第28話 恋されたければ先に恋したほうが負けだと理解しなければなりません
文字数 2,429文字
山を登っていた。太陽が落ち、木々で覆われた山の奥からは冷たい空気が流れ込んでくる。
わたしはパステル・ブルーのカーディガンを胸の前で握りしめた。カーディガンの模様はその中に着ているワンピースと揃いの小さな薔薇が透けるレースになっている。太陽の下で着るとその服はとても可愛らしくみえるのでお気に入りだが、夜になると途端に防寒具としては意味がないことに気づかされる。
寒い。
寒い。
寒い。
小さくつぶやきながら、水色のスパンコールが付いたサンダルを履いた足で砂利道を登りつづけていた。
どうしてこんな寒い日に山を登っているの?
寒さのあまり一瞬わすれてしまったけれど、すぐに思い出した。この山の奥に犬がいるからだ。あのハスキー犬。いつも一匹で生きているシルバー・グレーの瞳をもった犬だ。
今日の昼に父の旧い友人が家に来ていて、お土産に貰ったクッキーの詰め合わせセットがダイニングテーブルの上に置きっぱなしだったから、そこからチョコチップクッキーやアーモンドクッキーをひとつかみ取ってポーチに入れて、わたしは彼(ハスキー犬)にプレゼントすることを思いついたのだ。
彼(きっと雄だと思う)はいつもわたしを待っているんだもの。あの山の奥で、一匹で孤独な怒りにふるえながら、ずっと。
だから、わたしは登らなくっちゃいけないのだ。この山を……。
カーテンの隙間から降り注ぐ朝日にまぶたを刺激されて目が覚めた。
視界には真っ白い天井。手を動かすと、やわらかなマットレスの上にいることがわかった。
夢……?
夢をみていたのだ。幼いころから何度もみている懐かしい夢。だけど、それは綿飴のように形がなくて薄くて、掴もうとすると消えてしまいそうな夢だった。山を登ったあと、どうなったんだっけ……? 思い出せない。それに……
「あ……っ」ここは……!
ウルフのマンションだ。
昨夜のことが走馬灯のように脳裏を駆け抜けていく。
勢いのあまりウルフに想いを打ち明けてしまったこと。その後交わした口づけと、そのあと燃えるように絡み合って交わろうとしたこと。ウルフにまたがり彼のトランクスをひきおろし、そして電話の音で我に返って、拒まれたこと。
わたしは起き上がってベッドから降りた。時計をみると、朝の9時を過ぎたところだ。
広いマンションには人の気配がない。ウルフが借りている部屋は全部で5部屋あると言っていた気がする。
絨毯張りの廊下を進みながら手あたり次第に扉を開けてみて、ウルフの寝室を見つけたが、彼の姿はなかった。
あのあとウルフは自室に戻ってスーツに着替え、オフィスに出かけたようだった(音でそう思った)。朝になっても戻ってこなかったのだろう。
わたしは洗面所で顔を洗ってから髪を整え、ハーフアップにしてバレッタで留めた。
そして、ウルフの部屋をもう一度覗いてみた。
やはり、いないようだ。
部屋に入ってみる。
大きなクローゼットを開けてみると、数着のスーツと白いシャツが数枚掛けられていて、10本ほどのハンガーが余っていた。襟元のタグを見てみると、すべてがユニクロの商品だったから驚いた。量産型の洋服もウルフが着ると仕立てられた高級ブランドスーツにみえてしまうのだ。
キングサイズのベッドは白いシーツが綺麗に整えられており、昨夜ウルフがここで眠った気配はなかった。
そのとき、ふと視界に懐かしいものが映った。
サイドボードの上に分厚い本があった。
手に取ってみると、それはジャックロンドンの「マーティン・イーデン」だった。
表紙の色は褪せ、手に馴染むほどにボロボロになっていて、かなり読み込んであることがわかる。大学生のころに買うお金がなくて、わたしに借りようとしていた本だ。いまでは仕事で成功して、余裕で買えるようになったのだろう。
あちこちに付箋がたくさん貼られている。数十枚はあるだろうか。
開いてみると、紙がやわらかくなるまで何度も開いたウルフの手の感触が残っていて、胸が苦しくなった。わたしが好きなこの本を何度も読んだなんて。
やっぱり、ウルフはわたしのことが好きなんじゃないの?
肌が磁石になったかのように惹かれ合う感覚をウルフも気づいているんじゃないの?
それとも、これもわたしの思い込み? 過大妄想?
どうして彼はわたしを拒むの?
頭の中が疑問符で埋め尽くされ、風船のように膨張していく。
わたしは彼のベッドに仰向けに寝転んでおおきなためいきをついた。
どうして彼はわたしを拒むの?
なぜ?
ぺらぺらと本をめくっていたら、どこからか一枚の写真が落ちてきた。
その写真も本と同じく手に馴染むほどにやわらかくなっていて、角が擦れて丸くなっている。
そこには、木陰でたたずむ少女が写っていた。
カメラの焦点が合っていなくて、ぼんやりとしているが、遠目でもかなり美人であることがわかる。
初夏の青々とした木々の中に立つ少女はラベンダー色のワンピースに身を包み、袖から伸びる手足は細くて長い。肩に落ちる黒くて長い髪はつややかで美しい。
もしかして、恋人? それとも片想いの女性?
どちらにしても、ウルフには、想いを寄せている女性がいたんだ。
とたんにずっしりとした重みが胃の上に乗せられた感覚になった。
それから、地面が割れて、血の底に落ちていくような感覚に襲われ、わたしは目を両手で覆った。
そうよね、彼女がいて当然よね。
あのウルフだもの。大学生のころもいつも女性たちに囲まれてモテモテだったし、いまでもファンが沢山いるという噂だ。
あのウルフが恋愛をしていないはずがない。実際、付き合う相手など選びたい放題のはずだから、恋人がいないはずがない。
そんな彼と両想いなんじゃないかと勘違いしてしまった自分が急に恥ずかしくなって、わたしはベッドからいそいで飛び降りた。
そして、荷物を持ってマンションから飛び出し、走って地下鉄の駅に向かい、まっすぐ家に帰った。
わたしはパステル・ブルーのカーディガンを胸の前で握りしめた。カーディガンの模様はその中に着ているワンピースと揃いの小さな薔薇が透けるレースになっている。太陽の下で着るとその服はとても可愛らしくみえるのでお気に入りだが、夜になると途端に防寒具としては意味がないことに気づかされる。
寒い。
寒い。
寒い。
小さくつぶやきながら、水色のスパンコールが付いたサンダルを履いた足で砂利道を登りつづけていた。
どうしてこんな寒い日に山を登っているの?
寒さのあまり一瞬わすれてしまったけれど、すぐに思い出した。この山の奥に犬がいるからだ。あのハスキー犬。いつも一匹で生きているシルバー・グレーの瞳をもった犬だ。
今日の昼に父の旧い友人が家に来ていて、お土産に貰ったクッキーの詰め合わせセットがダイニングテーブルの上に置きっぱなしだったから、そこからチョコチップクッキーやアーモンドクッキーをひとつかみ取ってポーチに入れて、わたしは彼(ハスキー犬)にプレゼントすることを思いついたのだ。
彼(きっと雄だと思う)はいつもわたしを待っているんだもの。あの山の奥で、一匹で孤独な怒りにふるえながら、ずっと。
だから、わたしは登らなくっちゃいけないのだ。この山を……。
カーテンの隙間から降り注ぐ朝日にまぶたを刺激されて目が覚めた。
視界には真っ白い天井。手を動かすと、やわらかなマットレスの上にいることがわかった。
夢……?
夢をみていたのだ。幼いころから何度もみている懐かしい夢。だけど、それは綿飴のように形がなくて薄くて、掴もうとすると消えてしまいそうな夢だった。山を登ったあと、どうなったんだっけ……? 思い出せない。それに……
「あ……っ」ここは……!
ウルフのマンションだ。
昨夜のことが走馬灯のように脳裏を駆け抜けていく。
勢いのあまりウルフに想いを打ち明けてしまったこと。その後交わした口づけと、そのあと燃えるように絡み合って交わろうとしたこと。ウルフにまたがり彼のトランクスをひきおろし、そして電話の音で我に返って、拒まれたこと。
わたしは起き上がってベッドから降りた。時計をみると、朝の9時を過ぎたところだ。
広いマンションには人の気配がない。ウルフが借りている部屋は全部で5部屋あると言っていた気がする。
絨毯張りの廊下を進みながら手あたり次第に扉を開けてみて、ウルフの寝室を見つけたが、彼の姿はなかった。
あのあとウルフは自室に戻ってスーツに着替え、オフィスに出かけたようだった(音でそう思った)。朝になっても戻ってこなかったのだろう。
わたしは洗面所で顔を洗ってから髪を整え、ハーフアップにしてバレッタで留めた。
そして、ウルフの部屋をもう一度覗いてみた。
やはり、いないようだ。
部屋に入ってみる。
大きなクローゼットを開けてみると、数着のスーツと白いシャツが数枚掛けられていて、10本ほどのハンガーが余っていた。襟元のタグを見てみると、すべてがユニクロの商品だったから驚いた。量産型の洋服もウルフが着ると仕立てられた高級ブランドスーツにみえてしまうのだ。
キングサイズのベッドは白いシーツが綺麗に整えられており、昨夜ウルフがここで眠った気配はなかった。
そのとき、ふと視界に懐かしいものが映った。
サイドボードの上に分厚い本があった。
手に取ってみると、それはジャックロンドンの「マーティン・イーデン」だった。
表紙の色は褪せ、手に馴染むほどにボロボロになっていて、かなり読み込んであることがわかる。大学生のころに買うお金がなくて、わたしに借りようとしていた本だ。いまでは仕事で成功して、余裕で買えるようになったのだろう。
あちこちに付箋がたくさん貼られている。数十枚はあるだろうか。
開いてみると、紙がやわらかくなるまで何度も開いたウルフの手の感触が残っていて、胸が苦しくなった。わたしが好きなこの本を何度も読んだなんて。
やっぱり、ウルフはわたしのことが好きなんじゃないの?
肌が磁石になったかのように惹かれ合う感覚をウルフも気づいているんじゃないの?
それとも、これもわたしの思い込み? 過大妄想?
どうして彼はわたしを拒むの?
頭の中が疑問符で埋め尽くされ、風船のように膨張していく。
わたしは彼のベッドに仰向けに寝転んでおおきなためいきをついた。
どうして彼はわたしを拒むの?
なぜ?
ぺらぺらと本をめくっていたら、どこからか一枚の写真が落ちてきた。
その写真も本と同じく手に馴染むほどにやわらかくなっていて、角が擦れて丸くなっている。
そこには、木陰でたたずむ少女が写っていた。
カメラの焦点が合っていなくて、ぼんやりとしているが、遠目でもかなり美人であることがわかる。
初夏の青々とした木々の中に立つ少女はラベンダー色のワンピースに身を包み、袖から伸びる手足は細くて長い。肩に落ちる黒くて長い髪はつややかで美しい。
もしかして、恋人? それとも片想いの女性?
どちらにしても、ウルフには、想いを寄せている女性がいたんだ。
とたんにずっしりとした重みが胃の上に乗せられた感覚になった。
それから、地面が割れて、血の底に落ちていくような感覚に襲われ、わたしは目を両手で覆った。
そうよね、彼女がいて当然よね。
あのウルフだもの。大学生のころもいつも女性たちに囲まれてモテモテだったし、いまでもファンが沢山いるという噂だ。
あのウルフが恋愛をしていないはずがない。実際、付き合う相手など選びたい放題のはずだから、恋人がいないはずがない。
そんな彼と両想いなんじゃないかと勘違いしてしまった自分が急に恥ずかしくなって、わたしはベッドからいそいで飛び降りた。
そして、荷物を持ってマンションから飛び出し、走って地下鉄の駅に向かい、まっすぐ家に帰った。