第21話 大切にされたければ簡単にキスさせてはいけません

文字数 6,283文字

 ラウンジは三方面がガラス張りとなっていて、都心の夜景にぐるりと囲まれている。
 窓際には大きな革張りのソファが並んでいて、壁際には色とりどりの料理が乗せられたビュッフェカウンターがあり、ラウンジの中央に点在するミニテーブルにはさまざまなワインやカクテルが並ぶ。
「すごい」思わず声が出てしまう。
 サチがホテルのスイートで女子会をすることを好むため、都内のほとんどの高級ホテルには泊まったことがあるけれど、このラウンジに来たのは初めてだった。
 ウルフはグレーのジャケットを脱いでソファにかけ、
「腹減ったな。取ってきてやるから座ってて」と言って、ブッフェ料理が並ぶカウンターに向かって歩いていった。
 ソファに座ると、目の前に星屑のような夜景が広がっている。ガラス窓に沿って並ぶソファには、寄り添うカップルの姿がいくつもある。
 あちこちに点在するキャンドルの灯り。
 薔薇の花々。
 とてもロマンチック。
 恋人たちが愛を語り合っているという形容にぴったりの雰囲気。
 こんな場所にわたしとウルフがいるなんて場違いだわと思っていると、大きな皿を両手に持ったウルフが戻ってきた。ローストビーフや揚げ物、生魚のマリネ、キッシュ、ポテトサラダなどが隙間なく乗せられている。
「すごい量!そんなに食べれるの?」
「まだこれからだ。飲み物は? オレンジジュース? 紅茶もあるけど」
「アイスティーがいいわ」
 まるで自分の家のように、ウルフはてきぱきと手慣れた動作でグラスを持ってきた。自分の分にワイングラスも取ってきたようだ。ワインのボトルまである。
「慣れてるのね」
「ああ。よく来るから」
「こんなところがあるなんて、知らなかった」
「スイートの客だけが使えるんだ」
「え、ウルフ、スイートに泊ってるの? 高くない?」
「値段は知らない。仕事の関係で接待されて、しょうがなく使ってるだけだ。おれとしては、布団さえあればどこでもいいんだが」
 周囲を見回すと、シックに着飾ったカップルたちはワイングラスを片手に寄り添って夜景を眺め、甘い雰囲気に包み込まれている。それに対して、わたしたちはまるで昼間の定食屋に飛び込んだ学生のようだ。ウルフがまた料理を乗せた大皿を二枚もってきたから、テーブルの上が料理でいっぱいになった。寿司などの和食からピザやパスタなどのイタリアンまで雑多に並ぶ。
「こんなに取っていいの? こんなにいっぱい取ってるのわたしたちだけよ。ほかの人たちは全然取ってないのに」
「ああ。料理が余りまくってて勿体ないだろ? だからおれがこうやって処分しにきてやってるんだ。ここに来るヤツらは女を口説くことで頭がいっぱいだろ。おれは腹を満たすことしか考えていないが」
「そうみたいね。夜景にも興味ないの?」
「ないね。こんなもん、ただの電灯だ。電気代の無駄としか思えんな」
 笑えてきた。彼はものすごく現実主義なのだ。
 ウルフはわたしから五十センチほど離れてソファに座った。周囲のカップルとは違って、わたしたちの間にロマンチックな雰囲気は皆無だ。
「ウルフ、ぜんぜん変わってないのね」
「人はそんなに簡単には変わらないもんさ」

  ♢

 鯛のマリネ、フォアグラ入りオムレツ、穴子寿司など、各国の料理を交互に口に運ぶ。
 どれも美味しくて箸を持つ手が止まらない。思えば今日は緊張のあまり朝からほとんど何も食べていなかったのだ。隣でウルフも黙々と食べ物と口に押し込んでいる。よほど空腹だったにちがいない。
 それから、ウルフはポケットの中で振動するスマホを取り出し、左手でメールチェックし始めた。食べる右手は止めない。
 メールの相手は恋人だろうか? それとも奥さま? 子供はいるの?? もしかして、子だくさんファミリーを築いていたりして。
 頭のなかに疑問符が生まれると、それらは枝分かれしてどんどん増えていく。
 ウルフは手を止めて眉を寄せ、誰かにメールを打ち始めた。そして送信ボタンを押してすっきりとした顔でまた料理に手をつける。片手でスマホのメールをチェックしながら。
「ウルフは、いまはひとり暮らし?」ついに尋ねてしまった。
「ああ」即答。メールをスクロールする手は止めない。
「結婚とか、してないの?」
「してない」即答。またメールを打ちながら、「おまえも、まだ独身なんだろ」と言う。
「なんでそう思うの?」
「そりゃあ、七光商事のひとり娘が結婚したらヤフーニュースに載るだろうから、誰でも知ってることだろ」
 ウルフが顔をあげて、横目でわたしを見る。わたしはためいきをついて、うなづいた。
「サチから聞いたんだけど、アメリカで働いてたんだって? 会社を立ち上げたって。すごいじゃないの」
「べつにすごくない」
「すごいわよ。わたしなんて、英語ぜんぜん話せないし、海外で働こうなんて勇気ないもん。ニューヨークにいたの? 楽しかった?」
「楽しいわけないだろ。朝から晩までオフィスで缶詰になって仕事しかしてなかったし。まあ、金を稼ぐことは楽しいけどな。学生のときのバイトと同じ時間働いて桁違いの金が入ってくるし、まわりの人間の態度も変わってくる。世の中金だな」
「そうかしら」
 わたしは手の中にあるポタージュに浮かぶクルトンをスプーンでつつきながら言う。
「そんなことないと思うけど。稼いでも、稼がなくても、人は変わらないわ」
「そういうところが世間知らずって言ったんだ」ウルフは小さく笑う。
 五年前、ウルフに『世間知らず』と言われた。あの会話を彼が覚えていたことに驚いた。わたしも覚えている。五年前にウルフと交わした言葉はすべて、今でもこころの本棚の最前列に飾ってある。
「わたしたちみたいな富裕層も世間のひとつなの。だから世間の一部のことはよくわかってるつもりよ」わたしは五年前と同じ返答をした。ウルフは興味ありげに眉をあげてみせた。
「富裕層には富裕層特有の悩みがあって、わたしはそれには超詳しいの。富裕層向け心理カウンセラーになれそうなくらいよ」
「世間知らずっていうのはそういう意味で言ったんじゃない。おまえはすれてないっていう意味さ」
「え? 幼稚ってこと? 失礼ね」わたしはわざと口をとがらせてみせる。
 ウルフは赤ワインのグラスに口をつけ、勢いよく飲み干した。喉ぼとけが大きく動く。
 そして、わたしの目をみた。
「ハリー・ポッターなんか読んでるようじゃあ、幼稚だよな」
「え? わたしがハリー・ポッターを……ってなんで知ってるの?」
 たしかにわたしは大学生の頃はいつも胸にハードカバーを抱えていた。本が好きだった。
 けれど、ハリー・ポッターの本を抱えていたことはない。わたしが読むのは大人向けのミステリーや哲学書などだから。
「見たことがあるんだ。おまえが大きいキャリーバッグで本を運んでるところを」
「……え?」
「チャリティーバザーに出してたんだろ?」
「あ……」
 大学の敷地の片隅で、月に数回、アジア諸国の貧困の子供たちに寄付できるバザーイベントが行われていた。学内でもほとんど知られていないイベントだった。
 わたしは誰にも内緒で、そのバザーが行われる日の早朝に様々な物を家から運び出して寄付していた。イベント開催者たちの目に触れるよりも早い、まだ薄暗い時間帯にこっそりと、大量に、そのスペースに積み上げて置いていたのだ。
 そのバザーで寄付された物が換金され、貧困層の子供たちを間接的に支援することができた。
 その行為は、うなるほどお金がある家に生まれた罪悪感をすこしだけ癒してくれたのだった。
「早朝にすっげぇ量の荷物を運んでるのを何回か見て、最初は変な奴って思ってたよ。ひらひらのワンピースにピンヒールのくせに、大型のキャリーバッグを二個引っぱって、でかいリュックも背負ってて、転びそうな歩き方で、いったいどこに行くつもりだろう?ってね。キャリーバッグごと寄付してたんだな」
「やだ、見られてたんだ。ダサかったでしょ? サチにも内緒にしてたのに。うちね、要らないものが山みたいにあって。母が物を溜め込む癖があるの。無駄なものが多すぎて重くて家が傾きそうだから、わたしがこっそりと断捨離してただけよ」
「ふぅん、なるほどね」
「だから、べつに意味はないの」
 ウルフはおかしそうに眉をあげてみせた。
「いまも行ってるのか? 大学に。バザーの日に」
「うん。まあね」
 いまでもバザーの日は暗い時間帯に起きて荷物を運んでいる。けど、それは誰にも内緒だった。秘密の趣味みたいなものだった。ちょっと悪いことをしているような解放感がある。
 趣味は秘密にしたほうが楽しいものだ。こころの中の隠れ家のように誰にも知られない場所だ。
 ウルフが何かを言おうとして身を乗り出したそのとき、

プルプルプル……

 ウルフのスマホの着信音がした。
「くそっ」舌打ちして、電話に出る。どうやら仕事の急用のようだ。ウルフが険しい表情で早口で相手と言い合いをして、いくつか指示を出した。
「すぐ戻る。それまでにドラフト仕上げておけ」ウルフがスマホを切ってポケットに入れ、大きなためいきをつく。そして、わたしを見る。
「悪い。急いでオフィスに戻らなきゃいけなくなった」
「うん、わかった」
「リリィはここでまだ食べてていいから」
 テーブルには取ってきた料理がまだ残っている。
「ううん、もうおなかいっぱいだから、わたしも出るわ。そういえば、クリーニングはどうだった? あの染み、落ちた?」
「ああ。落ちてたよ。ここのクリーニングは優秀だからな」
「そう。よかった。いくらかしら?」
「金はいい。ユニクロの安物だって言ったろ」
「ほんとうなの?」
「ああ。これもそうだ。セール品だったから三着でいくらだったかな」
 肘のあたりまで捲られたシャツ姿のウルフはファッション誌のアルマーニのモデルよりも男っぽい色気があった。筋肉質の腕は浅黒いつややかな肌に覆われている。
「うそみたい。わたし、高級品には目が利くはずなのに」
「どうせダイヤとジルコニアの区別もつかないんだろ?」
「うーん。それはそうかも」
「それに、クリーニングはここのサービスに含まれてるし、おれは宿泊費も払う必要ないから」
 立ち上がったウルフがジャケットを羽織る。わたしも立ち上がる。
 そして、ラウンジを出て、ふたりでエレベーターに乗り込む。
「今日はありがとう。とても美味しかったし、楽しかった」
「それはよかった」
 ウルフがボタンを押すと、エレベータの扉が閉まり、ふたりきりの空間になった。
 ガラス張りの壁の向こうには都心の煌びやかな夜景。それを背景にしたウルフのスーツ姿を目の前でまともに見てしまい、膝がちいさくふるえた。学生時代よりも大人になったウルフ。危険な大人の男の色気が周囲に充満している。
「なんか、いい匂いがする」ウルフがすこしわたしに近寄って鼻をひくつかせた。「香水か」
「あ、うん。あの、食事代はいくら払えばいいかしら」
「さっき言ったろ。宿泊サービスに含まれてるから無料だ」
「そう。クリーニング代を払うつもりで来たのに、なんだか、逆になっちゃった感じ」
「そうか?」
「うん。わたしだけトクしちゃった感じで悪いわ」
「ふぅん、そんなに何か礼を返したいんなら……」
 ウルフはそう言ってから、わたしの目をじっと見つめた。暗い瞳の奥が力強く光る。
 エレベーターの中が急に狭く感じた。
 ふたりきり。ふたりを乗せたエレベーターの箱が夜空に浮かんでいる。
 ウルフが一歩、大股で、わたしに近寄る。近くでみるとウルフの体の大きさに圧倒される。首が太く、肩幅が広くて胸板が厚い。
 わたしの胸がふくらみ、体が熱くなる。ウルフの瞳から目が離せない。
 ウルフがまた一歩、わたしの前に近づき、それから、わたしの両横の壁に手をつき、わたしを見下ろした。太い腕。大きな肩。逞しい首筋が迫ってきた。黒い瞳は欲望の色を湛えていて、ウルフの体からは香水とは違うもっと男らしい琥珀色の匂いが立ち上ってきた。
 まるで強力な磁石に引きつけられるように、わたしはウルフを見上げた。自然と唇が開いてしまう。わたしとウルフの唇が近づいていく。
 ダメよ。ダメ。これじゃあ、あのときの二の舞になる。
 逃げなきゃダメだとわかっているのに、わかっているのに、わたしの体は期待にふるえた。
「ん……っ」
 ふたりの唇が触れ合った瞬間、思わず喉の奥で声が漏れた。
 しっとりとしてやわらかな、あたたかい唇にぴったりと覆われて、快感が電流のように背筋を駆け下りていく。視界が霧で覆われ、脳が蜂蜜のように溶けて形を変える。舌を絡み合わせると、体の芯がじんじんとうずき始めた。
 舌の動きに合わせてわたしの胸とウルフの胸板が合わさると、ウルフが喉の奥でうめいた。
 もう何も考えられなかった。ここがエレベーターの中だということも、ウルフに会ったのが五年ぶりだということも、わたしに恋人がいることも、すべてがウルフの口づけによって爆破されて吹っ飛んでしまった。わたしはウルフの背中に手を回して抱き寄せた。そのとき、
 
 チン……

 金属音とともに、エレベーターの扉が開いた。
 そして、開いた扉の向こうに、長身の男性が立っていた。
 わたしとウルフは飛び上がるように驚いて、真っ二つに分かれた。
 わたしたちはいったい何をしていたの? また、キスしてしまったの?
 また理性を失ってしまった。
 扉の前に立つ男は、わたしたちと同じくらいの年だろうか。キスを見たのだろう。ひゅうっと口笛を吹いて、楽し気に口元に笑みを浮かべた。ダークブロンド色の髪とヘーゼル色の瞳が、純粋な日本人ではないことを物語っている。その男はウルフをみて「オウ」と言って目を丸くした。「ウルフじゃないか」
 ウルフも一瞬目を見開いてから、「カーター」と言った。ふたりは顔見知りのようだ。カーターと呼ばれた男はにやにやとしながら、わたしを眺めた。
「彼女か? おまえにもやっと」
「いや」ウルフがカーターのことばを遮る。
 エレベーターホールでわたしたち三人は向かい合った。ウルフが男を手で示した。
「元同僚だ。カーター」と紹介すると、カーターは「よろしく」と爽やかな笑みを向けてきた。
 そして、社交辞令的に「こちらは、リリィ」と紹介される。
「リリィ、か。どっかで聞いた名前だな……あ、七光商事の?」カーターが言う。
「はい」うなづく。
「ふぅん、なるほど」カーターは何か意味深な表情でうなづいた。そしてまた「なるほど」と言いながら少し鋭い視線でわたしを見る。
「いくぞ」ウルフはカーターに背を向けて、わたしの背中を手で押した。早くこの場を離れたいらしい。足早にホテルの出入口を通り抜ける。ぐらぐらと揺れる地面の上を歩くような眩暈を感じた。頭のなかが混乱している。
 ウルフとまたキスしてしまったことが自分のなかで納得できない。きっとウルフもそうなのだろう。口を閉じ、険しい表情で前を見据えて歩いている。
 五年前にしたキスの後、ウルフが蹴とばしたペットボトルが壁にぶつかった音を思い出した。そして『おれとおまえは違う』と言われたことも。
 まるで昨日のことのように鮮明に覚えている言葉が、また、いまウルフの口から発せられたような気がした。
 わたしたちは無言でオフィス街の中心にある大通りを歩いた。途中ですれ違ったサラリーマンと肩がぶつかったけれど、肩の痛みも無視して歩いた。
 そして、交差点で立ち止まる。
「じゃあ、おれはこっちだから」
「うん。じゃあね」
 そう言って、わたしたちはくるりと背を向けて、別れた。

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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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