第25話 恋されたければ、どんな時も冷静さを失ってはいけません

文字数 4,543文字

「わぁ……広い」
「ああ。無駄に広い」
 ホテルの一室なのに、まるで一つの家だ。西欧の城を思わせるインテリアに囲まれたリビングを中心に、周囲にいくつも寝室がある。
 ウルフはいちばん近い扉を開けて、綺麗にシーツがかけられたダブルベッドにわたしをそっとおろした。わたしの背中がやわらかなマットレスに沈み込む。
「大丈夫か?」
「うん、ありがとう。しびれも治ってきたみたい」
「そうか」
 ウルフは疑わし気に眉を寄せた。
「お尻を打っただけだから。単なる打撲よ」
「打撲も立派な犯罪だ」ウルフは舌打ちする。「警察に……」と言い出したウルフに対してわたしは手を振って制した。
「だめよ。ほんとに、大っぴらになったら会社に損害が出ることもあるから、まず父に相談するから」わたしはウルフの関心をそらす。
 そして、肩をすこし動かしてみる。痛むけれど、大丈夫そうだ。
「ちょっとここで休んでろ。なんか腹に入れたいだろ」
 ウルフはそう言って、奥の扉の向こうに姿を消した。
 わたしは仰向けになったまま、天井を眺めた。真っ白い天井からぶらさがっているクリスタルのシャンデリアがきらきらと輝いている。部屋は完璧に掃除されていて、ベッドを覆う白いカバーには染みひとつ見当たらない。さすが世界有数の高級ホテルのスイートルームだ。
 体をよじって痛むところがほかにないか確認してみると、お尻を強く打った以外はとくに外傷はなさそうだ。
 安心してためいきをつき、目を閉じた。
 あの男。力づくで脅してわたしを押し倒した男の瞳はヘーゼル色だった。純粋な日本人の遺伝子とは違う色が印象的だったから覚えている。あれはカーターの目だったと思う。彼はわたしとイシ君を別れさせようとしている。
 けれど、なぜ? なぜ彼が? カーターがわたしとイシ君にどういう関係があるの? ウルフとつながりがあるの? 
 考えても答えは出ない。
 そもそも、カーターとは一度しか顔を合わせていないし、話をしたこともない。それなのに、なぜ彼がわたしのプライベートを知っているのだろう。それに、プライベートと言っても、わたしとイシ君は時々デートをする仲に過ぎず、深い仲には至っていないし、婚約すらしていない。「別れろ」なんて言われるほどの付き合いではない。それなのに、脅迫という犯罪的な手段をとってまでしてわたしとイシ君の仲を裂こうとするメリットがカーターにあるとは思えないのに、なぜ……?
 そんなことを考えていると、ムスクのような香りがふわりと鼻を掠め、思考が途切れた。深い森の奥のような薄暗い闇を思い起こさせる香りが、真っ白いベッドリネンから漂ってくる。
 最初はホテルの洗濯洗剤の香りかと思ったが、そうではないことに気づいて心臓が跳ねた。
 ウルフの香りだ。
 ウルフはここで寝ているんだ。毎晩。このベッドに体を沈めているんだ。そのシーツにいまわたしは包み込まれている。そう思うと途端に胸が高鳴り、息が苦しくなった。
 恐ろしい目に遭ったのに、ウルフに助けてもらったことと、いまウルフの部屋のベッドに寝ていることに気持ちが浮足立ってしまう。不謹慎なわたし。恋に犯されたわたしの知能指数は一気に下降してアスファルトの上に音を立てて落ちた。
 大学時代に好きで好きでたまらなかった男。落としたくて、自分のものにしたくて、ウルフを恋に落とす法則を作って実践していた学生時代を思い出した。
 初めて会話したときの胸のときめきと、暗闇に舞う色鮮やか恋心。
 初めて電話越しに話したときに鼓膜がふるえた感覚。
 初めてキスしたときに手足の骨が蜂蜜のように溶けていく快感と、その後に身を切られたような激しい心の痛みを伴った別れを、わたしは忘れない。恋は甘くて苦くてつらくて痛くて。それでもやっぱり甘いのだ。
 今、理由はどうであれ、わたしはウルフのベッドの中にいて、けれど、ウルフはわたしの恋人ではないという悔しさが入り混じった感情に襲われる。
 ウルフに恋人はいるのだろうか? 
 ここに彼女を連れ込んでいるのだろうか? とすると、このベッドでウルフは女性と愛を交わしているのだろうか。

 肘をついてそっと身を起こしてみると、お尻の痛みがやわらいでいた。明日はひどい痣ができると思うけれど、骨には異常はないだろう。
 きぃ、と扉が開く音がして、大きな皿とグラスを手にしたウルフが部屋に入ってきた。
 腕まくりした白いシャツから伸びる筋肉質の腕で大きな皿をそっとベッドサイドの小さなテーブルに置いた。
 白い皿の中央にはふっくらと膨らんだラグビーボール状のオムレツが乗せられていて、サイドにはポテトとトマトのサラダ。その脇にあるのはキャロットラペだろうか。
「え、これ、作ったの? ウルフが?」
「おれ以外に誰が作るんだよ」とウルフが言う。たしかに、ルームサービスを頼んだようには見えなかった。
「すごい……短時間でこんなの」と驚きの声をあげるわたし。
「冷蔵庫になんもなかったから、あり合わせで作っただけだ」
 グラスの中には輪切りのレモンが入った炭酸水がしゅわしゅわと音を立てている。
「美味しそう……」
「腹減ってるんだろ? 食えよ」
 無造作に手渡された大きなシルバーのフォークを手に取った。
「ありがと」
 ウルフはなにも言わずに部屋から出て、同じ料理が乗った皿と厚目に切られたフランスパンが何枚か乗った皿とグラスを持ってきて、ソファにどかっと腰を下ろした。
 長い脚はグレーのスウェットに包み込まれている。そして彼は、パンをちぎって食べ始めた。おなかが空いていたのだろう。
 わたしはグラスを手に取りレモンスカッシュに口をつけ、口内に広がる心地よさにためいきをついた。
「今日の仕事は終わったの?」
「いや。まだ終わってない」とウルフ。
「こんなことしてていいの? 忙しいんじゃない? わたしのことは放っておいていいから、仕事に戻っていいよ」
「ああ。そのつもりだが。深夜に海外とZoom会議があるから、一度飯食いに戻ろうとしてたところで、おまえに捕まったんだ。クソ忙しいときに」ウルフはパンを口いっぱいに頬張りながら言う。
「捕まったってなによ。わたしはなにも頼んでないわよ」
「そうか? おれがいなかったらおまえ、どうなってたんだろうな?」
「股間を蹴とばして逃げればよかったのよ、いま思えば。ウルフの手をわずらわせることもなかったわ」
「いま思っても意味ないだろ。こういうときはかわいく『ありがとう』って言えばいいんだよ」ウルフが悪戯な笑みを向けてくる。
「ふん」
「かわいくねぇやつ」
 わたしは頬を膨らませてみせた。本当にかわいくない女だと思う。わたしはウルフの前でだけは女らしくふるまうことができない。嫌な女になってしまうのは、学生時代と変わっていない。それだけ彼を意識しているのだとわかると余計に苛立たしいのだ。

 オムレツにフォークを入れると、中から半熟の卵と溶けたチーズとベーコンが溢れ出てきた。
「すごい、美味しい……! うちの家政婦さんよりも上手だわ。ラデュレで食べたものよりも美味しい。ウルフ、コックになれるんじゃない?」
「なれるっていうより、なってた。学生の頃、定食屋の調理場でバイトしてたからな」
「いろんなバイトをしてたのね。料理学校に通ったりしたの?」
「んなわけないだろ。適当に作ってれば誰でも自然とうまくなるもんさ。料理にルールなんかない」ウルフが言う。そして彼はふたつに切ったオムレツを口に放り込んだ。豪快なフォークの使い方まで美しくみえてしまう。
「そんなことないわよ。わたしなんか、一人暮らし歴9年になるのに、何を作っても美味しくないもん。オムレツを作ろうとすればスクランブルエッグになるわ。たぶん今後も何百回作ってもうまくならないと思う」
「料理をうまくするのは、腕じゃなくて、舌なのさ。飢えてれば自然と本能が働いてうまくなる。おまえは飢えを知らないだけなんだ」
「なるほど。本能っていう考えは当たってるかも。人間の能力はたいてい本能的に満たされない場合に開花するものね。でも、ウルフもいまはもう飢えていないんでしょう?」
「ある意味ではな」
「ある意味って?」
「……さあな」
 ウルフは皿にのっていた料理をあっという間に平らげ、そして、膝に肘を置いて頬杖をつき、わたしの目を見つめた。
 まっすぐにわたしを射抜く暗い瞳は黒曜石のようにつややかだ。過去もいまも、これほどの吸引力をもった瞳を知らない。目が合うだけで心まで引き込まれて思考がはじけ飛んでしまうのだ。
 わたしは恥ずかしくなって目をそらし、手元の料理に目線を落とした。
 カチャカチャとフォークが皿にあたる音だけが広い部屋にひびく。
 途端になにを話したらいいのかわからなくなり、口をつぐむとウルフも真似をしたかのように黙り込んだ。
 沈黙の重みが広い部屋に充満し、酸素が薄くなったような気がする。広い部屋なのに。
 ふいにウルフが立ち上がった。
「……おれ、あっちの部屋で仕事の準備するから。もう遅いし、今夜はここに泊っていけばいい」
「え?」
「なんだ? 問題あるか?」
「ううん、でも、いいの?」
「しかたないだろ。深夜に女ひとりで歩くのは危ない。ヤツがまだうろついてるかもしれない。また捕まったらどうするんだ。今度はもっと酷い目に遭わされるぜ」
「うん……でも」
 わたしは無意識に自分の胸を腕で抱きしめた。ウルフがそれをみて、汚らわしいものを見たかのように眉をしかめる。
「おまえになんか興味ないから心配するなって」
「そんな心配してないわよ! そうじゃなくて……邪魔なんじゃないかと」
「おれは少し仕事を片付けたらまたオフィスに戻る。それに、何部屋も使ってない部屋があるから、たまには使ってやったほうがいい。賃料の元をとるために」
 ウルフは話は終わったという風に、自分の分の皿を手にして、扉を開けた。
「じゃあ、遠慮なく泊まらせてもらうわ。ありがと」
「玄関の鍵はオートロックになってるから」ウルフは言う。そして、扉の向こうに姿を消した。

 バッグの中からスマホを取り出してみると、待ち受け画面に出た時計の表示は午前2時を過ぎたところだった。いまから準備をしてオフィスに戻るということは、ウルフは相当忙しいのだろう。寝る間もなく働いているのだろうと思う。投資業界は激務なのだと聞いたことがある。それなのに、料理まで作ってくれたことに少なからず愛情があるのだろうと期待してしまう。謹慎なわたし。
 ゆっくりと味わいながら料理を食べ終えてレモンスカッシュを飲み干し、大きなシモンズ製のダブルベッドに寝転んで目を閉じた。口の中に広がる甘酸っぱいレモンスカッシュのように、恋心がしゅわしゅわと音を立てながら弾けている。
 ウルフに抱きかかえられたときのぬくもり。いつもより近い耳元で聞いた声の深い音色。大きくて器用な手が作り出した料理。わたしを見つめる強い瞳。そして、ウルフの匂いがするベッド。
 すべてが脳の思考を鈍らせていく。
 学生時代にあれほどまでに研究してルール化した恋されて大切にされる法則のことは頭の中からすっかりと消え失せて、蜂蜜のように甘く溶けた脳みそは、いつの間にか眠りに落ちていった。

 
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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