第39話 報われない恋は、はい、次!

文字数 3,033文字

 二週間後。
 閑静な住宅街にあるマンションのリビングにはミモザの花びらのように明るい陽射しが降り注いでいる。
 サチの腕の中で小さなあかちゃんがほぎゃあと声をあげた。
「ほんと、かわいいわねー」
 わたしは自然と目を細めてしまう。親友が産んだ赤ちゃんがこんなにも可愛く思えるなんて、今までまったく知らなかった。名前はリア。女の子だ。
「まだ母親の実感がわかないわ。これから長ーい子育てが始まるなんて、現実を考えると気がとおくなりそう」
 サチがそう言ってうれしそうにほほ笑み、リアを胸に抱え、海の満ち引きのようにやさしく揺れる。
 女って不思議だ。どんな女性も、自分の赤ちゃんを産んだ瞬間にやさしい母親の顔になる。まるでもう何年も前からそうだったように、自分の子供を抱く姿は貫禄があって、慈愛に満ちた母親の表情そのものだ。本能がそうさせているのだろう。
 
 サチがリアを産んでちょうど二週間が経つ。
 あの夜、わたしにとっては、思い出したくもない自分史上最低最悪の出来事となったあの夜。ウルフと体だけの交わりを終えた瞬間にウルフをマンションの部屋から追い出してベッドの上でうずくまっていたときに、サチの出産報告がスマホに届いた。天国から地獄に落ちた瞬間にこころを救ってくれたのは、親友のうれしい報告だったのだ。
 翌日のわたしはウルフのことを頭から抹殺して、リアが誕生したお祝いに頭を切り替え、百貨店を歩き回ってオーガニックコットンのバスローブを選んでいた。それから数日かけてリアという名の刺繍入りのテディベアのぬいぐるみを作り、それらと花束とラデュレのマカロンの箱詰めを抱えて今日ここにリアの誕生を祝福しに来た。
 ウルフのことは、もう頭から抹殺したのだから、サチに話す必要はない。そう思っている。
「今日はほんとに来てくれてありがとうね。せっかく来てくれたのに、なんのおもてなしもできなくて、ごめんねー。大きいアップルパイ焼いておきたかったのに。出産後の体がこんなにも使い物にならないなんて、知らなかったわ」とサチが申し訳なさそうに言う。
 連日の授乳による寝不足と、出産による貧血状態が治っていないためにくまで覆われた瞳。それでもサチの表情はしあわせに輝いている。
「そんな、わたしなんかに気を使わなくていいわよ。リアちゃんに会えただけで十分。わたしこそ、なにも手伝えなくてごめんね。なにか食べたいものとか、買ってきてほしいものがあったら、わたしを執事としてこき使っていいんだからね」
「執事なリリィね。それなら『日の名残り』のスティーブンス風にカッコいいスーツを着てくれるともっと嬉しいんだけど。というのは冗談で、会いにきてくれただけで十分よ。なんか面白い話のネタがあるといいんだけど……」
 そう言ってサチがテーブルのすみに置いてある雑誌に目をやる。
「あ! そうそう、その雑誌、持ってっていいわよ。今月は面白い話題がなかったわ」
 サチの愛読書。サチをサチたらしめているゴシップネタ弾丸トークの宝庫だ。
 その週刊誌を手にしてパラっと開いたページの写真にわたしの目が留まった。長身の男性が病院だろうか、中庭のような場所で松葉づえをついている姿がスクープされている。腕と足には包帯が巻かれていて、日本人離れした体格は……
「え、これ、カーター?」
「そうだけど、リリィ、この男と知り合いなの?」
「うん。職場の近くで会ってちょっとしゃべったことがあるだけなんだけど。彼ってサチが知ってるほどの有名人だっけ?」
「リリィ、知らないの? 彼、メンズ系ファッション誌の読者モデルなんだけど、プロのモデルよりも人気があって、いま一番売れてるんじゃなかったかな。本業は金融マンとか何とか書いてあった気がする。なんかの事件に巻き込まれたみたいね。ボコボコにされて重症だったみたいだけど。事件っていうより、喧嘩とか? 犯人はわからないとか書かれているけど」
 カーター。
 あの日、丸の内のスタバで初めて面と向かいあった時、たしかにカーターは人目を惹く美貌だったことを思い出した。わたしを脅迫しておきながら、なんの罪悪感も感じていなかったあの態度すら蜂蜜のように甘い色気が漏れていて、普通の女性からみたら魅惑的だろう。
「モデルをやってたなんて、知らなかったわ。丸の内でみたときは普通のスーツを着たサラリーマンだったけど」
「ああ。こいつ、本業のほうでも有名だよ。金融系でかなり稼いでるらしいけど、あんまりいい噂じゃないな」とケイ君が横から顔を出す。「ボコボコにされて、いい気味だと思ってる人は多いかもなあ」
 ケイ君のその言葉に、なぜかウルフのことを思い出した。『殺してやる』と言っていた時の殺気立った表情が目に浮かぶ。けど、まさか、ね。
 わたしは頭を振った。ウルフが関係しているわけがない。なんでもウルフにこじつけて考えてしまうのは、まだ彼を吹っ切っていない証拠だ。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
 ウルフのことは、頭から抹殺したのだ。もう一生、彼のことは思い出さないって決めたのだ。恋に悩むのは、無駄。大学生活も、社会人生活も、わたしの若くて貴重な時代がすべてがウルフに対する渇望で終わってしまった。彼の愛を求めておきながら、自分の性欲のせいですべては壊れた。
 無駄な恋だった。わたしが無駄な恋をしているうちに、サチは本物の愛を育てて、リアという宝を手に入れた。すべての人に時間は平等に過ぎていくというのに、わたしの手には何も残らなかった。
 だから、もう二度と、ウルフには、恋しない。恋なんて不毛だもの。不毛なものに時間を費やせるほどに人生は長くない。
 わたしが恋に恋する乙女生活は、ジ・エンド。
 わたしは固く決意した。


 夕暮れに染まる街並みをひとり足早に歩いた。
 ヨーロッパ調の建物の1階に新しくできたベーカリーを発見し、焼きたてのクロワッサンとクルミ入りのアンパンを買った。
 あたたかいパンが入った紙袋を胸に抱えて横断歩道を渡ると、向かいのカフェのテラス席では顔を寄せ合い語り合う恋人たちの姿が目に入った。わたしと同じくらいの年ごろのカップルだ。
 すれ違うベビーカーを引いた夫婦の幸せそうなほほえみ。毛並みの良い犬を連れて歩くカップルの姿がわたしの視界を南国のそよ風のように流れていく。
 映画みたい、と思う。まるで、わたしだけがスクリーンのこちら側にいて、目の前に広がる世界に属していないような気分になる。
 わたしは今、どこにいるの? どこに属しているの? どんな将来に向かっているの?
 恋をしていないわたしはいつも地に足がついていない。
 けれど、これがわたしの人生なのだ。
 
 物思いに耽りながら歩き、自宅のマンションにたどり着いた。
 木製の扉にいつもと同じようにカードキーをかざそうとして、ふいに足が止まった。
「え…? なに、これ」
 扉の前に大きな花束が置かれていた。絨毯で覆われた床の上に。細かい粉のような花々が束ねられて、英字新聞で包まれている。
 思わず、しゃがんで取って、抱え上げてみる。
 それは真っ白い小さな花々が身を寄せ合っているカスミソウの花束だった。
 小さなしあわせを見つけながら生きていた幼い頃のわたしが大好きだった花。そしていまもずっと大好きな花。
 だけど、いったい誰が?
 花束には送付シールもカードも付いていない。
 送り主は不明だった。
 けれど、カスミソウの花束には見おぼえがあった。

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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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