第16話 恋されたければデートの申し込みは一週間前に締め切らなくてはいけません
文字数 2,848文字
サチからもらったファッション誌を毎晩眺めることが習慣になってから二週間が経った。
たった一枚の写真が脳裏にこびりつき、なにをしていても頭の片隅でウルフに見つめられているような気がしている。
どんなに凄い価値があると言われる美術展に行っても、その後二週間も作品が視界にチラつくなんてことはなかったのに。ウルフの写真が脳にあたえる影響力は高価な芸術品を上回るなんてことは認めたくない。
そんなある日、イシ君から『今日仕事でリリィのオフィスの近くまで行くから、夕方に少しだけ会えるかな? 渡したいものがあるんだ』というメールが入った。
基本的に当日のデートのお誘いは受けないことをルールとしているけれど、イシ君に恋されてもされなくてもどうでもよくなっているため、『了解』と返信した。
ちなみに、恋されるルール的には、デートの申し込みは一週間前までに締め切らなくてはいけない。簡単につかまる女性になってしまってはいけないからだ。簡単につかまり、簡単に会える女性になってしまうと、コンビニみたいに利用しやすい女性になってしまい、価値がさがり、使い捨てナプキンのように粗末に扱われることになるからだ。
だから、恋されたいときは、決して、当日の申し込みを受けてはいけない。『ごめんなさい。予定がはいっています』という返信が恋される女性の正しいふるまい方だ。
珍しく早く仕事を終えられて、わたしはメイクルームでメイクを直した。仕事中にゆるくシニヨンにしておいた髪をほどくと、背中でゆるくウェーブを描いた。
シャトルエレベーターでおりてホールを抜け、オフィスのエントランスに向かう。
ガラス張りのエントランスの脇には大きめのソファがいくつか並んでいる。そこにイシ君の姿があった。
「リリィ! 急に呼んでしまってごめんね。どうしても今日渡したかったからさ」
そう言って、背後からなにかを取って、わたしの目の前に出した。
花束だった。ピンク色の薔薇の花束。
「わぁ、綺麗! どうしたの? これ」
「半年の記念日だよ」
「え? なんの?」
みあげると、イシ君がうれしそうに笑っている。本当にしあわせそうに笑う人だと思った。怒ったり不機嫌になったところを見たことがない。いつも笑みを浮かべている口元が大きく弧を描く。
「きみに出会って、今日でちょうど半年なんだよ。だから、記念にプレゼントしたくて」
「そうなの? 知らなかった」
イシ君がわたしと出会った日を覚えていたことに驚いたし、わたしがその日のことをほとんど覚えていないことにも驚いた。
「普通はこういうのって女性のほうが覚えてるもんだよね」
「そうよね……ごめんなさい」
「いや、そういう君がいいんだよ」
「どういう意味?」
「普通の女の子は、記念日を覚えてないと怒ったり泣いたりして面倒なんだけどさ。リリィはそういうの全然気にしてないから。そういうところが好きなんだよ」と言ってイシ君は笑った。
いままできっと沢山の女性と付き合って、記念日に面倒な思いをしたんだろうと思うと、過去の彼女たちに同情してしまう。女性は恋に落ちると、彼とのあらゆる出来事にかんして記憶力抜群になって記念日と称して覚えているものだ。それが女性の本能。だとすると、わたしはやっぱりイシ君には恋していないのだろうか。
「ありがとう……。とてもうれしいわ。ピンクのバラ、大好きなの」
わたしが花束を胸元に抱えると、イシ君は満足げにほほ笑んだ。
「気に入ってくれてよかった。そろそろ、本気で結婚を考えてくれるとうれしいんだけど。父がつぎの事業を展開する前には身を固めておきたいんだ。会社の権力闘争に巻き込まれたくないからね」
「そうなのね……。もう少しだけ考えさせてくれる? まだあなたのことをよく知らないから……」
結婚の話を持ち出されると、なぜか気が重くなってしまう。この花束も、わたしに結婚を決意させるための道具なんじゃないかという気がしてしまうのだ。
「いやいや、焦らせちゃってごめん。ゆっくり考えてくれていいから」
「ありがとう」
「じゃあ、ぼくは行くね。いまからドバイの役員とZoomミーティングなんだ。急いでオフィスに戻らないと」
「忙しいのに、わざわざ来てくれたのね。本当にありがとう」
「そこに車を待たせてるから、行くね。また夜、電話するよ」
イシ君はそう言って、黒塗りの外車に乗り込む。そして、車は走り去っていった。
オフィスのエントランスを出ると、秋の夕暮れの空がオフィス街をオレンジ色に染めていた。
急ぎ足のサラリーマンたちと列をなして、わたしはバラの花束を抱えて歩く。
花束をもってオフィス街を歩くのは初めてだ。なんだかフランス映画のワンシーンみたいじゃない?と思って笑みがこぼれた。
横目に並ぶ大きなガラス扉をみると、そこには一見しあわせそうにみえるOLが映っていた。
安定した仕事。企業の将来性。お気に入りのファッションにスリムな体。ハイスペックな彼氏。出会って半年目記念日。そして、ピンク色の花束。世間一般にしあわせと言われるものをすべて持っているわたし。これ以上にないほどに、恵まれているわたし。きっと数年後にはイシ君と結婚して、しあわせそうな家庭を作るのだろうと思う。そして、母のようにおだやかな人生を送るのだろうと思う。世間一般からみるとしあわせそうな人生。
それなのに、心に空いた穴には隙間風が吹いているこの感覚。これは、なに? これは人間の本能なのだろうか。あらゆるものを手に入れて満たされた気がしても、すぐに背後から襲ってくる虚しさ。これは誰にでもある感情なのだろうか。生存本能から派生した恒常的な感情なのだろうか。
空をみあげると、オレンジ色から橙色に流れるようなグラデーションが美しい。
いつもよりも遠回りして帰ろうと思って通りを右折し、広い歩道に出て歩いた。
皇居のまわりをぐるりと囲うお堀にも夕暮れの色が反射して、あたりは幻想的な橙色に染まっていた。
さわやかな秋の風が髪をゆらし、手元からは薔薇のほのかな香りが立ち上ってくる。
夕暮れの空をカモメが二羽並んで飛んでいる。
わたしは歩きながら、胸の中の薔薇の花束に顔をつっこんだ。そして、大きく息を吸って、薔薇の香りで胸を満たした。
悪くない。わたしの人生は、とても順調。これが女のしあわせというものよ。こころの中でそう唱えて、頭でそう考えた。だから、不満なんか何もない。これがわたしの人生なのよ。
薔薇の花束から顔をあげ、歩道を左折しようとしたとき、
ドン………っ!!!
「きゃあ……っ!」
「うゎ」
大柄な男性と勢いよく正面衝突した。
反動で後ろに跳ね返ったわたしの体をその男性に抱えられる。
「ご、ごめんなさ……」
白いワイシャツに覆われた厚い胸板に視界を覆われ、思わず顔をあげる。すると、そこにはわたしを見下ろす二対の黒い瞳があった。驚きに見開いている。
橙色の空を背景に、大きくて逞しい黒い影。
それは、ウルフだった。
たった一枚の写真が脳裏にこびりつき、なにをしていても頭の片隅でウルフに見つめられているような気がしている。
どんなに凄い価値があると言われる美術展に行っても、その後二週間も作品が視界にチラつくなんてことはなかったのに。ウルフの写真が脳にあたえる影響力は高価な芸術品を上回るなんてことは認めたくない。
そんなある日、イシ君から『今日仕事でリリィのオフィスの近くまで行くから、夕方に少しだけ会えるかな? 渡したいものがあるんだ』というメールが入った。
基本的に当日のデートのお誘いは受けないことをルールとしているけれど、イシ君に恋されてもされなくてもどうでもよくなっているため、『了解』と返信した。
ちなみに、恋されるルール的には、デートの申し込みは一週間前までに締め切らなくてはいけない。簡単につかまる女性になってしまってはいけないからだ。簡単につかまり、簡単に会える女性になってしまうと、コンビニみたいに利用しやすい女性になってしまい、価値がさがり、使い捨てナプキンのように粗末に扱われることになるからだ。
だから、恋されたいときは、決して、当日の申し込みを受けてはいけない。『ごめんなさい。予定がはいっています』という返信が恋される女性の正しいふるまい方だ。
珍しく早く仕事を終えられて、わたしはメイクルームでメイクを直した。仕事中にゆるくシニヨンにしておいた髪をほどくと、背中でゆるくウェーブを描いた。
シャトルエレベーターでおりてホールを抜け、オフィスのエントランスに向かう。
ガラス張りのエントランスの脇には大きめのソファがいくつか並んでいる。そこにイシ君の姿があった。
「リリィ! 急に呼んでしまってごめんね。どうしても今日渡したかったからさ」
そう言って、背後からなにかを取って、わたしの目の前に出した。
花束だった。ピンク色の薔薇の花束。
「わぁ、綺麗! どうしたの? これ」
「半年の記念日だよ」
「え? なんの?」
みあげると、イシ君がうれしそうに笑っている。本当にしあわせそうに笑う人だと思った。怒ったり不機嫌になったところを見たことがない。いつも笑みを浮かべている口元が大きく弧を描く。
「きみに出会って、今日でちょうど半年なんだよ。だから、記念にプレゼントしたくて」
「そうなの? 知らなかった」
イシ君がわたしと出会った日を覚えていたことに驚いたし、わたしがその日のことをほとんど覚えていないことにも驚いた。
「普通はこういうのって女性のほうが覚えてるもんだよね」
「そうよね……ごめんなさい」
「いや、そういう君がいいんだよ」
「どういう意味?」
「普通の女の子は、記念日を覚えてないと怒ったり泣いたりして面倒なんだけどさ。リリィはそういうの全然気にしてないから。そういうところが好きなんだよ」と言ってイシ君は笑った。
いままできっと沢山の女性と付き合って、記念日に面倒な思いをしたんだろうと思うと、過去の彼女たちに同情してしまう。女性は恋に落ちると、彼とのあらゆる出来事にかんして記憶力抜群になって記念日と称して覚えているものだ。それが女性の本能。だとすると、わたしはやっぱりイシ君には恋していないのだろうか。
「ありがとう……。とてもうれしいわ。ピンクのバラ、大好きなの」
わたしが花束を胸元に抱えると、イシ君は満足げにほほ笑んだ。
「気に入ってくれてよかった。そろそろ、本気で結婚を考えてくれるとうれしいんだけど。父がつぎの事業を展開する前には身を固めておきたいんだ。会社の権力闘争に巻き込まれたくないからね」
「そうなのね……。もう少しだけ考えさせてくれる? まだあなたのことをよく知らないから……」
結婚の話を持ち出されると、なぜか気が重くなってしまう。この花束も、わたしに結婚を決意させるための道具なんじゃないかという気がしてしまうのだ。
「いやいや、焦らせちゃってごめん。ゆっくり考えてくれていいから」
「ありがとう」
「じゃあ、ぼくは行くね。いまからドバイの役員とZoomミーティングなんだ。急いでオフィスに戻らないと」
「忙しいのに、わざわざ来てくれたのね。本当にありがとう」
「そこに車を待たせてるから、行くね。また夜、電話するよ」
イシ君はそう言って、黒塗りの外車に乗り込む。そして、車は走り去っていった。
オフィスのエントランスを出ると、秋の夕暮れの空がオフィス街をオレンジ色に染めていた。
急ぎ足のサラリーマンたちと列をなして、わたしはバラの花束を抱えて歩く。
花束をもってオフィス街を歩くのは初めてだ。なんだかフランス映画のワンシーンみたいじゃない?と思って笑みがこぼれた。
横目に並ぶ大きなガラス扉をみると、そこには一見しあわせそうにみえるOLが映っていた。
安定した仕事。企業の将来性。お気に入りのファッションにスリムな体。ハイスペックな彼氏。出会って半年目記念日。そして、ピンク色の花束。世間一般にしあわせと言われるものをすべて持っているわたし。これ以上にないほどに、恵まれているわたし。きっと数年後にはイシ君と結婚して、しあわせそうな家庭を作るのだろうと思う。そして、母のようにおだやかな人生を送るのだろうと思う。世間一般からみるとしあわせそうな人生。
それなのに、心に空いた穴には隙間風が吹いているこの感覚。これは、なに? これは人間の本能なのだろうか。あらゆるものを手に入れて満たされた気がしても、すぐに背後から襲ってくる虚しさ。これは誰にでもある感情なのだろうか。生存本能から派生した恒常的な感情なのだろうか。
空をみあげると、オレンジ色から橙色に流れるようなグラデーションが美しい。
いつもよりも遠回りして帰ろうと思って通りを右折し、広い歩道に出て歩いた。
皇居のまわりをぐるりと囲うお堀にも夕暮れの色が反射して、あたりは幻想的な橙色に染まっていた。
さわやかな秋の風が髪をゆらし、手元からは薔薇のほのかな香りが立ち上ってくる。
夕暮れの空をカモメが二羽並んで飛んでいる。
わたしは歩きながら、胸の中の薔薇の花束に顔をつっこんだ。そして、大きく息を吸って、薔薇の香りで胸を満たした。
悪くない。わたしの人生は、とても順調。これが女のしあわせというものよ。こころの中でそう唱えて、頭でそう考えた。だから、不満なんか何もない。これがわたしの人生なのよ。
薔薇の花束から顔をあげ、歩道を左折しようとしたとき、
ドン………っ!!!
「きゃあ……っ!」
「うゎ」
大柄な男性と勢いよく正面衝突した。
反動で後ろに跳ね返ったわたしの体をその男性に抱えられる。
「ご、ごめんなさ……」
白いワイシャツに覆われた厚い胸板に視界を覆われ、思わず顔をあげる。すると、そこにはわたしを見下ろす二対の黒い瞳があった。驚きに見開いている。
橙色の空を背景に、大きくて逞しい黒い影。
それは、ウルフだった。