第20話 恋されて大切にされたければ待ち合わせ時間厳守
文字数 3,129文字
金曜日午後八時。ザ・ラウンジ・アマン。
十五分前にホテルについて、レストルームでメイクを直して時間をつぶした。
いつもと同じ白いニットにネイビーのスカート。
メイクは薄く。長いまつ毛だけを強調してディオールの漆黒色マスカラを何度も重ねづけする。肌は透明感を出すメテオリット・パウダーを乗せた。
鏡で後ろ姿を確認する。大学生の頃とは違うすこしウェーブがかかった黒髪が波打っている。
耳の後ろにチェリー酒のような仄かな甘みのある香水を一滴だけつける。
そして、もう一度鏡をみて、待ち合わせのバーに向かった。
八時ちょうどに入口の扉を開けた。
デートにはわざと遅れていく女性が多いと聞くけれど、わたしはそれには反対の意見をもっている。約束の時間は厳守すべきで、男性を待たせてはいけない。とくに仕事後の待ち合わせに男性を待たせることは最悪だと思う。タイトなスケジュールで働く男性にとっては「ときは金なり」で、数分といえども待たされるとイライラするものだ。
これはメールの返信を遅らせるルールとはまったく違う。
デートの約束の時間は厳守。これはわたしのマイルールだ。
薄暗い店内は上品なキャンドルのあたたかい灯りに照らされていた。
入口から順に見回してみると、奥にカウンターがあり、数組のカップルの後ろ姿がある。
けれど、ウルフの姿は見当たらなかった。
「お待ち合わせですか?」
店員に尋ねられて「はい」と言うと、奥の小さな席に案内された。ガラステーブルの上には小さな白い花。窓からは暗闇のなかに日本庭園が浮かび上がっている。
メニューを開いてレモネードを注文し、窓のそとを眺めた。庭園の周囲には池があり、鯉が泳いでいるのだろうけれど暗くて見えなかった。
スマホを開いてみるも、ウルフからのメールは届いていなかった。
仕事で遅れてるのかしら。
そう思ったわたしはバッグからiPadを取り出して、アプリで本を読むことにした。
大好きなロマンス・サスペンス小説なのに、文章がまったく頭に入ってこない。頭頂部から伸びるアンテナは店の入り口を向いてウルフの登場を待っているのだ。
なんども同じページを行きつ戻りつしながら本を読んだ。余裕のある優雅な女性を演じたい。盛りが付いた犬のように尻尾を振りながらウルフの登場を待つような女にはなりたくない。
そう思いながら、文字の上をスケートリンクのように滑る目で本を眺めながらページをめくるも、文字たちは頭のなかをすり抜けていく。
そんな調子で何ページもめくりながら時間をつぶした。
八時半を過ぎた。
スマホを取り出し、『店内で待っています』と打ってメールを送信した。
数分のあいだ画面をみていたが、ウルフからの返信はなかった。
もしかして、ウルフからのメールは冗談だったのかしら?
よく考えてみたら、本文はたったの一文だけで、その内容は待ち合わせの時間と場所だけだった。
普通の男性ならば、「ひさしぶりに話をしたいから、ちょっと飲みに行かない?」という会話からメールのラリーが始まるはずなのに、ウルフからのメールは一方的なものだった。それをウルフらしいと思って舞い上がって真に受けたわたしがおかしかったのだろうか。
バーの店員が追加の注文を伺いに来た。
わたしは断って立ち上がり、料金を払って、店を出た。
ホテルの回転扉から外に出ると、そこはオフィス街のど真ん中。仕事終わりのサラリーマンたちが行きかう見慣れた光景だ。わたしは道路の脇に立って、しばらくその光景を眺めた。
きっと、だまされたんだ。
これは、ウルフなりの仕返しなのだろうか。彼の中では、大学生のころの口喧嘩がつづいているのだろうか。
誘っておきながら、放置するという新手のいやがらせなのだろうか。
そんな気がしてきて、急に腹立たしくなった。
そして、学生時代の苦い出来事を思い出した。
青山のクラブの貯蔵庫で熱いキスをしたこと。キスの途中に突然突き放されて、ひとりで貯蔵庫に取り残されたこと。講堂で、わたしに見せつけるように、女に手を触らせていた姿。その後、電話で話したときの横柄で傲慢な会話。すべてが腹立たしかった。
どうしてこんなきもちになるのに、ウルフのことを考えてしまうの?
どうしようもない傲慢男だとわかっていたのに、どうして会おうとしてしまったの?
わたしは彼になにを期待していたの?
きっとウルフはわたしのことなんか、なんとも思っていない。
大勢の女の中のひとりにすぎないのだ。
わたしは大通りに足を踏み出し、帰宅を急ぐサラリーマンたちの波に乗って、駅に向かって歩き始めた。
もう、二度と、ウルフのことなんか、考えない。考えないったら考えない。
こころに誓って歯を嚙み締めた。冷たい木枯らしが髪を揺らし、耳元につけたチェリーの香りが切なく舞った。
見上げると高層ビル群の隙間からみえる夜空は真っ暗で星ひとつ見えない。
大通りの交差点を渡り始めたそのとき、グイっと誰かに肩をつかまれた。
「きゃぁ……っ」
その勢いで振り返ると、
「悪い……」男の声。
ウルフがいた。「仕事で急なトラブルが発生して、手が離せなかった。連絡できなくて、悪かった」
全速力で走ってきたのだろう。息が荒く、頬は赤く染まっている。髪は乱れ、ネクタイは曲がっている。
「ウルフ……!」
「待たせて悪かった」
ウルフが荒い呼吸を落ち着かせながら、また謝る。ウルフが謝るなんて、めずらしいから、わたしは言葉を失ってしまった。
それに、うっすらと額に汗をかいたウルフの表情に見惚れてしまったのかもしれない。
「いいの。来ないのかと……思っただけ」
「いや。時間どおりに行けるはずだった。クソ野郎がミスったせいで予定が狂った」
「え?」
「急いで終わらせて店に行ったら、帰ったっていわれて」
「探してくれたの?」
「ああ。あっちまで走って、戻ってきたところで見つけた」
信号が赤に変わる。わたしたちは交差点のど真ん中にいたから、あわてて歩道に戻る。
「まだ時間あるか?」
「え?」
「メシ食った?」
「まだだけど」
「じゃあ、ちょっと場所を変えよう」
そう言ってウルフは手をあげ、タクシーを止めた。
わたしを後部座席に乗せてから、ウルフも乗り込む。タクシーがとても狭く感じて胸の鼓動が高まった。
ウルフに騙されたわけじゃなかったんだ。胸の奥で萎んだ花がまた開き始める。
一分にも満たない走行距離で、ウルフはタクシーを止めて降りた。
「ここ?」
目の前は外資系高級ホテルの建物。
「上に食べれるところがある」
ずんずんと先を歩いていく背中をわたしは追いかけた。
エレベーターに乗り込んだウルフはカードキーを差し込み、五十階のボタンを押す。
「え? ウルフ、ここに住んでるの?」
「ああ。仮住まいだけど。引っ越す時間がないからしょうがない」
エレベーターがぐんぐん上昇する。ガラス窓からみえるオフィス街の夜景がきらきらと輝いてた。
「……部屋にいくの?」
「違う。共有スペースのラウンジが飲み放題の食べ放題で、けっこう旨いんだ。部屋に連れ込もうなんて思ってないから安心しろ」と言ってから、ウルフは口元をゆがめた。言わなければよかったという顔だ。
五年前、衝動的にしたキスのことは、互いに触れられない領域なのだ。キスをしながら下半身を押し付け合ったときの磁石のような吸引力。それはウルフも感じていたはずだ。
エレベーターが止まって扉が開く。
ラウンジの入口でホテルマンが「おかえりなさいませ」とウルフに向かって言い、そして、わたしに微笑みかけた。
入口を抜けると、そこには星屑の中に浮かぶ宇宙船のようにゴージャスな空間が広がっていた。
十五分前にホテルについて、レストルームでメイクを直して時間をつぶした。
いつもと同じ白いニットにネイビーのスカート。
メイクは薄く。長いまつ毛だけを強調してディオールの漆黒色マスカラを何度も重ねづけする。肌は透明感を出すメテオリット・パウダーを乗せた。
鏡で後ろ姿を確認する。大学生の頃とは違うすこしウェーブがかかった黒髪が波打っている。
耳の後ろにチェリー酒のような仄かな甘みのある香水を一滴だけつける。
そして、もう一度鏡をみて、待ち合わせのバーに向かった。
八時ちょうどに入口の扉を開けた。
デートにはわざと遅れていく女性が多いと聞くけれど、わたしはそれには反対の意見をもっている。約束の時間は厳守すべきで、男性を待たせてはいけない。とくに仕事後の待ち合わせに男性を待たせることは最悪だと思う。タイトなスケジュールで働く男性にとっては「ときは金なり」で、数分といえども待たされるとイライラするものだ。
これはメールの返信を遅らせるルールとはまったく違う。
デートの約束の時間は厳守。これはわたしのマイルールだ。
薄暗い店内は上品なキャンドルのあたたかい灯りに照らされていた。
入口から順に見回してみると、奥にカウンターがあり、数組のカップルの後ろ姿がある。
けれど、ウルフの姿は見当たらなかった。
「お待ち合わせですか?」
店員に尋ねられて「はい」と言うと、奥の小さな席に案内された。ガラステーブルの上には小さな白い花。窓からは暗闇のなかに日本庭園が浮かび上がっている。
メニューを開いてレモネードを注文し、窓のそとを眺めた。庭園の周囲には池があり、鯉が泳いでいるのだろうけれど暗くて見えなかった。
スマホを開いてみるも、ウルフからのメールは届いていなかった。
仕事で遅れてるのかしら。
そう思ったわたしはバッグからiPadを取り出して、アプリで本を読むことにした。
大好きなロマンス・サスペンス小説なのに、文章がまったく頭に入ってこない。頭頂部から伸びるアンテナは店の入り口を向いてウルフの登場を待っているのだ。
なんども同じページを行きつ戻りつしながら本を読んだ。余裕のある優雅な女性を演じたい。盛りが付いた犬のように尻尾を振りながらウルフの登場を待つような女にはなりたくない。
そう思いながら、文字の上をスケートリンクのように滑る目で本を眺めながらページをめくるも、文字たちは頭のなかをすり抜けていく。
そんな調子で何ページもめくりながら時間をつぶした。
八時半を過ぎた。
スマホを取り出し、『店内で待っています』と打ってメールを送信した。
数分のあいだ画面をみていたが、ウルフからの返信はなかった。
もしかして、ウルフからのメールは冗談だったのかしら?
よく考えてみたら、本文はたったの一文だけで、その内容は待ち合わせの時間と場所だけだった。
普通の男性ならば、「ひさしぶりに話をしたいから、ちょっと飲みに行かない?」という会話からメールのラリーが始まるはずなのに、ウルフからのメールは一方的なものだった。それをウルフらしいと思って舞い上がって真に受けたわたしがおかしかったのだろうか。
バーの店員が追加の注文を伺いに来た。
わたしは断って立ち上がり、料金を払って、店を出た。
ホテルの回転扉から外に出ると、そこはオフィス街のど真ん中。仕事終わりのサラリーマンたちが行きかう見慣れた光景だ。わたしは道路の脇に立って、しばらくその光景を眺めた。
きっと、だまされたんだ。
これは、ウルフなりの仕返しなのだろうか。彼の中では、大学生のころの口喧嘩がつづいているのだろうか。
誘っておきながら、放置するという新手のいやがらせなのだろうか。
そんな気がしてきて、急に腹立たしくなった。
そして、学生時代の苦い出来事を思い出した。
青山のクラブの貯蔵庫で熱いキスをしたこと。キスの途中に突然突き放されて、ひとりで貯蔵庫に取り残されたこと。講堂で、わたしに見せつけるように、女に手を触らせていた姿。その後、電話で話したときの横柄で傲慢な会話。すべてが腹立たしかった。
どうしてこんなきもちになるのに、ウルフのことを考えてしまうの?
どうしようもない傲慢男だとわかっていたのに、どうして会おうとしてしまったの?
わたしは彼になにを期待していたの?
きっとウルフはわたしのことなんか、なんとも思っていない。
大勢の女の中のひとりにすぎないのだ。
わたしは大通りに足を踏み出し、帰宅を急ぐサラリーマンたちの波に乗って、駅に向かって歩き始めた。
もう、二度と、ウルフのことなんか、考えない。考えないったら考えない。
こころに誓って歯を嚙み締めた。冷たい木枯らしが髪を揺らし、耳元につけたチェリーの香りが切なく舞った。
見上げると高層ビル群の隙間からみえる夜空は真っ暗で星ひとつ見えない。
大通りの交差点を渡り始めたそのとき、グイっと誰かに肩をつかまれた。
「きゃぁ……っ」
その勢いで振り返ると、
「悪い……」男の声。
ウルフがいた。「仕事で急なトラブルが発生して、手が離せなかった。連絡できなくて、悪かった」
全速力で走ってきたのだろう。息が荒く、頬は赤く染まっている。髪は乱れ、ネクタイは曲がっている。
「ウルフ……!」
「待たせて悪かった」
ウルフが荒い呼吸を落ち着かせながら、また謝る。ウルフが謝るなんて、めずらしいから、わたしは言葉を失ってしまった。
それに、うっすらと額に汗をかいたウルフの表情に見惚れてしまったのかもしれない。
「いいの。来ないのかと……思っただけ」
「いや。時間どおりに行けるはずだった。クソ野郎がミスったせいで予定が狂った」
「え?」
「急いで終わらせて店に行ったら、帰ったっていわれて」
「探してくれたの?」
「ああ。あっちまで走って、戻ってきたところで見つけた」
信号が赤に変わる。わたしたちは交差点のど真ん中にいたから、あわてて歩道に戻る。
「まだ時間あるか?」
「え?」
「メシ食った?」
「まだだけど」
「じゃあ、ちょっと場所を変えよう」
そう言ってウルフは手をあげ、タクシーを止めた。
わたしを後部座席に乗せてから、ウルフも乗り込む。タクシーがとても狭く感じて胸の鼓動が高まった。
ウルフに騙されたわけじゃなかったんだ。胸の奥で萎んだ花がまた開き始める。
一分にも満たない走行距離で、ウルフはタクシーを止めて降りた。
「ここ?」
目の前は外資系高級ホテルの建物。
「上に食べれるところがある」
ずんずんと先を歩いていく背中をわたしは追いかけた。
エレベーターに乗り込んだウルフはカードキーを差し込み、五十階のボタンを押す。
「え? ウルフ、ここに住んでるの?」
「ああ。仮住まいだけど。引っ越す時間がないからしょうがない」
エレベーターがぐんぐん上昇する。ガラス窓からみえるオフィス街の夜景がきらきらと輝いてた。
「……部屋にいくの?」
「違う。共有スペースのラウンジが飲み放題の食べ放題で、けっこう旨いんだ。部屋に連れ込もうなんて思ってないから安心しろ」と言ってから、ウルフは口元をゆがめた。言わなければよかったという顔だ。
五年前、衝動的にしたキスのことは、互いに触れられない領域なのだ。キスをしながら下半身を押し付け合ったときの磁石のような吸引力。それはウルフも感じていたはずだ。
エレベーターが止まって扉が開く。
ラウンジの入口でホテルマンが「おかえりなさいませ」とウルフに向かって言い、そして、わたしに微笑みかけた。
入口を抜けると、そこには星屑の中に浮かぶ宇宙船のようにゴージャスな空間が広がっていた。