第41話 待たせることで価値を吊り上げる法則

文字数 3,139文字

「リリィさん!」
 残業を終えてメイクルームで髪をとかしていたとき、後ろからマミの声がして振り返る。パステルピンク色のニットに包まれたマミが満面の笑みを向けて尋ねる。「残業ですか?」
「うん。でも、もう帰るところ」わたしは髪をハーフアップにしてアレクのバレッタで留めた。ホワイトのベースにピンクパールが埋め込まれた限定品だ。
「わたしもです! 駅まで一緒に行きません?」マミが隣のミラーの前に立ってポーチからDIORの口紅を取り出して唇に塗りつけた。そのしぐさは鏡のなかの自分に酔っていて浮足立っている。
「なんか、良いことあったみたいね?」そう言ってわたしは思わずほほえんでしまう。
「そ、そうですか?」
「うん。しあわせそうに見えるわよ」
 わたしがそう言って方眉をあげて「おしえて。だれにも言わないから」と言うと、マミはうふふと恥ずかしそうに口元をゆるめた。そして、わたしに近づいてきて、耳元で言う。
「リリィさんのおかげなんです。堀江さんと付き合うことになりました」
「わぁーほんと? おめでとう! よかったわね」
 先月、マミから恋愛相談を受けて、恋されるメールのルールを伝授したことを思い出した。マミはわたしのアドバイスどおり、クールで丁寧なふるまいをして彼を落としたのだった。堀江は賢そうで長身でハンサムな外見だけでなく、社内での評判も良くて仕事がデキる男。将来の幹部候補とも言われる彼を落としたいと思っている女性は山ほどいると思われる。そんな彼を落とすためには、ほかの女性たちとは違うクールで清楚で古風なふるまいが必要になる。そう思って、わたしは基本的に誰にも秘密にしていた恋のルールをマミに少しだけ教えたのだった。
「リリィさんの『神アドバイス』のおかげなんです! それで、ほかにもアドバイスをいただけたらな~と思いまして」
「もちろん、アドバイスはいっぱいあるわよ。全部教えると一週間以上しゃべり続けなきゃいけなくなるから、ダイジェストバージョンで教えるわ」
 わたしとマミはエレベータを降りてエントランスホールを抜け、夜のビジネス街に足を踏み出した。マミが言うには、彼女はわたしのアドバイスを完璧に守って、自分のことはさらけ出さないように気をつけたそうだ。好意を見せず、ミステリアスにふるまうことで彼の興味を引きつける。そして、デートでは彼を立てて持ち上げて、良い気持ちにさせるという、わたしが教えたルールをきちんと実践し、その結果、きちんとした効果が出たのだ。
 男性を恋に落としたあとは、こちらのもの。あとは、その恋を持続させるルールを実践していけばいい。
「付き合うことになってからいちばん大事なのはね、『簡単に体の関係をもってはいけない』ということよ」わたしが言う。
「そんなの、常識じゃないですか」マミが笑った。「5回目のデートまで、許すつもりはないです、わたし」
「5回? 3回じゃなくて?」
「よく3回って聞きますよね。でも、わたしはもっと高い女だから、5回なんです。待たせて自分の価値を引き上げるんです」と言ってマミは笑った。
「行列のできるラーメン店の法則と同じよね。待たせれば待たせるほどに美味しそうに見える法則」
「そうそう、美味しそうな女にならなくっちゃいけませんよね」
「よくわかってるじゃない。このルールはいまの若者にはもう常識なのね」
 そう言いながら、わたしは胸に痛みを感じた。わたしは3回でも5回でもなく、0回目で体を許してしまった。失格も失格。大失格だ。
 誰よりも早くから溺愛される法則に目をつけ、誰よりも真剣に考えてきたはずなのに、実践できていなければ結局はすべて無駄だったことになる。結果が出せなきゃ、努力には意味がないのだ。世の中、結果がすべてなのだ。
「最近の若者は賢いわね」とわたしはため息をついた。見上げると、丸の内の夜空に浮かぶ月が歪んでみえる。仕事では先輩なのに、恋のルールの実践レベルは後輩よりも低いのだ。
「そんなことないですよー。私の周りは自爆女ばっかりですから。放っておけばみんな結婚できない人生まっしぐら。だからリリィさんのアドバイスが必要なんです。ほかに、気を付けることを教えてください!」
 赤信号で足を止める。残業に疲れ果ててよれたスーツで身を包んだサラリーマンたちが次々と横断歩道の前に並び始める。わたしはロンシャンのバッグを持ち替えて凝った首を回してからマミをみてほほえむ。  
「そうね、付き合う前も後も同じなんだけど、絶対に結婚の話を持ち出さないこと。結婚に興味がないようにふるまうのよ」
「興味がないように? 結婚したくないって言えばいいのですか?」
「そこまではっきり言わなくても、適当にはぐらかすのよ。もし聞かれたら、話題を変えちゃうとか、聞こえないふりをするとか、そんな感じで。とにかく、結婚には無関心な女を装うの。簡単でしょ?」
「はい。やってみまぁす」
 銀座方面にみえるネオンのようにマミの声がもうすぐ深夜0時になる夜空に浮かんだ。

 
 住宅街の中にある24時間スーパーで有機野菜を買い込んだビニル袋を手に提げて、自宅マンションの扉の前にしゃがみこむ。そして、わたしは丸くて白い花束を取り上げた。
 毎晩の習慣だ。こうして花束に顔をうずめて花の香を吸い込む。
 カスミソウにはほとんど香りがないけれど、かすかに緑の草と花粉の香りがする。それはまるで星屑みたいにキラキラとしたわたしの夢想する幸せのイメージなのだ。幼いころからずっと思い描いてきた幸せのイメージ。それをわたしの中で勝手に体現している花としてカスミソウを愛でてきた。けれど、自分で花を買う習慣はない。これは、送り主不明の贈り物。

 部屋の明かりを灯けると、ダイニングテーブルの上に3つ並ぶバカラの花瓶がきらめく。
 それぞれにカスミソウの花が生けられているため、狭いダイニングとリビングは野原のようなカスミソウの香りで満たされている。
 テーブルの脇に荷物を置いてすぐに洋服を脱ぎ捨て、あたたかいシャワーを頭から浴びる。この瞬間が好きだ。男女平等を目指す現代社会において、わたしのような中途半端なエリート女性は馬車馬のように働き、人間関係の摩擦によりすり減らしされて泥まみれになった心を洗い流すこの瞬間。この瞬間のために日々働いているといってもいい気がする。
 菫の香りの石鹸を手に取って泡立て、髪と顔に塗りつけた。

 パジャマに着替えて髪を乾かし、肌のお手入れをして一息ついたあと、カモミールティーを淹れてダイニングテーブルに腰かけて一口飲む。そして、テーブルの上に並ぶカスミソウの花束三兄弟を眺めた。大学生のころにも一時期、この花が毎日のように贈られてきたことがあった。そのときは、当時わたしを口説いていた男性(名前は忘れてしまった)からの贈り物なのかと思っていたが、あれは違ったのだと今ごろになって明らかになる。
 あのときも、今も、わたしに関わりがある(または関わろうとしている)人は、ひとりしか思いつかない。そして、彼にはわたしがカスミソウが好きなことを話したことがある。けれど、なぜ?
 ふと気になって、ティーカップをテーブルに置いて、寝室の窓のほうに歩いた。
 そして、部屋の明かりを消してから、カーテンを少しだけ開けて、その隙間からそっと外を見てみた。
 外は真っ暗で、マンションのエントランス近くにある街灯しか見えない。
 その街灯の脇に人影があった。
 男だ。
 男がこちらを見上げている。
 突然、心臓が大きく打った。
 男の姿。それは、ここからでもわかる大きな背格好。グレーのスーツに身を包み、堂々とした佇まい。だけど、こちらを見上げるのは、暗くて不安げな瞳。
 ウルフだ。

 
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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