第24話 大切にされたければ、彼に助けてもらいましょう。
文字数 2,417文字
幼いころから、大企業一家のひとり娘として、誘拐には気を付けるように言われて育った。
小学生の低学年のころまでは通学に護衛がついていた。けれど、日本は平和だ。この年になるまで一度も誘拐されたこともなければ、事件に巻き込まれたこともなかった。
だから、油断していたのだ。防犯ブザーも催涙スプレーも護身用スガンガンも、携帯していない。しかも、護身術も知らない。
わたしは足を後ろに蹴り上げた。けれど、思うように動くことができず、男の体に掠りもしなかった。
力いっぱい何度も何度も蹴り上げる。そのたびに男がわたしの首に回す腕が喉に食い込んだ。
大声を出そうにも、口を抑えられているせいで、まったく声にならない。
「う……ー!!やめて……!!」
「黙れ! イシと別れろって言っただろ。なぜ従わないんだ?! 別れなければ、ウルフとの密会をマスコミにバラすぞ!」
威嚇するような低い声に背筋が凍る。下手に抵抗したら、背中から射されたりするのだろうか。くやしくて涙があふれ出す。
「イシと別れろ!! わかったか!?」
言われていることを理解できないまま、わたしは大きく首を振った。
涙が頬を濡らし、鼻水が出て、嗚咽が漏れた。口を抑えられて、ことばが発せられないのだ。
すると、肩をうしろ側から引っ張られて地面に勢いよく押し倒された。
ドサ……ッ!!
「やぁ……いたっ…!!!」コンクリートにお尻の骨を思いきり強打し、激しい痛みで心臓が跳ねる。下半身が痺れ、起き上がることができない。
痛い!痛い!痛い!
目の前に覆いかぶさってきた男の顔は暗闇のなかで真っ黒く塗りつぶされている。
男は足でわたしの両足の動きを塞ぎ、片手でわたしの口を抑え、片手で肩を抑えてゆさぶりながら、ドスの効いた声で言う。
「別れないと、こんなもんじゃないぜ? 浮気をマスコミにバラせば、おまえん家の会社のクリーンなイメージは地に落ちるだろうな。今後の取引に支障が出るだろう。いいのか? イシと別れるんだ! わかったか!?」
めずらしい瞳の色。この瞳をもつ男は……カーター?
男の要望がぼんやりと理解できるようになった。けれど、恐怖と痛みのせいで意識が朦朧として、反応することができない。そのとき、
「おい! 何やってるんだ!」
男の背後から別の男の怒鳴り声がした。
すると、わたしに覆いかぶさっていた男は飛び上がるように起き上がり、わたしをまたいで走り去った。路地のむこうに足音が遠ざかっていく。
「大丈夫かっ…!!」
あとから来た男の影がわたしの前にしゃがみ込む。わたしは仰向けになって寝転がったまま、新しい男の姿をぼんやりと見上げた。
この男はなに? 助けてくれたの? それとも……?
襲ってきた男よりも大きくて厚い体格の影。明かりが届かない路地で、その男の顔も真っ黒く塗りつぶされている。
「おい、大丈夫か? 怪我してるのか?」男に腕をつかまれ、ゆさぶられる。
「いたい……」
「ん? リリィ? リリィなのか?! くそっ」
わたしの目をのぞき込む顔がうっすらと見える。意志の強そうな太い眉が心配そうに寄せられている。
「あ……」
「おれだ! ウルフだ」暗闇でもわかるアイスグレーの瞳。懐かしいあの瞳だ。冬山に潜む孤独な狼のような瞳。
「ウルフ……?」
ウルフがわたしの背中を抱えて上半身を起こそうとする。身を起こそうとすると、思わずうめき声が出た。
「痛むか? 何されたんだ? 怪我は? 殴られたのか?!」
「なにもされていない。ただ、おしり……打って、いたい」
「尻か……。起き上がれるか?」
「しびれてて無理……かも。肩も……いたい」
ウルフがわたしの膝の下に手を入れて持ち上げる。
「首に手かけて」
肩の痛みに耐えながら、おそるおそるウルフの首に腕を回すと、軽々と抱き上げられた。
「よし。もう大丈夫だ」ウルフのやさしい声に瞼の裏が熱くなる。安堵の涙が流れた。
ウルフはタクシーを止め、後部座席にわたしを先に乗せて、隣にするりと乗り込んだ。
「なにがあったんだ?」
♢
「後ろから急に引っ張り込まれて……」言い始めたわたしをウルフは「ちょっと待って」と手で制する。
「まず病院に連れていく」
「病院なんて行かない!どこも怪我していないから」
「でも尻を打ったんだろ。頭は打ってないか? 肩は? 念のために診てもらったほうが」
「頭は打ってないわ。それに、病院は絶対にだめ!ニュースになったら困るの。会社に迷惑がかかるわ。もし明日どこかが酷くなってたら、自分で行くから大丈夫」
「そうか。そういうのなら、しょうがないな……。じゃあ、骨が折れてないかだけ確認しよう」
一分後、わたしはウルフに抱えられてエレベーターに乗っていた。
先日キスをしたホテル。
だけど、先日とは違うレジデンス棟専用エレベーターだ。他人の目に触れないように裏口に設置されている。
ウルフの腕に抱えられる姿はまるでお姫様抱っこ。だれどウルフに甘い雰囲気は皆無だ。眉を寄せて険しい表情をし、口をつぐんでいる。
この体勢ではウルフの首すじに顔を寄せる形となってしまう。滑らかな肌に覆われたたくましい首筋からは男らしい匂いが立ち上ってきて、わたしの鼻孔を甘く満たす。洋酒の匂いを嗅いだような酔いを感じ、心臓がばくばくと音を立てる。唇が合わさっているわけではないのに、あのときと同じ欲望という名の衝動が襲ってくる。下半身まで熱くなってくるから、わたしは足を閉じて体をよじった。
「じっとしてろって」
「ごめん。あの……助けてくれて、ありがとう。どうしてあそこに来たの?」
「たまたま通りがかったら叫び声がしたから、のぞいてみたんだ。前からあの場所は危険だと思ってた」
「そうなの?」
「ああ。ヤクの受け渡し場所に使われることもある」
エレベーターは58階で止まり、ウルフはわたしを抱えたまま足早に廊下を進んだ。
そして、いちばん奥にある重厚な扉をカードキーで開けた。
小学生の低学年のころまでは通学に護衛がついていた。けれど、日本は平和だ。この年になるまで一度も誘拐されたこともなければ、事件に巻き込まれたこともなかった。
だから、油断していたのだ。防犯ブザーも催涙スプレーも護身用スガンガンも、携帯していない。しかも、護身術も知らない。
わたしは足を後ろに蹴り上げた。けれど、思うように動くことができず、男の体に掠りもしなかった。
力いっぱい何度も何度も蹴り上げる。そのたびに男がわたしの首に回す腕が喉に食い込んだ。
大声を出そうにも、口を抑えられているせいで、まったく声にならない。
「う……ー!!やめて……!!」
「黙れ! イシと別れろって言っただろ。なぜ従わないんだ?! 別れなければ、ウルフとの密会をマスコミにバラすぞ!」
威嚇するような低い声に背筋が凍る。下手に抵抗したら、背中から射されたりするのだろうか。くやしくて涙があふれ出す。
「イシと別れろ!! わかったか!?」
言われていることを理解できないまま、わたしは大きく首を振った。
涙が頬を濡らし、鼻水が出て、嗚咽が漏れた。口を抑えられて、ことばが発せられないのだ。
すると、肩をうしろ側から引っ張られて地面に勢いよく押し倒された。
ドサ……ッ!!
「やぁ……いたっ…!!!」コンクリートにお尻の骨を思いきり強打し、激しい痛みで心臓が跳ねる。下半身が痺れ、起き上がることができない。
痛い!痛い!痛い!
目の前に覆いかぶさってきた男の顔は暗闇のなかで真っ黒く塗りつぶされている。
男は足でわたしの両足の動きを塞ぎ、片手でわたしの口を抑え、片手で肩を抑えてゆさぶりながら、ドスの効いた声で言う。
「別れないと、こんなもんじゃないぜ? 浮気をマスコミにバラせば、おまえん家の会社のクリーンなイメージは地に落ちるだろうな。今後の取引に支障が出るだろう。いいのか? イシと別れるんだ! わかったか!?」
めずらしい瞳の色。この瞳をもつ男は……カーター?
男の要望がぼんやりと理解できるようになった。けれど、恐怖と痛みのせいで意識が朦朧として、反応することができない。そのとき、
「おい! 何やってるんだ!」
男の背後から別の男の怒鳴り声がした。
すると、わたしに覆いかぶさっていた男は飛び上がるように起き上がり、わたしをまたいで走り去った。路地のむこうに足音が遠ざかっていく。
「大丈夫かっ…!!」
あとから来た男の影がわたしの前にしゃがみ込む。わたしは仰向けになって寝転がったまま、新しい男の姿をぼんやりと見上げた。
この男はなに? 助けてくれたの? それとも……?
襲ってきた男よりも大きくて厚い体格の影。明かりが届かない路地で、その男の顔も真っ黒く塗りつぶされている。
「おい、大丈夫か? 怪我してるのか?」男に腕をつかまれ、ゆさぶられる。
「いたい……」
「ん? リリィ? リリィなのか?! くそっ」
わたしの目をのぞき込む顔がうっすらと見える。意志の強そうな太い眉が心配そうに寄せられている。
「あ……」
「おれだ! ウルフだ」暗闇でもわかるアイスグレーの瞳。懐かしいあの瞳だ。冬山に潜む孤独な狼のような瞳。
「ウルフ……?」
ウルフがわたしの背中を抱えて上半身を起こそうとする。身を起こそうとすると、思わずうめき声が出た。
「痛むか? 何されたんだ? 怪我は? 殴られたのか?!」
「なにもされていない。ただ、おしり……打って、いたい」
「尻か……。起き上がれるか?」
「しびれてて無理……かも。肩も……いたい」
ウルフがわたしの膝の下に手を入れて持ち上げる。
「首に手かけて」
肩の痛みに耐えながら、おそるおそるウルフの首に腕を回すと、軽々と抱き上げられた。
「よし。もう大丈夫だ」ウルフのやさしい声に瞼の裏が熱くなる。安堵の涙が流れた。
ウルフはタクシーを止め、後部座席にわたしを先に乗せて、隣にするりと乗り込んだ。
「なにがあったんだ?」
♢
「後ろから急に引っ張り込まれて……」言い始めたわたしをウルフは「ちょっと待って」と手で制する。
「まず病院に連れていく」
「病院なんて行かない!どこも怪我していないから」
「でも尻を打ったんだろ。頭は打ってないか? 肩は? 念のために診てもらったほうが」
「頭は打ってないわ。それに、病院は絶対にだめ!ニュースになったら困るの。会社に迷惑がかかるわ。もし明日どこかが酷くなってたら、自分で行くから大丈夫」
「そうか。そういうのなら、しょうがないな……。じゃあ、骨が折れてないかだけ確認しよう」
一分後、わたしはウルフに抱えられてエレベーターに乗っていた。
先日キスをしたホテル。
だけど、先日とは違うレジデンス棟専用エレベーターだ。他人の目に触れないように裏口に設置されている。
ウルフの腕に抱えられる姿はまるでお姫様抱っこ。だれどウルフに甘い雰囲気は皆無だ。眉を寄せて険しい表情をし、口をつぐんでいる。
この体勢ではウルフの首すじに顔を寄せる形となってしまう。滑らかな肌に覆われたたくましい首筋からは男らしい匂いが立ち上ってきて、わたしの鼻孔を甘く満たす。洋酒の匂いを嗅いだような酔いを感じ、心臓がばくばくと音を立てる。唇が合わさっているわけではないのに、あのときと同じ欲望という名の衝動が襲ってくる。下半身まで熱くなってくるから、わたしは足を閉じて体をよじった。
「じっとしてろって」
「ごめん。あの……助けてくれて、ありがとう。どうしてあそこに来たの?」
「たまたま通りがかったら叫び声がしたから、のぞいてみたんだ。前からあの場所は危険だと思ってた」
「そうなの?」
「ああ。ヤクの受け渡し場所に使われることもある」
エレベーターは58階で止まり、ウルフはわたしを抱えたまま足早に廊下を進んだ。
そして、いちばん奥にある重厚な扉をカードキーで開けた。