第15話 五年後 好きではない相手には簡単に恋されるふるまいができるもの

文字数 3,933文字

 
 五年後。
 東京、丸の内。

「だいぶ大きくなってきたよね。スイカみたい。重たいんじゃない?」
「重たいよー。ときどき思いっきり蹴るし。元気なのはいいことだけど、早くここから出してあげたいわ」
 サチは妊娠9か月目。大きなおなかが目立ってきた。
 丸の内にあるオフィスビルのテラス席は初秋の良い天気に向いている。サチが着るケイト・スペードのスカイブルーのワンピースがよく映える。
「元気なのはいいことよ。どんどん食べて? わたしの分もあげるから。これ、どうぞ」と言ってわたしはお皿からカニクリームコロッケを箸で摘まんでサチのお皿に乗せる。
「えーいいの? もらっちゃうよ? これ、めちゃくちゃ美味しいもん。ここのコロッケは丸の内一美味しいよね」
「どうぞどうぞ。赤ちゃんの分も食べなくっちゃね。生まれる前から舌が肥えちゃうだろうけど」
 サチは大学を卒業後に不動産会社に就職し、2年前にケイ君と結婚して、いまは産休中だ。ペニンシュラホテルで行われた結婚式でわたしは彼女のためにジャズピアノの演奏をしたことを昨日のことのように覚えている。
「リリィ、食欲ないの? さいきんまた痩せたんじゃない? カモシカ足がフラミンゴっぽくなってきたわよ」
「ううん、食欲はふつうにあるんだけどね。お昼に食べ過ぎると午後眠くなっちゃって困るのー。睡魔との激しい戦い」
「あーわかるわかる! 戦いだよね。わたしも仕事してたときはお昼はサラダとコーヒーだけにしたりしてたわ」
「今日中に仕上げなきゃいけない報告書があるから、今日は残業決定……。だから、デザートもあげる」と言って、苺プリンをサチのほうに押しやると、サチはすぐさま手にとって、うれしそうに笑った。
 そのとき、テーブルの上にあるサチのスマホが鳴った。
「あ、ケイ君からまたメールだわ」と言って嬉しそうにスマホを開く。「リリィがこないだ教えてくれたとおり、こっちからメールしないとケイ君のほうからいっぱい来るようになったの。すごいね、リリィのルールって」
「効くでしょ? 男なんて簡単なのよ」
 産休に入って時間に余裕ができたサチは、ことあるごとにケイ君にメールを送るようになり、返信が来ないと苛立って夫婦喧嘩が増えたと言ってわたしに泣きついてきた。それまで誰にも内緒にしていた自分流の恋されるルールを初めてそのときサチに教えたのだ。初心者にはまず、たくさんあるルールの中でもいちばん実践しやすいルール『こちらからは連絡してはいけない』だけを伝授するといいと思って、そうしたのだ。
「リリィは最近どうなの? イシ君っていったっけ? 石油会社の御曹司。順調? 」
「まあね。順調といえば順調よ」
 わたしはそう言ってスマホを取り出して、タップしてみせた。
 受信フォルダの中はイシ君からのメールでぎっしりだ。
『いま電車の中。リリィちゃんも今日もがんばってね』
『今日はいい天気だね』
『リリィ、愛してるよ』
『週末のデートが楽しみだね』
『いい店をみつけたんだ。リリィが好きそうなゴージャスな店だよ』
などなど、イシ君から一方的に送られてくるメールに対して、わたしは一通『そうね』しか返信していない。気まぐれに、たまに返信するだけ。これが恋されるルールなのだ。それほど好きではない相手には簡単に実践できてしまうので、簡単に恋されてしまう。
 イシ君というのは、わたしが半年ほど前から付き合っている彼氏のことだ。仕事の共同案件で知り合い、その案件が終わったあとの打ち上げという名の食事会で初めて顔を合わせてひとめぼれされ、その後、一対一の食事に誘われて、三回目の食事で付き合ってほしいと言われ、特になんの障害も喧嘩もなく、プロポーズされつづけている。けれど好きかどうか聞かれるとこたえられないのだ、まだ。
 大学時代に作った自己流の恋されるルールを実践していただけで、自然に恋されて、リードされて、大切にされて、尽くされて、プロポーズされるという流れが簡単すぎて、いまいち恋愛気分になれないのだと思う。
「順調といえば順調って、なによそれ(笑)。リリィっていつも恋愛では冷めてるわよね」と言ってサチが笑う。「あんなにカッコいいイシ君にプロポーズされてるのに、全然浮かれないのがすごいわ」
 イシ君は石油会社の跡取り息子(28歳)ということで世間一般の女性からはモテるらしい。けれど、商社の跡取り娘のわたしからみれば富裕層同士で同じ穴の狢だからか、彼にたいしてなにも感じないのだ。恋心が刺激されない。わたしのハートがびくともしないのだ。
「なーんか最近、恋愛とか結婚に興味がなくって。自分のことよりも、うちの会社の将来が気になるわ」
「もーリリィってば、いつから仕事人間になっちゃったの? せっかく美人で適齢期なんだから、恋しなきゃもったいないわよ! ……あ! そうそう! そういえば、ここに来る前に本屋で見つけたんだけどさ」
 サチはそう言って大きなナイロン製のバッグからファッション誌を取り出した。
「え、なに? 雑誌?」
「これこれ、みてよ!」
 ページをめくってみせる。女性用ファッション誌なのに、そのページのモデルは男性ばかりのようだ。
「『港区で働くイケメン・エリート特集』?」
「ここ! みて!」
 サーモンピンク色のサチのネイルが指すところをみると……
 ダークグレーの高級スーツに身を包み、両手をポケットに突っ込んで、気だるげに立つ男性の姿があった。日本人ばなれした長身に大きな肩幅と分厚い胸板……。
 ウルフ…………!!
 紙面上でとんでもない色気を発しているその男性は、ウルフだった。まるでイタリア系モデルのようにスーツを着こなしている。いや、彼が着ればスーツだろうが安物のシャツだろうが、信じられないくらい魅力的になるのだ。
「ウルフじゃん、あいかわらずチャラいねー」
 わたしは声をおさえ、カジュアルな雰囲気を装ってそう言った。
 けれど、心臓がどきどきと激しく音を立て始めた。5年ぶりにみるウルフの姿は、記憶の中のウルフよりも大人びて逞しくなっていた。すこし目元にかかる黒髪。凛々しい眉。グレーがかった黒い瞳。彫刻のようにたくましくて美しい頬骨と輪郭。そして、形の良い唇。
「あれ? リリィって大学の時、ウルフのこと気に入ってなかったっけ? もっと喜んでくれるかと思ってこの雑誌買ってきたんだけど」
「そうだっけ? 目立ってたから見てただけかも。あんまり覚えてないけど」
「みてよ、ここ。投資会社の役員って書いてあるでしょ? うちらよりも年下でまだ若いのにすごいよね。ここみてすぐに書店でケイ君に電話しちゃった。ケイ君も投資会社で働いてるでしょ? だから知ってるかと思って」
 高級外車にもたれるようにして立つウルフの写真の脇に、『26歳。某投資会社 役員』と書いてある。そして、美人OLの小さな写真と吹き出しに『いま投資業界でいちばん有名なモテモテ・エリート・イケメンです!』と書いてある。
「ケイ君が言ってたんだけどね、ウルフって、投資業界でいま一番若くてやり手だって有名らしいよ。新卒で外資の投資会社に入ってしばらくトレーダーやってたらしいんだけど、すごい業績をあげて、アメリカの本社に引き抜かれて、ニューヨークで働いてたらしいの。三か月前に帰国して、数人で新しい投資会社を立ち上げたんだって。それがうまく当たって、いまその会社、めっちゃくちゃ儲けてるらしいよ」
「へー」
 興味がないふりを装いながら、わたしの耳はダンボになっていた。羽のように広がった耳で空を飛べそうだ。
 大学を卒業してからずっと、わたしはウルフのことを頭から追い出していた。記憶から抹殺していた。ウルフと関わった期間はわたしにとっての暗黒時代みたいなものだ。初めての恋に脳内がお花畑状態になって自制心を失い、恋の芽を踏みつぶすような言動をとり、粗末に扱われてプライドがズタズタになったという暗黒時代。二度と思い出したくないと思っていたのに。
 写真の中のウルフの魅力にこころを奪われていく。
 どうしてこんなにも惹かれてしまうのだろう。ただのイケメンというだけでなく、そう、この瞳。暗闇でアイスグレーに光る目をもつあのハスキー犬を思い出すからなのかもしれない。
「ウルフって謎だったよねー」サチはプリンを口に運んでから、遠い目をして言う。「モテモテだったのに、ステディな彼女はつくらなくて。遊んでるっていう噂なのに、実際には奨学金返済でバイトばかりしていたし。じつはちゃんと勉強してて、成績優秀だったのかもね」
 ウルフの頭の良さはなんとなく感じていた。わたしたち金持ち学生がもつ机上な学力とは違う。地に足がついた現実的な頭の良さと、身をもって苦労して身に付いた社会的感性。それをウルフはもっていて、いまうまく生かせているのだと思う。バイトに明け暮れていた日々から解放されて、いまは余裕のある生活を送っているのだろうか。彼女はいるのだろうか。それとも結婚しているのだろうか。もしかして、子供もいたりするのだろうか。
 ぐるぐると回る思考は止まることなく加速し、写真の中のウルフから目を離せない。
 思わずため息をついて目をあげると、壁にかかった時計が目に入った。 
「あ! そろそろ会社に戻らなくっちゃ。お昼休み終わってる……!」
「ほんとだ! 急いで! これ、リリィにあげるわ。持ってかえるの重たいし」
 サチから雑誌を受け取って、それを胸に抱え、わたしはオフィスに走って戻った。 
 目に焼きついた写真の中のウルフの姿が脳内を浸食していく。ポケットの中ではイシ君からのメールを受信したスマホが振動していたが、それを開いてみる気にもならなかった。
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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