第18話 恋されて大切にされたければメールの返信は一晩寝かせましょう

文字数 3,964文字

 そもそも恋って何だろう。
 恋心は人間のこころのもっとも純粋で本能的な部分なのだと思う。それは幼い頃の経験にもとづいたさまざまな感情の総体なのかもしれない。それらの感情を相手に投影して味わっているのが恋の正体なのかもしれない。わからない。
 けれど、恋は、ささいな日常をまるで色とりどりの宝石のように輝かせるもの。だから、無視したくてもできない。
 恋は人間の本能の一部なのだ。




 翌朝の通勤電車の中でスマホを確認すると、受信フォルダには十通のメールが届いていた。すべてイシ君からだった。
『花は気に入ってくれたかな? リリィに似合うと思ったんだ』『じつは母が好きな花なんだ』『来週のデートでは何が食べたい?』『リリィ、おやすみ』『リリィちゃん、おはよう』『今日も仕事がんばってね』などなど、見慣れた文面が並んでいる。いつものことだ。
 人は、自分が送ったメールにたいして返信がないと、不安になってさらにメールを送ってしまうものだ。そして、それにも返信がないと、さらに不安になってメールを送ってしまい、不安なきもちが刺激となり、相手に対する好奇心にもなり、それを恋と勘違いしてしまうものだ。
 わたしが学生時代に作った恋されるルールにも『こちらからはメールをしない』というルールがある。こちらからメールをすると、こちらの恋心だけ育ち、代わりに相手の恋心が萎えるからだ。
 そして、このルールは、それほど好きではない相手には自然と実践しているふるまいなのだ。だから、好きではない相手には自然と好かれてしまうことが多いのが世の常だ。
 とくにデートなどで彼が盛り上がっている日にメールの返信をしないと、彼はいつも以上に不安になり、デートの内容を反省し、自分の言動を顧みて彼女への想いを募らせ、その過程で恋心の芽を勝手に加速度的に育てていくものだ。
 だから、恋されたけば、『デートの翌日までメールの返信を遅らせましょう』というルールはかなり効き目がある。恋愛における劇薬みたいなルールだと言ってもいい。
 普通の女性はデートをした日の夜にはいつもよりも重たいメールを送るものだけど、皮肉なことに、それとは逆のふるまいをすると恋されて大切にされるのだ。
 わたしは、イシ君を恋に落とすつもりなどないのに、無関心ゆえにとった言動で結果的にイシ君のきもちを加速させてしまっている。



 「イシ君とは順調なの?」 
 甘味のわらび餅に手をつける段階になって、母は切り出した。
 今日は月に一度の母と食事をする日だ。 
 銀座の料亭の個室で秋の懐石コース料理を食べながら、わたしは仕事の経過や会社の将来性などを話した。けれど、母は会社の未来には興味がないようで、うなづきながらも上の空の様子だった。
 そんな母の目がきらめくのは、わたしの結婚の話をするときだけだ。幼い頃からわたしを裕福な家に嫁に出すことが母にとって母親業のゴールだったのだ。
「順調といえば順調だけど」
「プロポーズされてるんじゃないの?」
「うん……されてるけど。どうして、されてるってわかるの?」
「だってイシ君の家の石油会社は今、後継者を誰にするかで揉めてるらしいわね。週刊誌で読んだわ」
「え? そうなの? 知らなかった」
「あらまあ、あなた、お付き合いしてる男性の会社の状況くらい知っておきなさい」
 母は呆れたように目を回してから、抹茶がはいった器を手にして、話つづける。
「イシ君のお父様の隠し子だったかしら? 認知してたかどうか忘れてしまったけれど、婚外子だったかしら。その男性がけっこうやり手な金融マンなんですって。だから、イシ君のお父様は資金調達の便宜からその婚外子に経営権を譲って継がせるかもしれないって書かれていたわよ。お家騒動に発展するかもしれないそうよ」
「え? 婚外子がいるの? 知らなかった。イシ君、自分の会社のことは全然話さないから」
「よくある話よ。愛人の子供のほうが優秀だったっていうこと。そんな状況だから、イシ君は焦ってるはずよね。だから、あなたとの結婚をはやくしたいんじゃないかしら」
「どうして、それとわたしとの結婚が関係あるの?」
「ばかね、本当にあなたは」
 母は器を置いて、ためいきをついて見せた。「あなたと結婚すれば、うちの会社から今後大きな融資が確保されるから、立場的に婚外子に勝てるでしょ? 経営権争いの決着は結婚相手で決まるものなのよ」
「え! じゃあ、わたしはイシ君にとって、経営者になるための道具なの?」
「道具なんて大げさねぇ。結婚っていうのはそういうものなのよ。イシ君みたいな立場の子にとってはとくに。結婚相手で自分の人生と会社の運命が変わるのだから。それに、あなたも、うちの会社もね」
「イシ君と結婚したら、うちの会社の利益になるってこと?」
「当然よ。石油会社とのつながりは大事だもの。お父様もそう言うに決まってるわ」
「つまり、ママはわたしにイシ君からのプロポーズを受けてほしいのね?」
「そうよ、会社の利益のことだけじゃなくて、あなたのしあわせを考えて、そう言ってるのよ」
「わたしのしあわせ? 考えてくれてるの?」
「それが一番に決まってるでしょ? イシ君の家はいい会社じゃないの。一生苦労せずに生活できるわよ。将来安泰」
 母はそう言ってほほ笑んだ。
 将来安泰。そのフレーズはなぜかわたしの胃を重たくさせた。一番苦手なフレーズなのだ。将来安泰。まるで重たい鎖に足をつながれて身動きが取れなくなるようなイメージが目に浮かぶ。
「イシ君はすごくいいひとだけど、でも、好きじゃないような気がするの」
「なに言ってるの。好きとか嫌いとかは関係ないのよ。結婚は家同士の契約なの。財産の融合よ。両家にはつり合いが大事で、イシ君の家とうちはバランスがいいのよ。イシ君はそれを見極めているのよ。はやくプロポーズを受けなさい」
 母はそう言い切った。今夜、母はこれを言いに来たのだと思う。そのために、わざわざこんな高級料亭の個室を取ったのだ。
「好きじゃない人と結婚しても、しあわせになれるっていうの? 一生、好きじゃない人と一緒に暮らすのは幸せっていえるの?」
「なにを少女漫画みたいなこと言ってるの? 大人っていうのはね、好きになろうと努力するものよ。わかるでしょ? それに、お金があればほとんどのことは乗り越えられるものなのよ。あなたもいずれわかるわ」
 母はそう言って、満足げにほほえんだ。
 イシ君と結婚すれば母のような人生を送ることになるのだろう。わたしにはよくわかる。
 母と父の仲はいまでは恋愛感情とは程遠くて、冷蔵庫の奥に押しやられて忘れ去られたヴィシソワーズのように冷えている。結婚当初はいまよりも仲が良かったらしいけれど、激しい恋ではなかったようだ。
 激しい恋に落ちて結婚するよりも、ほどほどに好きな相手と結婚したほうが安定していて幸せだという人もいる。けれど、本当なのだろうか。
「さっさと決めないと、ほかの子に取られちゃうわよ。そしたら、あなたは年だけ取って、売れ残っちゃうのよ。わたしが結婚したころは、二十五歳を過ぎたら売れ残りのクリスマスケーキって言われたものよ。そして一生独身になったら、行かず後家と言われたものよ」
「そんなの、時代が違うわよ。いまは晩婚がはやってるんだもん」
「いいえ、時代が変わっても、男性の好みは変わらないものよ」
 母はそう言った。ピンと伸ばした背筋に自信がみなぎっている。
 たしかに、母のいうとおりだ。女性の晩婚化が進んでも、男性の性欲の対象が高齢化するわけではない。グラビアアイドルや風俗嬢は高齢化していない。
 それに、女性には出産適齢期という制限もある。もし家庭がほしければ、いつまでも恋に恋する乙女でいるわけにはいかないのだ。
「……考えてみる」
「そうしなさい」 
 鉛の玉を飲み込んだような重さを胃の中に抱えたまま、わたしはわらび餅を口に押し込んだ。
 それからずっと、鉛の玉は胃の中に存在しつづけた。


 
 茎をテープで補強した薔薇は枯れはじめ、ダイニングテーブルにピンク色の花びらを落とす。
 わたしは数枚落ちた花びらを拾ってゴミ箱に入れた。
 母に言われたことばがまち針のように胸の奥をちくちくと刺しつづけていた。
『さっさと決めないと、ほかの子に取られちゃうわよ。そしたら、あなたはもう年だけ取って、売れ残っちゃうのよ』
 図星といえば図星。
 わたしは男性にとって、家名以外のメリットなどない女だ。平凡な性格に魅力があるとは思えない。
 学生時代に言い寄ってくる男性たちはわたしの家業ではなく外見が目的だった。けれど、社会人になってから言い寄ってくる男性はことごとく、わたしの家名が目的だった。
 それは、有名な商社の跡取り娘だということが社内で噂になっていただけでなく、社会人になった男性たちの思考がそういうものだからなのだと思う。社会に出て、お金を稼ぐことの苦労を知り、すこしでも楽に稼ぎたいと思い、計算して動くようになる。結婚相手を探すときはとくに。それが大人になるということなのかもしれない。
 資本主義社会で生き抜くためにはお金が必要で、お金を手に入れるためには戦略が必要で、戦略はつねに冷静な頭脳に支えられるものだ。そこに恋心なんか必要ない。

  わたしはシャワーを浴びてお気に入りのパジャマに着替え、ベッドに寝そべってパソコンを開いた。寝る前にNetflixを観ることが社会人になってからの習慣だ。
 ピコン、とメールを受信した音がしたから、受信ボックスを開く。
 すると、そこには見慣れないアドレスからの受信メールがあった。
 メールのタイトルは『クリーニング代』となっている。
 本文は一行だけだった。

『来週金曜日午後8時。ザ・ラウンジ・アマンで』

 
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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