第47話 恋されるルールは無駄なことに振り回されないためのルール
文字数 3,415文字
サチが送ってくれた週刊誌の画像には、『10年来の愛人の証言!!』『御曹司の愛人は元銀座クラブのホステス35歳!!隠し子(3歳)あり!!』『日本一の石油会社で熾烈な家督権闘争!!』という太字の見出しとともに、イシ君と女性の写真があった。
そして、下のほうにもうひとり、写し出されている男はカーターだ。
小さな文字の記事を指で拡大してみる。
イシ君は石油会社社長である父親の正妻の子供で、愛人(ヨーロッパ系)の子供がカーターだという家族構成と、次期社長候補のふたりが現在家督権闘争の真っ最中であること。イシ君には10年ほど付き合っていた元銀座のホステスがいて、その女性との間に3歳の息子がいること。元愛人はイシ君が手切れ金として買った豊洲のタワーマンションでひっそりと母子家庭を築いて息子を育てていることが主な内容だった。
頭がくらりとして、夢中で文字を追いかけていたため息をしていないことに気づいたわたしは、スマホをコートのポケットに入れて、大きく息を吸い込んだ。
イシ君とカーターが異母兄弟だった内容よりも何よりも、イシ君に子供がいたことに衝撃を受けた。真面目で紳士な態度を常に崩さなかったイシ君にこんな本性があったなんて。驚きと衝撃が頭の中で膨らんでいく。けれど、すぐにそれは、いままで足りていなかったパズルのピースが見つかった爽快感に代わり、納得の気持ちに変化していく。イシ君がわたしに手を出さなかったのは、真面目だったからではなく、臆病だったからでもなく、優しかったからでもなく、性欲がなかったからでもなく、ただ、他に相手がいたからだったのだ。
よくある話だ。
イシ君にいままで感じていた違和感と、どうしても埋められなかった気持ちの正体は、これだったのか。
女の勘は侮れないものだ。女性がほんの一ミクロンでも違和感をおぼえる男性には必ず裏の顔がある。
それから、カーターが言っていたこととも整合する。
イシ君もカーターも、ふたりとも、わたしの家の会社の資産が目当てだったのだ。
そのとき、電車が最寄り駅に到着して扉が開いていたことに気づいて、わたしは慌てて電車を降りた。
駅から自宅まではどうやってたどり着いたか記憶にない。
急に怒濤のように押し寄せてきた情報が頭の中ですこしずつ整理されて収まるべき場所に収まったとき、わたしはまるで瞬間移動のように自宅の扉の前に辿り着いていた。
しゃがみこんでドアに立てかけられている花束を胸に抱いた。
信じていた世界が雪崩のように崩れ落ちていく中で、この花束だけが純粋にわたしを求めてくれているような気がした。わたしがいなければここで枯れて朽ちていく命。その命がわたしに委ねられていることが心の拠り所となっている自分。
小さな白い花びらには細かな水滴が乗っていた。
さわやかなカスミソウの香りを数回胸に吸い込んで、それから、わたしは家の中に入り、ドアをロックした。
シャワーを浴びながら、少し泣いた。
イシ君に愛人がいたこと、子供がいたことよりも、彼がわたしを騙しつづけていたことに気づかなかった自分に腹が立った。
自分の無能さが腹立たしかった。悲しかった。
男なんかに振り回されないために、学生時代から恋愛のマイルールを作って実践してきたのに。それなのに、やっぱりわたしは男に振り回されていたのかもしれない。
スミレの香りのボディソープをたっぷりと泡立てて髪を洗い、気が済むまでお風呂に入ってあたたまったけれど、それでも心に空いた穴は埋められず、心の中をぴゅーぴゅーと冷たい風が吹き抜けていく。
体にタオルを巻きつけてバスルームから出て、冷蔵庫の中からバニラとアンバーが豪華に香り立つ香水を取ってきてから、バスタブに一滴入れて、もう一度お風呂に入った。
よく考えてみたら、イシ君のことは好きでも何でもなかったのだ。好きでも何でもないから、別れを告げたのだ。わたしの人生から彼を追い出したのだ、すでに。
好きでもない人のことで腹を立てたり泣いたりするなんて無駄だ。時間の無駄。人生の無駄。彼と時間を共有したことは失敗だった。
けれど、失敗はむしろ教訓にすればいい。今後の人生のために、彼は教師だったのだと思えばいい。
ローズ、イランイラン、ジャスミンが舞い散る豪華の香りのお風呂から出たときには、気持ちがすっきりしていた。
こんなもんだ。人生なんて、こんなもの。
冷凍庫から取り出したカレーを解凍して、カスミソウの花束で埋め尽くされたダイニングテーブルの隅で手早く夕食を済ませたとき、わたしの気持ちはもう半分ほど落ち着いていた。
夜11時過ぎ。
ラベンダー色のパジャマに身を包んで、胸元に菫の香水を一滴つけてからベッドにもぐりこみ、部屋の明かりを全部消したあと、カーテンを1センチ開けて外を見た。
窓の外では黒い空から大きな雪が花びらのようにひらひらと降り注いでいた。
街灯の脇には、いつもと同じグレーのスーツを着たウルフの姿があった。
「ウルフ・・・・・・」
傘をさしていない。
コートも着ていない。
この距離ではよく見えないけれど、きっと肩や髪に白い雪が積もっているのだろう。そう思うと途端に寒けがこみあげてきて、布団の中にある身体がぶるっと震えた。
なぜ彼はコートを着ていないのだろう。昨夜から今日は都心でも記録的な寒波が来て雪が積もる予報があちこちのSNSで流れていたというのに、情報通の彼が天気予報を知らないはずがない。寒さに関心がないのだろうか。
そういえば、今までウルフがコートを着ている姿を見たことがないことに気づいた。どんなに寒くても、極寒の雪の夜も、彼はコートを着ない。そもそもコートを持っていないのかもしれないし、防寒に関心がないのかもしれない。
そんなことを考えながら、あたたかい布団の中で、わたしは目を閉じた。
数十分ほどのあいだ、目を閉じていただろうか。
今夜は睡魔がまったく現れず、頭は冴える一方だ。
外ではまだウルフが雪の舞う中で立ってこちらを見上げているかもしれない。
彼を照らす街灯の隣には八重桜の木があり、春には色鮮やかなピンク色の花で満開になる。
雪と桜の花びらが舞い落ちる中に立ち尽くすウルフの姿が頭に浮かんだ。
いつも寂し気なグレーの瞳の前を、薄桃色の桜の花びらが通り過ぎていく。
大学生の頃、学内の通りですれ違うたびに目が合ったときに感じた浮き立つようなときめきを思い出した。
倉庫での初めてのキス。
オフィス街での再会。
ホテルのエレベーターでのキス。
そして、ここで体をつなげた時の熱い吐息とうめき声。
ウルフとの過去が走馬灯のように脳裏を通り過ぎていく。
彼を無視すると決めたのに。
彼を無視して、彼を記憶から抹殺して、もう恋なんかしない、男に振り回される人生は卒業すると決めたのに。
それなのにわたしの意識は窓の外のウルフから離れられない。
わたしは思わず布団から飛び起きて、ベッドから降りた。
そして、またカーテンを引き開けて外をみた。
数十分ほど前には雪だった空は、雨に変わっていた。
そして、街灯の脇には、まだウルフの姿があった。
ポケットに手を突っこみ、うつむいているように見える。
冷たい雨に打たれ、うなだれている姿は、幼いころにみたハスキー犬を思い出させた。
雨に濡れた捨て犬。
わたしが近づけば逃げてしまうのに、いつも遠くからわたしを見守ってくれていた犬。餌がほしいのか、友達がほしいのか、何がほしいのかわからないのに、その目は何かを求めていた。
振り返ってベッド脇に放っていたスマホで時計をみると、11時41分だ。
わたしは部屋の明かりを点け、カーテンを20センチほど開けた。
その途端、ウルフがこちらを見上げた。黒い髪が雨に濡れて額に張り付いている。
真っ暗い外から見れば、明るいこちらは丸見えなのだろう。
この距離でも、彼が驚いているのが伝わってきた。
わたしが手を振ると、彼はすっと背筋を伸ばして、手をあげた。冷たい雨に打ち付けられているのにも関わらず、勇ましい姿はまるで戦士だった。サラリーマンのスーツという鎧を身に着けた戦士。
わたしは「そこにいて」という意味をこめて数回彼と彼が立つアスファルトを指差してから、カーテンを閉め、ダウンコートを羽織って傘を2本持ち、エレベータに飛び乗って1階におりた。
そして、下のほうにもうひとり、写し出されている男はカーターだ。
小さな文字の記事を指で拡大してみる。
イシ君は石油会社社長である父親の正妻の子供で、愛人(ヨーロッパ系)の子供がカーターだという家族構成と、次期社長候補のふたりが現在家督権闘争の真っ最中であること。イシ君には10年ほど付き合っていた元銀座のホステスがいて、その女性との間に3歳の息子がいること。元愛人はイシ君が手切れ金として買った豊洲のタワーマンションでひっそりと母子家庭を築いて息子を育てていることが主な内容だった。
頭がくらりとして、夢中で文字を追いかけていたため息をしていないことに気づいたわたしは、スマホをコートのポケットに入れて、大きく息を吸い込んだ。
イシ君とカーターが異母兄弟だった内容よりも何よりも、イシ君に子供がいたことに衝撃を受けた。真面目で紳士な態度を常に崩さなかったイシ君にこんな本性があったなんて。驚きと衝撃が頭の中で膨らんでいく。けれど、すぐにそれは、いままで足りていなかったパズルのピースが見つかった爽快感に代わり、納得の気持ちに変化していく。イシ君がわたしに手を出さなかったのは、真面目だったからではなく、臆病だったからでもなく、優しかったからでもなく、性欲がなかったからでもなく、ただ、他に相手がいたからだったのだ。
よくある話だ。
イシ君にいままで感じていた違和感と、どうしても埋められなかった気持ちの正体は、これだったのか。
女の勘は侮れないものだ。女性がほんの一ミクロンでも違和感をおぼえる男性には必ず裏の顔がある。
それから、カーターが言っていたこととも整合する。
イシ君もカーターも、ふたりとも、わたしの家の会社の資産が目当てだったのだ。
そのとき、電車が最寄り駅に到着して扉が開いていたことに気づいて、わたしは慌てて電車を降りた。
駅から自宅まではどうやってたどり着いたか記憶にない。
急に怒濤のように押し寄せてきた情報が頭の中ですこしずつ整理されて収まるべき場所に収まったとき、わたしはまるで瞬間移動のように自宅の扉の前に辿り着いていた。
しゃがみこんでドアに立てかけられている花束を胸に抱いた。
信じていた世界が雪崩のように崩れ落ちていく中で、この花束だけが純粋にわたしを求めてくれているような気がした。わたしがいなければここで枯れて朽ちていく命。その命がわたしに委ねられていることが心の拠り所となっている自分。
小さな白い花びらには細かな水滴が乗っていた。
さわやかなカスミソウの香りを数回胸に吸い込んで、それから、わたしは家の中に入り、ドアをロックした。
シャワーを浴びながら、少し泣いた。
イシ君に愛人がいたこと、子供がいたことよりも、彼がわたしを騙しつづけていたことに気づかなかった自分に腹が立った。
自分の無能さが腹立たしかった。悲しかった。
男なんかに振り回されないために、学生時代から恋愛のマイルールを作って実践してきたのに。それなのに、やっぱりわたしは男に振り回されていたのかもしれない。
スミレの香りのボディソープをたっぷりと泡立てて髪を洗い、気が済むまでお風呂に入ってあたたまったけれど、それでも心に空いた穴は埋められず、心の中をぴゅーぴゅーと冷たい風が吹き抜けていく。
体にタオルを巻きつけてバスルームから出て、冷蔵庫の中からバニラとアンバーが豪華に香り立つ香水を取ってきてから、バスタブに一滴入れて、もう一度お風呂に入った。
よく考えてみたら、イシ君のことは好きでも何でもなかったのだ。好きでも何でもないから、別れを告げたのだ。わたしの人生から彼を追い出したのだ、すでに。
好きでもない人のことで腹を立てたり泣いたりするなんて無駄だ。時間の無駄。人生の無駄。彼と時間を共有したことは失敗だった。
けれど、失敗はむしろ教訓にすればいい。今後の人生のために、彼は教師だったのだと思えばいい。
ローズ、イランイラン、ジャスミンが舞い散る豪華の香りのお風呂から出たときには、気持ちがすっきりしていた。
こんなもんだ。人生なんて、こんなもの。
冷凍庫から取り出したカレーを解凍して、カスミソウの花束で埋め尽くされたダイニングテーブルの隅で手早く夕食を済ませたとき、わたしの気持ちはもう半分ほど落ち着いていた。
夜11時過ぎ。
ラベンダー色のパジャマに身を包んで、胸元に菫の香水を一滴つけてからベッドにもぐりこみ、部屋の明かりを全部消したあと、カーテンを1センチ開けて外を見た。
窓の外では黒い空から大きな雪が花びらのようにひらひらと降り注いでいた。
街灯の脇には、いつもと同じグレーのスーツを着たウルフの姿があった。
「ウルフ・・・・・・」
傘をさしていない。
コートも着ていない。
この距離ではよく見えないけれど、きっと肩や髪に白い雪が積もっているのだろう。そう思うと途端に寒けがこみあげてきて、布団の中にある身体がぶるっと震えた。
なぜ彼はコートを着ていないのだろう。昨夜から今日は都心でも記録的な寒波が来て雪が積もる予報があちこちのSNSで流れていたというのに、情報通の彼が天気予報を知らないはずがない。寒さに関心がないのだろうか。
そういえば、今までウルフがコートを着ている姿を見たことがないことに気づいた。どんなに寒くても、極寒の雪の夜も、彼はコートを着ない。そもそもコートを持っていないのかもしれないし、防寒に関心がないのかもしれない。
そんなことを考えながら、あたたかい布団の中で、わたしは目を閉じた。
数十分ほどのあいだ、目を閉じていただろうか。
今夜は睡魔がまったく現れず、頭は冴える一方だ。
外ではまだウルフが雪の舞う中で立ってこちらを見上げているかもしれない。
彼を照らす街灯の隣には八重桜の木があり、春には色鮮やかなピンク色の花で満開になる。
雪と桜の花びらが舞い落ちる中に立ち尽くすウルフの姿が頭に浮かんだ。
いつも寂し気なグレーの瞳の前を、薄桃色の桜の花びらが通り過ぎていく。
大学生の頃、学内の通りですれ違うたびに目が合ったときに感じた浮き立つようなときめきを思い出した。
倉庫での初めてのキス。
オフィス街での再会。
ホテルのエレベーターでのキス。
そして、ここで体をつなげた時の熱い吐息とうめき声。
ウルフとの過去が走馬灯のように脳裏を通り過ぎていく。
彼を無視すると決めたのに。
彼を無視して、彼を記憶から抹殺して、もう恋なんかしない、男に振り回される人生は卒業すると決めたのに。
それなのにわたしの意識は窓の外のウルフから離れられない。
わたしは思わず布団から飛び起きて、ベッドから降りた。
そして、またカーテンを引き開けて外をみた。
数十分ほど前には雪だった空は、雨に変わっていた。
そして、街灯の脇には、まだウルフの姿があった。
ポケットに手を突っこみ、うつむいているように見える。
冷たい雨に打たれ、うなだれている姿は、幼いころにみたハスキー犬を思い出させた。
雨に濡れた捨て犬。
わたしが近づけば逃げてしまうのに、いつも遠くからわたしを見守ってくれていた犬。餌がほしいのか、友達がほしいのか、何がほしいのかわからないのに、その目は何かを求めていた。
振り返ってベッド脇に放っていたスマホで時計をみると、11時41分だ。
わたしは部屋の明かりを点け、カーテンを20センチほど開けた。
その途端、ウルフがこちらを見上げた。黒い髪が雨に濡れて額に張り付いている。
真っ暗い外から見れば、明るいこちらは丸見えなのだろう。
この距離でも、彼が驚いているのが伝わってきた。
わたしが手を振ると、彼はすっと背筋を伸ばして、手をあげた。冷たい雨に打ち付けられているのにも関わらず、勇ましい姿はまるで戦士だった。サラリーマンのスーツという鎧を身に着けた戦士。
わたしは「そこにいて」という意味をこめて数回彼と彼が立つアスファルトを指差してから、カーテンを閉め、ダウンコートを羽織って傘を2本持ち、エレベータに飛び乗って1階におりた。