第31話 恋愛という幻想の果ては現実
文字数 2,241文字
三日後。
オフィスで投資案件のデューデリジェンスに関する検索をしていたらいつの間にか午後11時を過ぎた頃、デスクの上に置いてあったスマホがイシ君からのメールを着信した。
『母と食事の件、来週都合がいい日ある? 店は母が好きな赤坂の銀杏亭にしようと思うんだけど、どうかな?』
メールを開いた途端に墓石を飲み込んだようにずしんと胃が重たくなり、お腹が鈍く痛いんだ。
ウルフからは音沙汰がなく、始まってもいない恋のつぼみをまた踏み潰してしまったわたしの人生には希望の光がみえなくなっていた。
恋に破れ、家のために結婚し、夫のために尽くす人生。そんな一生を過ごせるほどにわたしは我慢強くないから、これで終わりにしなければならない。
ここ数日間ずっと考えたあげくに結論は出ていた。
わたしはスマホをタップして返信画面を出した。
これ以上考えても、悩んでも、答えは同じなのだ。
わたしの中ではすでに結論が出ているのだから、これ以上引き延ばしても時間の無駄だ。
イシ君とは互いに熱く惹かれ合うことはなかったけれど、大切にしてくれたイシ君に嫌われることになるのはつらいし、会社の未来を望むわたしの両親を悲しませることもつらい。
けれど、早かれ遅かれ、いつか必ず嫌われることになる。たとえイシ君と結婚したとしても、恋という魔法がかかっていない夫婦はいずれ家庭の外で別の恋を見つけ、それが家庭内に暗い影を落とすことになるだろう。
『ごめんなさい。食事会には行けません。あとで電話します』
わたしはメール文をすばやく打ってから、勢いよく送信アイコンをクリックした。
PCをシャットダウンしてデスクの上を片付け、バッグを手にしてオフィスをあとにした。
ガラス張りのシャトルエレベーターの中から東京タワーの夜景が歪んでみえる。まるで都心に浮かぶ水槽の中にいるみたいだ。都心であくせく働くわたしたちキャリアウーマンは熱帯魚。
18階で止まり、後輩女子が乗ってきた。名前はマミ。白いファーのついたマフラーに包み込まれた小さな顔が山羊みたいでかわいい。
「リリィさん! お疲れ様です!」
「お疲れ様! こんな時間まで残業?」
「そうなんですー。明日提出の書類が終わらなくて。でも、うちのフロア、まだ残ってる人けっこういますよ。不夜城なんです」
うちの企業は一般的にエリートと言われていて選りすぐりの人材を採用するため、内部での競争が激しく、とくに入社数年目までの男性陣は生き残りをかけて死に物狂いで働いている。朝まで働いて始発の電車で帰って少し寝てまた出勤してくる人も少なくない。だから深夜中もオフィスの電灯が消えることのないフロアもあってそこは『不夜城』と呼ばれている。
「みんな若いよね。わたしはもうダメ。年だから。これ以上は残業できないわ」
「わたしも今日はもうダメです。男性はずるいですよねー。体力あって、何日も寝なくても平気で、深夜になるとハイになるみたい」
「そうそう、20代の男性には付いていけないよね。クスリでもやってるんじゃない?って思っちゃう」
「アハハ。そういえば同僚の榎本君、さっきお白い粉を口に入れてましたよ」
「え、ホントに? ウルフ・オブ・ウォールストリートみたいじゃないの」
「そうみえちゃいますよね。でも、『塩だから誤解すんなよ』って言ってました。こだわりのヒマラヤ山脈から採れた岩塩なんだとか」
「なるほどね。岩塩でミネラルを摂取すると頭が冴えるって聞いたことがあるわ」
「本当ですか? えーそれ、私もやろうかな」
エレベーターを降りると、オフィスの前にいたドラえもんのような体格の警護AIロボットが「オツカレサマデシタ。オキヲツケテ」と声をかけてくれる。
わたしたちは黒々としたビル群の合間を抜けて地下鉄の駅に向かった。
「そういえばずっと聞きたいと思ってたんですけどー、リリィさんが社長の娘さんっていう噂、ほんとうなんですか?」
マミが唐突に聞いてくる。エリート女子は単刀直入だ。かわいらしいDIORのレースの下着の中に隠し持っている刀はいざとなったらよく切れるように研がれている。
「うーん……」
なんて言って返そうかと考えあぐねていると、視界の隅にこちらをみている黒い影を感じた。
思わず振り向くと、人影がサッと暗闇に消える。豹のような俊敏な動きの背が高い男のようだった。
「どうかしたんですか?」
気のせい?
また先日の男がわたしを狙っているの?
またわたしを襲う気で?
人影が消えたビルの間に小走りで近寄っていって目を凝らしてみるも、すでにもぬけの殻だった。周囲には冷たい風が吹き抜け、枯れ葉がアスファルトの上でカサカサと音を立てる以外は深夜のオフィス街は静まり返っている。
わたしを追ってマミが硬質なハイヒールの音を立てて走り寄ってきた。
「なんでもない。ちょっと気になったから見に来ただけよ」
「なにかあったんですか?」
「ううん、気のせいだったみたい。でも、帰りが一緒になれてよかったわ。このへん危ないから」
「え? 危ないですか? ここ」
「危ないわよ。いつ誰に襲われるかわからないから、気を付けてね。暗いし。とくにあなたは若くてかわいいから。どこかの黒豹が狙ってるかもしれないわよ」
そう言うと、マミは不思議そうに首を傾けてから「ハイ」と言った。
お尻の打撲痕が鈍く痛む。押し倒されてコンクリートに打ち付けたお尻の痛みを思い出した。
あれは先日わたしを襲った男に違いない、と勘が告げていた。