1月4日 初春夢戯言(はつはるゆめのたわごと)

文字数 3,788文字

 涼風の曲がりくねってきたりけり

 これは言うまでもなく、小林一茶の句。涼風は、夏の季語。でも、前から思っていたのですがこの情景、涼風よりもむしろ春風の方が合ってはいないでしょうか。

 春風の曲がりくねってきたりけり

 なんだかこの方がいいような気がします。とりわけ台北の隅の巷子(ろじ)の奥にわび住まいする身としては、春風の方がしっくりくるようで……。

 最初(はな)は涼風に違いないとしても、巷子の奥に曲がりくねって入ってくれば、風の方だって気息(きそく)奄々(えんえん)、もはや涼しくもなんともないに違いない。でも春風ならば――
 しかもただの春風にあらず、初春の風。曲がりくねって微かに届いたものだとしても、そこにはやはり、それなりのめでたさがある気がします。

 と、今回妙な文体で書き始めたのは、新年の初投稿、普段とはやや趣きの異なる方が興もあろうかと思った、というのに嘘はないですが、年末年始、久しぶりに講談なんて聞いていたものですから、元々影響を受け易い性格。たちまち効果テキメン、すっかり言葉遣いがおかしくなって……というのがむしろ真相――まあ、お屠蘇(とそ)気分で鷹揚(おうよう)にお聞き流し下されば幸い、ってもう三が日も過ぎましたけどね。

 さて、講談の話。
 6代目神田伯山。
 いやあ、すごい人が出てきたものですね。
 この方、「神田伯山ティービィー」という御自分のyoutubeの公式チャンネルを持っていらして、そこで惜しげもなく自らの高座を公開して下さっているのですが、今回聞いた「中村仲蔵」、すばらしいの一言でした!

「中村仲蔵」。
 この噺自体は、わたしはずいぶん前ですが、三遊亭円楽の落語で聞いたことがあります。

 円楽と言っても今の円楽ではなく、先代の、五代目円楽。長らく「笑点」の司会をやっていたあの顔の長い方。

 で、伯山の「中村仲蔵」。何しろ知っている噺なものですから、最初は他のことをやりながら、BGM代わりに軽く聞くつもりだったんです。
 ところが、あっという間に引き込まれて前のめり、しまいには涙を流している自分に気づいてびっくり! わたしの記憶の中の円楽の高座よりもすごかったです、伯山先生(落語家の場合は「師匠」だが、講談師の場合は「先生」と呼ぶ)!!

 これでも日本にいた頃は、ぶらっと落語を聞きにいくということがあって、わたしが生で高座を聞いたことがあるのは、柳家(やなぎや)()さん、古今亭志ん(ちょう)、柳家小三治(こさんじ)、それから柳家花緑(かろく)
 考えてみると、花緑さん以外は、既に鬼籍に入られています。

 五代目柳家小さん。
 かつて永谷園のCMでお茶の間に親しまれていましたが、この方は若い頃、2.26事件で決起側の兵隊の一人だったというのですから、なんともすごい歴史の証人。落語界初の人間国宝でもありました。

 わたしが噺を聞いたのは、小さん師匠の、晩年も晩年。孫の花緑さんと一緒に出演されて、花緑さんが「何しろ家に人間国宝がおりまして……」とネタにしていました。

 わたしのささやかな自慢は、この花緑さんが未だテレビなどでブレークする前の高座を生で聞いているということ。

 忘れられない思い出があります。
 わたしが聞いたあの日、高座の途中で小さん師匠、一回ぐっと詰まって言葉が出なくなってしまったんです。
 しかも、再開したと思ったら同じくだりをもう一度繰り返して語り出したので、客席が凍りつきました。幸いその後は無事語り終えて下さって、最後は皆ほっとしたように大きな拍手をしたことを覚えています。

 こういうのは、正に生の高座ならではのハプニング。志ん朝の父親にして師匠でもあった、伝説の落語家古今亭志ん生が、酔って高座に上がり、噺の途中で眠ってしまったという有名なハプニングに、ある意味匹敵するのではないかという場に出っくわすことができて、むしろ幸運だったと言えましょう。
 そして、その日はわたしが初めて花緑さんの高座を見た日でもあったのです。

 すごかった。

 演目は、おなじみの「片棒」。
 ケチで有名な赤西屋の大旦那。身上(しんしょう)を息子に譲ることを考えるのですが、三人いる息子のうち、誰に譲るかで悩んでいます。考えた末、息子たちを試すために、「自分が死んだらどうやって葬式を出すか」と尋ねるのですが……。

 これが武将なら、「三本の矢」とかなんとか教訓的な話になるところでしょうが、落語ですからそうはなりません。
 長男も次男も、お金を無駄遣いすることばかり言うので不合格。三男だけは大旦那のお眼鏡にかなうのですが、実はこの三男、父親以上の吝嗇家(りんしょくか)。話はどんどんエスカレートして――

 もうこれが爆笑もの。
 おかしくておかしくてたまらない。笑いの渦なんていう言葉がありますが、それを実際の目の当たり――というか身体感覚として味わったのはあれが初めてでした。何しろ客席が「うわー」という巨大な一個の笑い声に包まれてしまった感があったのです。

 すごい人が出てきたものだ! 
 あの時、客席にいた人たち全員が、鳥肌の立つように思ったに違いありません。
 名人と言われた小さんの「老い」を目の当たりにしたからこそ、一層花緑さんの若い才能が際立ったということもあったでしょうが、「ああ、いいものを聞かせてもらった」というあの幸福感には無類のものがありました。
 
 それと似た幸福感を、神田伯山の講談に感じたと言えば、だらだら書いてきたこの駄文も、少しはまとまりがつくでしょうか。

 しかし、考えてみれば、今日本におられる皆さんは、もちろんこうした演芸に接する機会もわたしよりずっと多いでしょうし、伯山にしても、あるいは高座で生で聞いたという人もおられるかもしれません。何を今更ということになるでしょうが、まあもう少し、わたしのおしゃべりにお付き合い下さいませ。

 こうした古典芸能の楽しさとは何かと言えば、現代とは違う空気に触れられるということ。正にその一事に尽きると思います。

 例えば、わたしが未だに忘れられないのは、志ん朝の「唐茄子屋(とうなすや)政談(せいだん)」。
 この噺は通しでやると長いのですが、わたしが聞いたのは前半部分。

 道楽が過ぎて勘当になった若旦那の徳三郎。ついにはぼてふりの唐茄子屋にまで落ちぶれてしまいます。
 この間まで吉原に馴染みの花魁(おいらん)がいて、(いき)に遊んでいた若旦那が、唐茄子――つまりカボチャを売り歩かなければならない。慣れないものだから、恥ずかしくて売り声すらまともに出せません。そこで人気(ひとけ)のない田んぼで練習するのですが、ふと、そこが「吉原田んぼ」であることに気づくのです(江戸時代、吉原遊郭の周りは田んぼばかりでした)。

 吉原の中で遊んでいた自分が、今は外の田んぼから、みじめな唐茄子屋に落ちぶれて吉原を見ている。
 遠くに遊郭の華やかな灯りを望む暮方のわびしい田んぼの情景。その中に立つ若旦那の心が、聞く者の耳に――いや身体にすっと伝わってきました。

 前述したように、わたしが聞いた志ん朝の「唐茄子屋政談」はこの前半部分のみで、落語には珍しくオチがありませんでした。
 若旦那が懸命に練習する「唐茄子、唐茄子屋でござぁい」という台詞で静かに終わるという趣向だったのですが、その声を聞いた時、わたしは自分が江戸時代にいて、田んぼを吹き渡ってくる風を感じ、遠く吉原の灯りを見たような気分になりました。

 わたしは古典というものは、古典のまま味わいたいと思う人間です。
 平安のものは平安の、鎌倉のものは鎌倉の、そして江戸のものは江戸のまま味わいたい。
 要するに、今とは違う「時」の風の匂いをかぎたい、ということなんだと思います。

 そういう匂いを、伯山の「中村仲蔵」からも感じることができました。
 すっかりはまってしまい、続けて長編の「畦倉(あぜくら)重四郎(じゅうしろう)」全十九席を通しで聞くという熱の入れよう。おかげで、今これを書いている時も、耳の中で張り扇が釈台を叩く、小気味のいい「タタン、タンタン」という音が鳴り響いている始末です。

 台湾は旧暦でお正月を迎えるので、本当のお正月はまだ先。日本の年末年始の時期は「跨年(クゥア・ニィエン)」と呼ばれます。
 ところ変われば品変わると言いますが、まして国が違えば正月の趣きも異なる道理です。

 台北の「跨年」の名物は、台北101ビルの花火。
「冬の花火」なんて言えば、なんだか寂しいみたいですが、これが寂しいどころの話じゃありません。なにしろ、101ビルそのものが火だるまになって燃えているようなド派手な演出。※2

 この花火を見ると、「ああ、台湾の跨年(ニュー・イヤー)だなあ」と思うくらいには、わたしもこちらでの生活が長いのですが、頭の片隅では、やはり日本のお正月のことを懐かしむ気持ちもあって、それで久しぶりに古典芸能でも聞いてみようかと思ったら、これが大当たりだったわけです。
 youtubeなんて便利なものがあるおかげで、ここ数日、海の外にいながら、いい気持ちで江戸の風に吹かれておりました。

 さて。

 初日さす (すずり)の海に波もなし

 ご存知子規の句ですが、今年もぽつりぽつり、自分のペースで書いていきたいと思っております。

 旧年に引き続き、本年もどうぞご贔屓賜りますように。

※1「神田伯山ティービィー」より「中村仲蔵」URL: https://youtu.be/xpV1xIcg9As
※2 「2022跨年看東森」台北101煙火齊發 URL:https://youtu.be/gdm2lxrchQg
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