大人になったような人なのだ。直観力が鋭くて、わたしのことなんて、いつもお見通し。たしかに、わたしは、ウルフと関わってもろくなことがなかった。
 セックスして捨てられただけだった。 
 わたしがいちばん大事にしていた夢、好きな人を手に入れたいという希望は、わたし自身によって壊されたのだった。
 涙が滲む。
「リリィ?」
 まだ手をつけていない大きくて艶やかなピザが歪んでみえる。涙が零れ落ちそうになる。
「どうしたの?」
 わたしは立ち上がった。
「帰る。これ、食べていって」
 うつむいたまま涙をこらえてそう言って、バッグを抱えて走って店から出た。

 銀座の街をあてもなく歩いてから、ひとり暮らしのマンションに戻る。
 ドアにはまた白い花束が立てかけてあった。
 新聞紙で無造作に包まれたカスミソウの花束。
 手に取ると、夏の夜の森のような清々しい香りがして、胸の奥がきゅんとした。
 もはや毎晩の習慣になっているとおり、ダイニングテーブルのバカラの大きな花瓶にカスミソウを生けてからシャワーを浴びて、ラベンダーとバニラの香りのするボディクリームを塗りつけてジェラピケのパジャマを着ると、心地よいきもちがすこし蘇ってきた。少しだけど。人は感情が乱れたときにはいつものルーティンを繰り返すだけでも落ち着きを取り戻すことができるのだ。それから良い香りと、美しいものに囲まれれば、とりあえず大丈夫。
 わたしは熱い紅茶を淹れて、冷蔵庫から取り出したベノアのスコーンをお皿に乗せてレンジであたため、それをリビングのテーブルに置く。
 そして窓に近づき、カーテンを開けてみる。
 街灯の脇に、今夜もいた。
 ウルフ。
 ほのかな街灯の明かりに照らされたグレーのスーツに身を包んだ姿。
 暗闇の中で、こちらを見上げている。
 昨日も、一昨日も、その一昨日も、彼はこの時間、こうしていた。
 何かを訴えるように、わたしが現れるのをじっと待っている。
 わたしたちは一瞬だけ目が合って、そして、わたしはカーテンを閉めて背を向け、目を閉じた。
 彼を無視すると、決めたのだ。
 感情を押し殺し、ただ、マイルールを実践しているだけだ。
 一度実践できれば、次の日もできて、自信がついて、その翌日もできた。
 わたしは、自分で作ったルールを実践することに、ようやく慣れてきたのかもしれない。
  
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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