6月22日 わたしの引きこもり生活と古いLPレコード
文字数 2,611文字
わたしの引きこもり生活って、もうどのくらいになるのだろう。
仕事がオンラインに変わったのが、5月17日。
それから今日まで、殆ど家から外へ出ずに暮らしています。
……ということはですよ、うわあ、もう丸々一ヶ月以上だ!
まあ、でも、苦痛かと訊かれれば、「いえ、別に。それほどでは……。元々半分引きこもりみたいな生活でしたし。へへ」と妙な微笑を口辺に浮かべつつ、ぼそぼそ答えるようなやつです、わたしという人間は(笑)。
一般論ですが、何かことが起きた場合に大声で助けを求められるっていうのは、ひとつの才能だと思います。
この間、テレビドラマの『大豆田とわ子と三人の元夫』と見ていたら、とわ子(松たか子)が自動ドアに挟まれるシーンがありました。そこへちょうど若いカップルが通りかかるんですが、とわ子は助けを呼ぶかどうかで一瞬躊躇するんですね(最後は呼ぶんですが)。
そこでちょっと考えてしまったのは、自動ドアとかじゃなくて、もっと危険な、それこそ命の危機というような状況に立ち至っても、世の中には大声で助けを呼べる人と、呼べない人がいるんじゃないかなってことなんです。
自分は、どっちなんだろう?
閑話休題 。
(さておきも何も、元々全部閑話ではありますが^^;)
引きこもり生活を始めて暫くは、やっぱりおかしかったです。いろいろと。
なにしろ500日も普通の生活を送ってきたところへ、青天の霹靂 の如くコロナ禍の襲来。降れば土砂降り、じゃなくて、ふだんあまり夢は見ないけど、見れば必ず悪夢のわたしは、案の定変な夢ばかり見て、結果睡眠品質は最悪。その上、もしかしたら人生で初めてかもしれない「本が読めない」状態に陥り、もう何をしていいやらわかりませんでした。
そこで久しぶりに――本当に久しぶりに、動画配信サービスを利用して日本ドラマを見てみたんです。
台湾で利用できる動画配信サービスは、Netflixの他に、FridayやKKTV、愛奇藝などがあります。
日本ドラマがわりに多いのは、FridayかKKTVです。今回わたしが見たドラマは、竹野内豊さん、黒木華さんらの『イチケイのカラス』、菅田将暉さん、神木隆之介さんらの『コントが始まる』、それから前述の、松たか子さん、松田龍平さんらの『大豆田とわ子と三人の元夫』の三本だったのですが、『大豆田とわ子』がFridayの独占配信だった関係で、全部Fridayで見ていました。
なんでこの時期、急に日本のドラマを見たくなったんだろうと考えてみたんですが、たぶんストーリーが面白いかどうかということより(もちろんそれも大事ですが)、むしろさまざまな「日本語の声を聴く」ことが必要だったんだという結論に達しました。
実はだしぬけに――本当にだしぬけに、小さい頃の記憶が蘇ったんです。
これを買ってくれたことを、わたしは今でも母に感謝しているのですが、幼稚園の時、母が世界の物語が吹き込まれたLPレコードのセットを買ってくれました。
LPレコード?
そうなんです。夢ではありません。当時のわたしのうちには、その時でも相当時代遅れだったと思うのですが、やたらに大きくてかさばる、骨董品みたいなレコード・プレーヤーがあったんです。
買ってもらった物語のレコードに、わたしは異常なまでの興味を示し(母談)、幼稚園に行く前に必ず聴き、帰ってからも聴き、とにかく何度も何度も、それこそレコードが磨り減るほど繰り返し聴いていたのです。(小学生に上がってからも、時々思い出したように聴いていました。)
その頃はもちろん余計なことは何も考えずに、ただ純粋に物語の面白さと、それを語る声のすばらしさに惹かれて聴いていたのは言うまでもありません。でも、ずいぶん後になって――レコード・プレーヤーもとっくの昔に処分され、いや、LPレコードそのものが完全に過去の遺物となってしまった後になって、わたしはある日ふと、押入れの中にあの懐かしいレコードたちを見つけ、手に取ってしげしげと眺め、そしてようやく、そこに吹き込まれていたのが
渥美清、北林谷栄、熊倉一雄、米倉斉加年……今では信じられないような、錚々たる顔ぶれだったのです。
――そんなことを、台北の自分の部屋で、わたしは思い出しました。
わたしは今でも、「うさぎどん きつねどん」というお話の、渥美清がそのタイトルを読む声、それからラストの「ああ、おかしい」という声を、
トロール、出てこい。
さあ、出てこい!
お前の頭を突きさすぞ!
……
と、熊倉さんが勇敢なやぎの声で歌っていた歌詞を、わたしは未だに暗誦できます。
それにしても、なんというぜいたくなレコードだったことか!
幼稚園生のわたしが吸い込まれるように聴いていた声。それらの声が、それらの声によって語られた物語の数々が、今の自分の一部を作ってくれたこと、そしてそれらの声は今も猶、わたしの身体の中で鳴り響いていることに気づいて、暫く茫然としてしまったのでした。
人は誰でも、自分なりの世界を理解する方法を持っていますが、わたしは自分のことを、大事なことを理解しようとする時に文字を媒介にするタイプだとずっと思ってきました。たぶんそれに間違いはないのですが、今回、声というものの力――それは時に文字以上に、いや、正確には文字とは違った次元において、とてもとても重要な意味を持っているということを、改めて理解した――と言うか、
〈声〉でなければいけない。そういう時が、あるのだと思います。
ふだんの生活を送っていれば、おそらく記憶の底に沈んだままになっていたことを思い出せたのですから、引きこもり生活も悪いことばかりではないのかもしれません。
無法改變的(変えることができないのなら)
學會去享受(それを楽しむことを学ぶべし)
最近、なかなか気に入っている言葉です。
今日の台北は曇りのち雨。
昼過ぎから、ずっと雨の音が聴こえています。
仕事がオンラインに変わったのが、5月17日。
それから今日まで、殆ど家から外へ出ずに暮らしています。
……ということはですよ、うわあ、もう丸々一ヶ月以上だ!
まあ、でも、苦痛かと訊かれれば、「いえ、別に。それほどでは……。元々半分引きこもりみたいな生活でしたし。へへ」と妙な微笑を口辺に浮かべつつ、ぼそぼそ答えるようなやつです、わたしという人間は(笑)。
一般論ですが、何かことが起きた場合に大声で助けを求められるっていうのは、ひとつの才能だと思います。
この間、テレビドラマの『大豆田とわ子と三人の元夫』と見ていたら、とわ子(松たか子)が自動ドアに挟まれるシーンがありました。そこへちょうど若いカップルが通りかかるんですが、とわ子は助けを呼ぶかどうかで一瞬躊躇するんですね(最後は呼ぶんですが)。
そこでちょっと考えてしまったのは、自動ドアとかじゃなくて、もっと危険な、それこそ命の危機というような状況に立ち至っても、世の中には大声で助けを呼べる人と、呼べない人がいるんじゃないかなってことなんです。
自分は、どっちなんだろう?
(さておきも何も、元々全部閑話ではありますが^^;)
引きこもり生活を始めて暫くは、やっぱりおかしかったです。いろいろと。
なにしろ500日も普通の生活を送ってきたところへ、青天の
そこで久しぶりに――本当に久しぶりに、動画配信サービスを利用して日本ドラマを見てみたんです。
台湾で利用できる動画配信サービスは、Netflixの他に、FridayやKKTV、愛奇藝などがあります。
日本ドラマがわりに多いのは、FridayかKKTVです。今回わたしが見たドラマは、竹野内豊さん、黒木華さんらの『イチケイのカラス』、菅田将暉さん、神木隆之介さんらの『コントが始まる』、それから前述の、松たか子さん、松田龍平さんらの『大豆田とわ子と三人の元夫』の三本だったのですが、『大豆田とわ子』がFridayの独占配信だった関係で、全部Fridayで見ていました。
なんでこの時期、急に日本のドラマを見たくなったんだろうと考えてみたんですが、たぶんストーリーが面白いかどうかということより(もちろんそれも大事ですが)、むしろさまざまな「日本語の声を聴く」ことが必要だったんだという結論に達しました。
実はだしぬけに――本当にだしぬけに、小さい頃の記憶が蘇ったんです。
これを買ってくれたことを、わたしは今でも母に感謝しているのですが、幼稚園の時、母が世界の物語が吹き込まれたLPレコードのセットを買ってくれました。
LPレコード?
そうなんです。夢ではありません。当時のわたしのうちには、その時でも相当時代遅れだったと思うのですが、やたらに大きくてかさばる、骨董品みたいなレコード・プレーヤーがあったんです。
買ってもらった物語のレコードに、わたしは異常なまでの興味を示し(母談)、幼稚園に行く前に必ず聴き、帰ってからも聴き、とにかく何度も何度も、それこそレコードが磨り減るほど繰り返し聴いていたのです。(小学生に上がってからも、時々思い出したように聴いていました。)
その頃はもちろん余計なことは何も考えずに、ただ純粋に物語の面白さと、それを語る声のすばらしさに惹かれて聴いていたのは言うまでもありません。でも、ずいぶん後になって――レコード・プレーヤーもとっくの昔に処分され、いや、LPレコードそのものが完全に過去の遺物となってしまった後になって、わたしはある日ふと、押入れの中にあの懐かしいレコードたちを見つけ、手に取ってしげしげと眺め、そしてようやく、そこに吹き込まれていたのが
誰の声であったのか
を知り、びっくり仰天することになります。渥美清、北林谷栄、熊倉一雄、米倉斉加年……今では信じられないような、錚々たる顔ぶれだったのです。
――そんなことを、台北の自分の部屋で、わたしは思い出しました。
わたしは今でも、「うさぎどん きつねどん」というお話の、渥美清がそのタイトルを読む声、それからラストの「ああ、おかしい」という声を、
はっきり
覚えています。わたしが今でも「長靴をはいた猫」の物語が大好きなのは、それを最初に北林谷栄さんの声で聴いたからだと思います。米倉斉加年さんが吹き込んでいた物語は、なんと『聊斎志異』の中の一篇でした。熊倉一雄さんの朗読は「三匹のやぎとトロール」で、歌まで入っていました。トロール、出てこい。
さあ、出てこい!
お前の頭を突きさすぞ!
……
と、熊倉さんが勇敢なやぎの声で歌っていた歌詞を、わたしは未だに暗誦できます。
それにしても、なんというぜいたくなレコードだったことか!
幼稚園生のわたしが吸い込まれるように聴いていた声。それらの声が、それらの声によって語られた物語の数々が、今の自分の一部を作ってくれたこと、そしてそれらの声は今も猶、わたしの身体の中で鳴り響いていることに気づいて、暫く茫然としてしまったのでした。
人は誰でも、自分なりの世界を理解する方法を持っていますが、わたしは自分のことを、大事なことを理解しようとする時に文字を媒介にするタイプだとずっと思ってきました。たぶんそれに間違いはないのですが、今回、声というものの力――それは時に文字以上に、いや、正確には文字とは違った次元において、とてもとても重要な意味を持っているということを、改めて理解した――と言うか、
思い出した
ような気がしたのです。〈声〉でなければいけない。そういう時が、あるのだと思います。
ふだんの生活を送っていれば、おそらく記憶の底に沈んだままになっていたことを思い出せたのですから、引きこもり生活も悪いことばかりではないのかもしれません。
無法改變的(変えることができないのなら)
學會去享受(それを楽しむことを学ぶべし)
最近、なかなか気に入っている言葉です。
今日の台北は曇りのち雨。
昼過ぎから、ずっと雨の音が聴こえています。