第5話 恋されたければ生理前のイライラ期には会ってはいけません

文字数 2,541文字

 男が狩猟本能のような支配欲、征服欲、攻撃欲などに駆られる男性ホルモンに支配されているとことと比べ、女の心身は女性ホルモンに支配されており、ひとつの周期の中で『受け容れる期間』と『出す期間』に分かれる。そして、『出す期間』の直前つまり生理の前にはむしゃくしゃするものだ。だから、今日のわたしの失敗はしかたがない。本能のせいなのだ。たいてい女性はこの時期に素敵な恋をぶち壊すことになる言動をとる。
 だから、わたしがせっかく作ったルールを守らずに最低最悪な言動をしたことは、わたしのせいではなく、わたしの中に棲む本能のせいなのだ。だから、自分で自分を許そう。プランを練り直して、また立て直せばいいだけなのだ。わたしはあきらめない。何度でもやり直せる。
 
 大きなため息をついてからベッドの上で体育座りをし、手帳を開いた。
 生理前に恋愛を進めようとするとろくなことがないとよくわかった。

『生理前にはウルフに会わない。偶然会ってしまった場合は距離をとって避ける』

 手帳にそう記してから、ライムの香りのボディクリームに手を伸ばした。生理前には柑橘系の香りに自然と手が伸びるものだ。
 何度考えても、今日のウルフに対する態度は酷いものだったと思う。もう二度と連絡がなくても不思議ではない。
 けれど、たとえ1%以下の確率だとしても、ゼロではない。もし連絡があったら、その時は確実に、失敗なく、もう一度恋の芽を育てたいから、対策を練っておく必要がある。
『こちらからは自分のことを話さない』『彼のことを質問しない』『誘わない』『好意をみせない』などのルールをちゃんと実践するために、もうワンランク掘り下げたルールを作る必要がある。わたしはしばらく考えてみた。そして、

『聞き役にならなくてはいけません。そして、2分で切ること!!』
 
 と太字で大きく書いた。
 とても簡単に実践できるルールにしてみた。
 もし電話がかかってきたら、これだけを実行することにしよう。
 わたしは手帳を閉じて、目を閉じた。

 わたしは幼いころから犬を過ごす時間が多かった。
 生まれたときには大きなゴールデン・レトリーバーを庭で飼っていて、小学1年生の頃からは柴犬を飼い始めた。
 都心では珍しいほどの大きな庭をもつ豪邸に住んでいて、ペットの世話は主にお手伝いさんがやっていた。父は仕事で海外で過ごすことが多くほとんど家におらず、母は手芸の展示会のために自室に籠って何かを作っていることが多かった。
 だからわたしは、平日は家に帰るとほとんどずっと犬と過ごし、休日は朝から晩までずっと犬と過ごした。それはひとりっ子だったからなのかもしれないし、もともと人間嫌いだったからかもしれない。もしくは犬と過ごすうちに犬のやさしさに触れ、人間嫌いになっていったのかもしれないが、今となってはそれはどうでもいいことだった。
 家から徒歩で5分ほど歩いた先に小高い丘があり、そこに野良犬が住んでいた。シベリアンハスキーに似た雑種だったと思うけれど、純粋なハスキー犬よりも大きな体をしていた。頑強そうにみえる骨格をしているのに、やせ細り、骨がゴツゴツと浮き出ていて、脂肪が無いに等しかった。
 ある日、幸運の四葉のクローバーを探しに行った先で、わたしはその犬と出会った。
 近寄ってみたら、彼は鼻に皺をよせ、わたしに向かって吠えたてた。薄汚れた黒い毛並みはバサバサに乱れ、アイスグレーの瞳は冷たく、まるで人間を心底憎んでいるようだった。うちで飼っている愛犬とは全然違う、というのがわたしのその時の印象だった。
 「捨て犬に近づいてはダメよ。噛まれるから」
 母がある夜にそう言った。捨てた人間を憎んでいるから、人間すべてを憎んでいるから、捨て犬は危ないのよ。噛まれるわよ。母はそう言った。
 「じゃあ、うちで飼ってあげようよ」
 「何言ってるの!一度人間不信になった犬はもうダメなのよ」母はそう言った。一度人間を憎むと、そういう世界からはもう戻れないのよ、かわいそうだけどね、と母は言って首をふった。
 わたしはその後、何度も、おやつのバームクーヘンやクッキーをこっそりと持ち出して、丘にのぼり、ハスキー犬に会いに行った。
 けれど、ハスキー犬はわたしを見るたびに歯をむき出して吠えたてた。これ以上近づくな。近づくと噛みついてズタズタにしてやるぞ、と言わんばかりの激しさで吠えたてられたから、わたしはお菓子を彼に向かって放り投げた。ハスキー犬は攻撃されたのだと勘違いして、さらに大きな声で吠えたててきたから、わたしは全速力で走って逃げた。
 吠えたてられて恐いのに、わたしは彼のことが忘れられず、何度もおそるおそる見に行った。
 彼はたいてい丘の隅の木の間に隠れていたけれど、ときどきその定位置にはいないこともあった。そんな時に観察してみたら、わたしが投げたお菓子は跡形もなく消えていたから、食べてくれたのかもしれないと思って胸があたたかくなった。
 そんなことが数年間つづいた。
 ある夜、庭で愛犬とボールで遊んでいるとき、門の外に何か動くものが見えた。
 近寄ってみると、あのハスキー犬だった。
 一瞬だけ、目が合った。暗闇の中でみる彼の目は、少しブルーがかったアイスグレーだった。寂しそうにみえた。
 きっと彼は寂しいからここまで来たんだ。わたしの家に、わたしに会いに。
 そう思ったわたしは、飛びつくように門に走り、扉を開けようとした。
 すると、ハスキー犬は一目散に逃げ出し、暗闇の中に消えた。
 その晩以来、家の近くでも、丘でも、ハスキー犬を見ることはなかった。ほんとうに消えてしまったのだ。

 そうだ。

 あのハスキー犬の目。彼の目と似てるんだ。
 ウルフの目と似てる。
 脳内に雷が落ちて覚醒した。目を開けると、あたりは真っ暗だった。ベッドサイドにある時計をみると、深夜2時だった。
 そして、いま見た懐かしいハスキー犬の姿と今日みたウルフの姿が重なり、胸が苦しくなった。ウルフと初めて目が合った二年前のあの日からずっと、わたしたちはすれ違うたびに一瞬だけ目が合った。そのたびに感じていた胸の疼きの正体が少し解明できた気がする。
 わたしは羽毛布団を丸めて胸に抱えて、また眠りに落ちていった。

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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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