第19話 恋されたければ結婚前は手料理禁止

文字数 3,007文字

 ウルフだ。
 名前も署名もない。けれど、メールアドレスのドメインは投資会社名になっている。

『来週金曜日午後8時。ザ・ラウンジ・アマンで』という一文だけで、なにも説明がないのがウルフらしい。 
 どういう意味? 
 クリーニング代をこの店に持って来いということ? 
 それとも、これはお誘い?
 
 わたしは手のひらで心臓の鼓動をおさえながら、返信文を打った。
『ウルフですか? お誘いありがとう! 素敵なお店ですね。会えるのを楽しみにしています!』
 たいていの女性はこういう気の利いた文章をすみやかに返信するのだろう。けれど、わたしは指を止めて、しばらく考えてから返信文を削除した。これでは餌を待ってお座りしていた忠犬みたいじゃないか。
 頭をクールにするために大きく息を吸ってから、ゆっくりと吐く。そして、
『振込先を教えてください。振り込みます』というビジネスライクな文章を打った。
 そして、送信しようとして、また手を止め、それから削除した。これではあまりにもクールすぎておかしい。ウルフは振り込みではなく、手渡しを求めているのだ。直接会うことを求めている。
 ウルフと関わると、ろくなことがないのはわかっている。彼がこころの底でわたしを憎んでいることは明らかだ。そのことを彼が気づいているかどうかは不明だけど。
 それに、わたしはウルフを前にすると知能指数が植物並みに下がってしまい、感情的になったり喧嘩腰になったりして醜い女になってしまう。そして、また振られて傷ついて、結果的にガラスのハートが粉々になるだけだ。
 でも……。
 あれから、もう五年も経っている。
 いまのわたしは、あのときのわたしではない。
 今度こそ、うまくふるまえる。心を奪われることなく、優雅に、余裕な女を演じらえるはずだ。
 それに、女遊びに長けているであろうウルフのことだから、互いに深入りすることなく、ちょっと会話を楽しむだけのドライな友人関係を築けるかもしれない。それもいいかもしれない。
 それとも、ウルフは別の女とその店でデートの予定が入っていて、時間短縮のためにそこにわたしを呼んでクリーニング代を払わせて、じゃあさようなら、というだけかもしれない。ウルフならば、そういうこともありうる。というか、それが一番ありうるような気がしてきた。
 そんなことを悶々を考えていたら、いつの間にか、カーテンの隙間から朝日が射しこんでいた。
 こんなにも頭を使って脳みそを動かしたのは、五年ぶりだった。心地よい頭痛を感じる。
 わたしは、さんざん考えたあげくに『了解。』という一文だけの返信文を作成し、下書きフォルダに保存した。このメールは今夜まで寝かせることにしようと心に決め、ようやく枕に頭を沈めてめを閉じた。

 『メールの返信は遅らせなくてはならない』という恋のマイルールがある。
 女という生き物は、好きな男性からメールが来ると待ってましたといわんばかりにはしゃいで急いで返信し、相手の恋心を萎えさせてしまうから、それを予防するためのルールだ。
 ウルフに恋されたいわけではないけれど、すくなくとも大切に扱われる女性でありたい。そう思った。
 



 夜まで寝かせようと思ったメールを昼間に何度も送信したい衝動に駆られ、ついにわたしはスマホの電源を切ってバッグの中に入れた。
 ウルフは返信を待っているだろうから早く返信したほうがいいかも、はやくスケジュールを決めたほうがいいかも、はやく落ち着きたい、などというさまざまな考えや感情が湧きあがってきたけれど、スマホをバッグの底に押し込むことで、気持ちも無理やり抑え込んだ。そのおかげで、なんとか夜まで送信しないで我慢することができた。
 メールを受信してちょうど二十四時間後、わたしは『了解。』という一文の返信文を送信した。
 我慢したあとの送信は暑い日に飲む炭酸水のように気分が良かった。



「再来週の土曜、新宿御苑に紅葉をみに行かないかい?」
 イシ君がアウトドアなデートを企画することはめずらしい。
「紅葉? 素敵ね。行ってみたいわ」
 わたしは紅葉にはあまり興味がないけれど、代替案を考えることが面倒なのでそうこたえた。
「せっかくだから、ランチも公園内でするのはどうかな。リリィがお弁当を作ってきてくれたらうれしいなぁ」
 それが目当てなのね。わたしは内心で小さなためいきをついた。
 イシ君がそれとなくわたしの手料理を求めてくるのは今回が初めてではない。わたしに家庭的な女性になってほしいという願望をもっていることはいつも感じている。家庭的な女性が好きなのだろう。いや、そう言う男性はたいてい家事要員がほしいだけで、好きなタイプの女性は家庭的じゃなかったりするのだ。だから、イシ君は家庭的な女性が好きなのではない。けれど、家庭に入って家事をする女性が必要なのだ。家のために。自分のために。高学歴で家柄が良く裕福で結婚適齢期で会社の事業にメリットになる女性。それがわたしなのだ。あとは家事を得意にさせるだけ。
 男性、とくにエリート男性が結婚相手を選ぶ際は、女性が想像する以上に冷静で計算高いものだ。
 わたしはスマホを左手から右手に持ち替えて、左手でテーブルからアイスティーを取って一口飲む。
「そうね。紅葉をみながらランチしてみたいわ。作る時間はないから、デパ地下でお弁当を買っていくわね」
「ははは。そうだね、そうしよう」
 イシ君は乾いた笑い声をあげた。それから、「さすがリリィだ」と小さくつぶやく。
「洋食と和食、どちらがいい?」
「うーん、和食のほうがいいな」
「了解。じゃあ、和食の美味しそうなお弁当を探しておくわね」
「ははは」
 イシ君はまた乾いた声で笑った。そして、「いつかリリィの手料理を食べてみたいなぁ」とひとり言のようにつぶやいた。
「いつかね」 
 わたしはそう言って、「じゃあ、今から用事があるから、またね」と言って電話を切った。
 そして、席を立ってレジカウンターに行き、ウィンドーに並ぶケーキの中からレモンタルトを注文した。なぜか急に食べたくなったのだ。
 席に戻ってレモンタルトを食べているうちに、心に漂うもやもやした淀みは消えた。

 ほとんどの女性は恋をすると相手に手料理を作りたくなるらしい。
 けれど本当は手料理を作りたいのではなくて、料理上手な自分をアピールすることで彼の気を惹こうとしているだけだ。結婚を考える年頃の女性にとって、手料理をふるまうことはメスの求婚活動の一種なのだ。
 そして、家事要員つまり家政婦的な女性を求めている男性にとって、結婚前に手料理をふるまう女性は格好の餌食になる。男性にとって、専属家政婦つまり都合がいい女というラベルが貼られることになる。都合がいい女は、いずれ粗末に扱われる運命にある。
 つまり、結婚前に手料理をふるまって彼の気を惹こうとする女性は、自分からすすんで粗末にされる女になりさがっているのだ。
 なぜなら、男性がほんとうにその女性のことを好きならば、彼女が料理をしても、料理をしなくても、好意の量は変わらないはず。でしょう?
 だから、結婚前に男性に手料理をふるまわないことは、本物の恋かどうかの判断基準になるのだ。
 ということで、わたしは『結婚前は手料理禁止』という恋のルールを実践している。
 イシ君に恋されるためのルールではない。
 これは、本物の恋を見極めるためのルールだ。 
 
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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