第3話 月花寵愛
文字数 3,187文字
明障子を開け放った広縁に頬杖ついて寝そべり、十兵衛は上弦の月を眺めていた。
風の無い穏やかな秋の夜、煙管の煙はいつまでもユラユラと月へ登ってゆく。
『お召し上がりになればよろしいのに』
昼間の撫子の言葉と白い胸元、指が埋みそうに柔らかいのに押し返してくる張りのある乳を反芻しながら、
「どうしたものかな…」
と、つぶやく。
そこへ撫子が酒肴を乗せた膳を運んで来た。
「お待たせいたしました。お酒は少し燗をつけております」
「ふうん、確かにもう燗酒も良い季節だな」
起き上がって安座した十兵衛に撫子はヒタリとくっついて座り、酌をする。
子供の頃から、十兵衛が呑む時はこうやって酌をしてくれていたのだが、今や撫子も呑める歳である。
一人酒よりも、と勧めてみたが、これは今の十兵衛には薮蛇であったと言う他ない。
「おまえも呑まぬか?」
「弱いので、一杯だけなら…」
十兵衛が酌をしてやると、撫子はくーっと盃を干し、ハァ、と甘く息を吐くと、 その肌は月明かりでもハッキリとわかる程に上気した。
盃を十兵衛に返し、黒目がちな目を夢でも見ているかのように潤ませて、
「どうぞ」
と言って銚子を傾けるさまは、初めて見る撫子の艶かしい姿だった。
若い頃程では無くなったが、十兵衛の酒は癖が悪い。
盃を重ねるにつれ、その悪い癖が酷くなるのだが、酒そのものにはめっぽう強く、量をこなして潰れる事が無いので、余計に始末が悪いときている。
良い具合に酒が回ってきた十兵衛は、傍らに侍り酌をする美女の紅い唇を吸いたい欲望に駆られた。
「十兵衛様、どうかなさいましたか?私の顔に何か付いておりますか?」
声を掛けられ、十兵衛は我に返った。
無意識の内に撫子の顔に自分の顔を寄せていたらしい。
「大丈夫だ、見間違いであった」
と言い訳し、あわてて離れ、
「後は手酌でやるからもういいぞ。ちと考えたい事がある」
「よろしいのでござりますか?では、夜具を延べておきますね」
と、撫子は座敷に入り、屏風裏から夜具を出して広げ始めた。
座敷に向き直り、頬杖ついて寝そべった十兵衛は、煙管をくわえてその様子を眺めつつ、今、撫子が用意している夜具にそのまま組敷いて、落花狼藉に及ぶ妄想をしては打ち消していた。
心の内で十兵衛が、
「こんな事を考えてしまうのは酒のせいだ。おれの正気が残っている内に、早く下がってくれ」
と、祈るような気持ちでいるなど知りもせず、夜具を敷き終えた撫子は手をつかえ、
「それでは失礼いたします。膳はおやすみになられてから下げに参りますゆえ、そのままに。あまり夜更かしなされませぬよう」
と言い唐紙を閉めた。
ハァーと、安心したように大きな溜め息を吐いた十兵衛は、ぐいっと盃を空けると大の字に寝転がり、月に語り掛けるように、再び、
「どうしたものかな…」
と、つぶやいた。
十兵衛は、とても熟睡するタチである。
まるで昼間遊び疲れた子供のように、こんこんと眠る。
もちろん、数多の修羅場をくぐってきた天才剣士である、周囲に殺気が立てば、たとえそのあいだに数間の距離があろうとも十兵衛の目は霧の一滴を吹きつけられたように、ふっと開く。
しかし、おかしな気配や凶気のない限りは、声を掛けられたり揺り起こされたりして目をさます事もしばしばであるが、この深い眠りが、ひとたび目覚めたときの彼の剣技のすばらしい集中の源泉となるのだ。
今宵も十兵衛は安らかな眠りの中にあった。
美味い酒を飲み、心地よく整えられた夜具にくるまれて。
しかし、一転
十兵衛は、宵闇が迫る夏の江戸にいた。
「ああ…また、この夢か」
悪鬼羅刹にとり憑かれ、夜毎町をさ迷い辻斬りをする友・主計 を斬った、あの日の夢だ。
あれからもう何度見ただろうか…どんなに抗おうと、あの出来事が寸分違わず再現される、この悪夢を。
『抜け、十兵衛』
『主計…』
二人は相青眼に構えている。
先に動いたのは、主計の方だ。
実力は十兵衛の方が数段上、殺さずに済ませるはずであった。
それなのに―
外したはずの愛刀が、友の頸を貫く感触を伝える。
『か ず え ぇ ぇ ー!』
「十兵衛さま」
あの子が呼んでいる…。
そう思った刹那、十兵衛は深く昏い水底から、日に照らされた水面へ浮かび上がるように、目をさました。
「十兵衛様、ずいぶんとうなされておいででした。大丈夫でござりますか?」
撫子が心配そうな顔で見つめている。
呼吸が荒れ、全身にじっとりと嫌な汗をかいた十兵衛は、自分がはらはらと涙を流している事に気づき、それをごまかすように撫子を抱き寄せ、甘えるように、その胸に顔を埋めた。
撫子は十兵衛の頭をなで、背をさすり、
「怖い夢を見られたのですね。大丈夫でござりますよ。撫子がずっと、お側におります」
と、優しくささやいた。
それを聞きながら、十兵衛はそのまま再び深い眠りに落ちていった。
「十兵衛様、おめざめくださりませ。お願いにござります」
十兵衛はただならぬ気配を感じて目をさました。
どれ位の時が経ったものか、夜明けが近いとみえて明障子ごしの外は薄明るく見える。
衣ごしの温かく柔らかな乳枕の抱きごこちは、なかなかに離れがたくはあるが、声にさし迫ったものがあり、致し方なく顔をあげた。
「どうした?」
「あ!十兵衛様、良かった。早く、お手を…」
と言いながら、撫子は体をよじる。
十兵衛の腕の中はきつくも苦しくも痛くもなく、体をよじる余裕があるのに、それ以上はけっしてゆるまず、抜け出ることが出来ない。
「なんだ、まだ良いではないか。もう少しこうしててくれよ」
と、十兵衛はのんびりと言いながら、また撫子の胸に顔をうずめる。
撫子はモジモジしながら消えいりそうな声で、
「あの、その、お、おまなかに、行きたいのです…」
「おう、そうか。それはいかんな」
十兵衛は起き上がると、撫子をヒョイと抱き上げて縁側を回り、座敷裏にある厠へ向かう。
「え?あのぅ、自分で行けますから、おろして下さりませ」
という間にはもう十兵衛は厠の戸を開け撫子をおろすと、背後から小袖のすそと湯文字をめくり上げ、幼子に用を足させる時のように、抱えようとしたのだ。
「いやあぁー!お離し下さりませ、出てってえぇーー!!」
撫子は悲鳴をあげて十兵衛をふりほどき、戸から押し出すと、やっと用を足す事が出来た。
なんとか間に合い、深い安堵の溜め息を吐く撫子に、戸のむこうから十兵衛が、
「悪かったな、詫びといってはなんだが拭いてやろうか?」
と、笑いを含んだ声音で言う。
「結構にござります!」
いささか乱暴に戸を開けて撫子が出てくると、手水鉢の所で十兵衛が笑いをかみ殺して震えていた。
撫子は黙ってふくれて手を洗っている。
「おれは寝ぼけておったようだな。子供の頃のおまえは夜寝てる時にもよおすと、いつもおれを起こして厠にお供させていたではないか。あのつもりでおったのだ、済まぬ」
そう言われて怒るわけにもいかず、撫子は尻を見られたという娘らしい恥じらいから頬を染め、下を向いてこっくりと頷いた。
「しかし、子供の頃と違って若桃のような丸みの、良い尻になったな」
と、十兵衛がニヤニヤしながらデリカシーの無い余計な事を言ったので、撫子は手水鉢の水を十兵衛に向かってはね飛ばすと、
「十兵衛様の馬鹿!」
と言って、母家の方へ走って行った。
「しまった。それにしても、まだまだ可愛ゆらしいのう」
もうしばらく共寝で乳枕を楽しませてもらおうと思っていた十兵衛だが、当てが外れたわりには嬉しそうに笑いながら冷たくなった夜具へもぐりこみ、撫子の残り香につつまれて安らかな眠りの中へ戻った。
風の無い穏やかな秋の夜、煙管の煙はいつまでもユラユラと月へ登ってゆく。
『お召し上がりになればよろしいのに』
昼間の撫子の言葉と白い胸元、指が埋みそうに柔らかいのに押し返してくる張りのある乳を反芻しながら、
「どうしたものかな…」
と、つぶやく。
そこへ撫子が酒肴を乗せた膳を運んで来た。
「お待たせいたしました。お酒は少し燗をつけております」
「ふうん、確かにもう燗酒も良い季節だな」
起き上がって安座した十兵衛に撫子はヒタリとくっついて座り、酌をする。
子供の頃から、十兵衛が呑む時はこうやって酌をしてくれていたのだが、今や撫子も呑める歳である。
一人酒よりも、と勧めてみたが、これは今の十兵衛には薮蛇であったと言う他ない。
「おまえも呑まぬか?」
「弱いので、一杯だけなら…」
十兵衛が酌をしてやると、撫子はくーっと盃を干し、ハァ、と甘く息を吐くと、 その肌は月明かりでもハッキリとわかる程に上気した。
盃を十兵衛に返し、黒目がちな目を夢でも見ているかのように潤ませて、
「どうぞ」
と言って銚子を傾けるさまは、初めて見る撫子の艶かしい姿だった。
若い頃程では無くなったが、十兵衛の酒は癖が悪い。
盃を重ねるにつれ、その悪い癖が酷くなるのだが、酒そのものにはめっぽう強く、量をこなして潰れる事が無いので、余計に始末が悪いときている。
良い具合に酒が回ってきた十兵衛は、傍らに侍り酌をする美女の紅い唇を吸いたい欲望に駆られた。
「十兵衛様、どうかなさいましたか?私の顔に何か付いておりますか?」
声を掛けられ、十兵衛は我に返った。
無意識の内に撫子の顔に自分の顔を寄せていたらしい。
「大丈夫だ、見間違いであった」
と言い訳し、あわてて離れ、
「後は手酌でやるからもういいぞ。ちと考えたい事がある」
「よろしいのでござりますか?では、夜具を延べておきますね」
と、撫子は座敷に入り、屏風裏から夜具を出して広げ始めた。
座敷に向き直り、頬杖ついて寝そべった十兵衛は、煙管をくわえてその様子を眺めつつ、今、撫子が用意している夜具にそのまま組敷いて、落花狼藉に及ぶ妄想をしては打ち消していた。
心の内で十兵衛が、
「こんな事を考えてしまうのは酒のせいだ。おれの正気が残っている内に、早く下がってくれ」
と、祈るような気持ちでいるなど知りもせず、夜具を敷き終えた撫子は手をつかえ、
「それでは失礼いたします。膳はおやすみになられてから下げに参りますゆえ、そのままに。あまり夜更かしなされませぬよう」
と言い唐紙を閉めた。
ハァーと、安心したように大きな溜め息を吐いた十兵衛は、ぐいっと盃を空けると大の字に寝転がり、月に語り掛けるように、再び、
「どうしたものかな…」
と、つぶやいた。
十兵衛は、とても熟睡するタチである。
まるで昼間遊び疲れた子供のように、こんこんと眠る。
もちろん、数多の修羅場をくぐってきた天才剣士である、周囲に殺気が立てば、たとえそのあいだに数間の距離があろうとも十兵衛の目は霧の一滴を吹きつけられたように、ふっと開く。
しかし、おかしな気配や凶気のない限りは、声を掛けられたり揺り起こされたりして目をさます事もしばしばであるが、この深い眠りが、ひとたび目覚めたときの彼の剣技のすばらしい集中の源泉となるのだ。
今宵も十兵衛は安らかな眠りの中にあった。
美味い酒を飲み、心地よく整えられた夜具にくるまれて。
しかし、一転
十兵衛は、宵闇が迫る夏の江戸にいた。
「ああ…また、この夢か」
悪鬼羅刹にとり憑かれ、夜毎町をさ迷い辻斬りをする友・
あれからもう何度見ただろうか…どんなに抗おうと、あの出来事が寸分違わず再現される、この悪夢を。
『抜け、十兵衛』
『主計…』
二人は相青眼に構えている。
先に動いたのは、主計の方だ。
実力は十兵衛の方が数段上、殺さずに済ませるはずであった。
それなのに―
外したはずの愛刀が、友の頸を貫く感触を伝える。
『か ず え ぇ ぇ ー!』
「十兵衛さま」
あの子が呼んでいる…。
そう思った刹那、十兵衛は深く昏い水底から、日に照らされた水面へ浮かび上がるように、目をさました。
「十兵衛様、ずいぶんとうなされておいででした。大丈夫でござりますか?」
撫子が心配そうな顔で見つめている。
呼吸が荒れ、全身にじっとりと嫌な汗をかいた十兵衛は、自分がはらはらと涙を流している事に気づき、それをごまかすように撫子を抱き寄せ、甘えるように、その胸に顔を埋めた。
撫子は十兵衛の頭をなで、背をさすり、
「怖い夢を見られたのですね。大丈夫でござりますよ。撫子がずっと、お側におります」
と、優しくささやいた。
それを聞きながら、十兵衛はそのまま再び深い眠りに落ちていった。
「十兵衛様、おめざめくださりませ。お願いにござります」
十兵衛はただならぬ気配を感じて目をさました。
どれ位の時が経ったものか、夜明けが近いとみえて明障子ごしの外は薄明るく見える。
衣ごしの温かく柔らかな乳枕の抱きごこちは、なかなかに離れがたくはあるが、声にさし迫ったものがあり、致し方なく顔をあげた。
「どうした?」
「あ!十兵衛様、良かった。早く、お手を…」
と言いながら、撫子は体をよじる。
十兵衛の腕の中はきつくも苦しくも痛くもなく、体をよじる余裕があるのに、それ以上はけっしてゆるまず、抜け出ることが出来ない。
「なんだ、まだ良いではないか。もう少しこうしててくれよ」
と、十兵衛はのんびりと言いながら、また撫子の胸に顔をうずめる。
撫子はモジモジしながら消えいりそうな声で、
「あの、その、お、おまなかに、行きたいのです…」
「おう、そうか。それはいかんな」
十兵衛は起き上がると、撫子をヒョイと抱き上げて縁側を回り、座敷裏にある厠へ向かう。
「え?あのぅ、自分で行けますから、おろして下さりませ」
という間にはもう十兵衛は厠の戸を開け撫子をおろすと、背後から小袖のすそと湯文字をめくり上げ、幼子に用を足させる時のように、抱えようとしたのだ。
「いやあぁー!お離し下さりませ、出てってえぇーー!!」
撫子は悲鳴をあげて十兵衛をふりほどき、戸から押し出すと、やっと用を足す事が出来た。
なんとか間に合い、深い安堵の溜め息を吐く撫子に、戸のむこうから十兵衛が、
「悪かったな、詫びといってはなんだが拭いてやろうか?」
と、笑いを含んだ声音で言う。
「結構にござります!」
いささか乱暴に戸を開けて撫子が出てくると、手水鉢の所で十兵衛が笑いをかみ殺して震えていた。
撫子は黙ってふくれて手を洗っている。
「おれは寝ぼけておったようだな。子供の頃のおまえは夜寝てる時にもよおすと、いつもおれを起こして厠にお供させていたではないか。あのつもりでおったのだ、済まぬ」
そう言われて怒るわけにもいかず、撫子は尻を見られたという娘らしい恥じらいから頬を染め、下を向いてこっくりと頷いた。
「しかし、子供の頃と違って若桃のような丸みの、良い尻になったな」
と、十兵衛がニヤニヤしながらデリカシーの無い余計な事を言ったので、撫子は手水鉢の水を十兵衛に向かってはね飛ばすと、
「十兵衛様の馬鹿!」
と言って、母家の方へ走って行った。
「しまった。それにしても、まだまだ可愛ゆらしいのう」
もうしばらく共寝で乳枕を楽しませてもらおうと思っていた十兵衛だが、当てが外れたわりには嬉しそうに笑いながら冷たくなった夜具へもぐりこみ、撫子の残り香につつまれて安らかな眠りの中へ戻った。