第4話 深山遊谷
文字数 5,955文字
遊び相手の撫子が三味線の稽古へ行った為、十兵衛は一人で書をしたためていた。
撫子が戻ったら字を見てやる約束なので、手本を作っているのだ。
剣の天禀に加え、荒くれ者や酒乱といった粗野なイメージがあるが、上様の小姓であった十兵衛は高い教養を持つ大変な能筆家であり、撫子の読み書きの最初の師匠でもあった。
「十兵衛先生、長七郎にござります。入ってもよろしいでしょうか?」
「おう、入れ」
長七郎はこの河原家の一人息子で、撫子の六つ上の兄である。
十兵衛を先生と呼ばわるのは、子供の頃に十兵衛より剣術の指南を受けていたためだ。
「どうしたのだ?」
「今、使いで山の爺様の家に行って戻った所なのですが…」
聞くと、爺様が大きな猪を仕留めたのだが、重すぎて運べない。
分け前をやるので十兵衛先生に手伝いに来い、という話であった。
長七郎はというと、裕福な商家の非力な若旦那が役に立つはずもなく、伝令が精一杯である。
「爺様やるのう。すぐ行こう。夕餉は牡丹鍋だな、ふふっ」
普段の十兵衛は畳に根が生えたような不精者だが、こういう時の行動の速さはさすがで、さっさと裁っ付け袴に着替えると長七郎も連れずに出ていった。
山の爺様とは河原家の先代当主で、撫子と長七郎の祖父、そして十兵衛の祖父の太祖柳生石舟斎の弟子であった人である。
宿場町から少し山へ入った場所に隠居家を構えているので、山の爺様と呼ばれているのだ。
「爺様おるかえ?」
と、戸口で呼ばわると、小柄な好好爺が出てきた。
「おうおう、十兵衛どの、待っておったぞ。久しいのう」
再会の挨拶もそこそこに、まずはと二人は森の中へと入って行く。
爺様に案内されたそこには、十兵衛より大きな七尺はあろうと思われる大猪が、後ろ足を太い綱で大木につながれ、頭を下にして谷へ落ちる斜面に提げられ血抜きをしてあった。
「ここまではよかったんじゃが、引き上げようとしたらびくともせんでな」
と、爺様がカラカラ笑うと、十兵衛は綱をつかみヒョイと引き上げ、
「血はきれいに抜けておるようでござるな。爺様の庭先でよいのか?」
とムシロに包んだ猪を担ぎ上げた。
「ほ!」
爺様は感嘆の声をあげる。
「バラしも手伝うてくれよ。やり方はおぼえておるか?」
「もちろんでござるよ。若い頃におぼえたことは、なかなか忘れぬものですな」
隠居家に戻ると婆様が庭のかまどで湯を沸かし、ヨキだ鎌だと用意を整えて待っていてくれたおかげで、思っていたよりも早く作業を終えての酒盛りとなった。
「いやはや、十兵衛どのは相変わらずの醜男ぶりだのう。あの大猪を軽々と担ぐとは」
「爺様、いまどきそれは誉め言葉ではござらんよ」
先ほどさばいた獲物を囲炉裏であぶり焼きしたものを肴にして上機嫌な爺様の言葉に、十兵衛は苦笑いする。
「何を言われますか、この婆も十兵衛どのの醜男ぶりに、あと十も若ければ、と思いましたよ」
「ホレみろ、わしの婆までもがおぬしの醜男ぶりにあてられておる」
「まあ、爺様、妬いておられますのか?ホホホ」
ちなみに婆様は十若くなると六十である。
古語の醜男―しこお―とは、強く逞しい色男の事であり、不細工な男では無い。
ただ、この時代のモテ男の傾向は色白で中性的な優男で、浅黒い肌に六尺豊かの長身で筋骨隆々な十兵衛は、整った顔をしてはいるものの流行りのタイプではなかった。
「しかし、血は争えんものでのう。わしらの可愛い孫娘も、おぬしの醜男ぶりにあてられておるわい」
十兵衛は一瞬、撫子の手習いをみてやる約束を思い出したが、いとまを言い出せる雰囲気では無い。
「そんな、爺様。何を申されますか。撫子は今小町と名高い十九の乙女ですぞ。それがしのような片目の潰れた四十のおやじに対して、何も思うところなどありますまいて」
「はて、十兵衛どの、おぬしはまこと左様に思うておるのか…?」
十兵衛は何も言えなかった。
撫子が自分を好いているのは分かっている。
ただそれが、幼い頃からの兄を慕うような気持ちの延長なのか、それとも一人の男として求められているのか、十兵衛には量りかねていた。
それを察するように、爺様が続ける。
「のう、十兵衛どの。わしはおぬしが撫子に、手習いだけでなく竹刀を振らせて馬の乗り方を教え、漢詩に和歌、果ては四書五経や仕舞いと茶の湯まで仕込んでおるのを見て、おぬしは光源氏か後深草院になるつもりでおるのだと思うておった」
「それがしが、でござるか?」
「左様。いずれ撫子を貰い受けるつもりで、自分と釣り合うように仕込んでおるのだろうとな」
十兵衛にはそのような自覚は無かったが、端からはそのように見えていたのかと知って愕然とする。
「わしらだけでは無く、皆がそのように思うておった。撫子本人も、じゃ」
爺様は続ける。
「二日前に撫子がここに来てのう。久しぶりに会うたおぬしが、以前にも増して良い男で、自分がどれ程おぬしに惚れておるのかを、頬を染めながら話していったわえ」
「婆も聞いておりましたよ。あなた様の御世話を焼くのが、まるで女房にでもなったようで、嬉しいとも」
「撫子は女の道具揃いといわれる十六になった途端、降る雨のごとくに縁談が来るようになった。中には然るべき家に養女に入った後に大名の側室や旗本の正室になどという話も、チラホラある。しかしな、あれは決して首を縦には振らなんだ。十兵衛どの、おぬしのせいじゃ。すずと市朗も困り果てておったわえ」
撫子の恋心を知らぬかったのが、己一人であったとは。―十兵衛は、改めて自分のその方面に対する鈍さに、目眩をすらおぼえた。
「さて十兵衛どの。おぬし、どうするよ?すずと市朗が、あの離れにおぬしと撫子を二人にさせておるのは、おぬしを信じておるからでは無い。むしろ撫子に手を付けてくれるのを待っておるのじゃぞ」
「爺様、それは…」
十兵衛は驚きに隻眼を瞠った。
兄や姉やのみならず、老夫婦までもが、あの可憐な娘に自分のような男の手が付くのを待っているなどと、手を付けてくれるなと釘をさされるならまだしも、そのような話し、俄には信じられるようなものではない。
「十兵衛どの、婆も昔は娘でございました。想う方に添いたい撫子の気持ちが、痛い程よう分かるのです。それに、十兵衛どのは撫子に嫁に貰うてやる、という約束をなされておられたとか。すずと市朗が気を揉んでおるのは、撫子が二十歳になるまでに十兵衛どのが迎えに来なければ、死ぬと書いた日記を盗み見たせいにございます」
「なっ、馬鹿な…!」
「馬鹿はおぬしじゃ!そも男子が軽々にそのような約束を、相手を子供と侮りての事であろうが、撫子とて人形では無いのじゃぞ。このまま捨て置けば、あれは年明け早々にも死ぬるであろう。しかし、それは許さぬ。十兵衛どの、その気が無ければ撫子をお斬りなされ。それがお嫌ならば、せめて袖にしてやってくれ。いずれを選んでも死ぬるが、そのほうが撫子が黄泉路で迷わぬで済む」
十兵衛は鉄球で頭を打たれたような衝撃をうけていた。
あのたおやかで美しい撫子が、このような激しい恋情を自分に向けていようとは。
この八年の間には、会いにこそ来なかったものの、折々に文を交わしていた。
そのような気持ちのあるなどと、ついぞ匂わせて寄越した事さえも無かったのに。
「まあ爺様、そのような…。まずは十兵衛どののお心を聞いてみましょうぞ」
婆様に促され、十兵衛はポツポツと今の自分の心の内を話し始めた。
撫子を昔のままに愛おしく思い、心栄え美しき娘に成長した事を喜び、大切に護りたいと思う反面、見目も美しく成長した姿を見て、気を抜くと淫心を抱いてしまい無体な仕打ちに及んでしまいそうな自分もいて、どちらが自分の本心なのかが分からぬ、と。
爺様と婆様は顔を見合わせた。
「あー、十兵衛どの、どちらも本心なのであろう。それは恋ではござらぬのか?」
「へ…、これは恋なのでござるか?」
婆様はホホホ、と声をあげて笑った。
「なんとまあ、十兵衛どののお可愛らしきこと。いまだ恋を知らぬでございましたのか。二人が二人とも初心では話の進みが遅いのも無理はございませぬなあ」
十兵衛が耳まで赤くなったのは、酔いが回ったせいでは無い。―おれは撫子に惚れておるのか?この気持ちが恋というものなのか?そうだとすれば、これは何とも落ち着かぬものだのう…。
「なんじゃ、おぬし見た目だけでなく中身も石舟斎様にそっくりではないか。多情で女色好きの又右衛門に似ておるのかと思うておれば…」 又右衛門とは十兵衛の父、柳生但馬守の以前の通称である。
「ともあれ、撫子の事をうやむやにして逃げれば、このわしがどこまででも追って、石舟斎様からもお褒めをいただいたこの弓で、おぬしに射掛けてやろうよ」
立て掛けられた弓の方に顎をしゃくった爺様は笑ってはいるが、目にはギラリとした光があり、冗談の類いでは無い事がうかがえる。
実際、今、口にしている猪は爺様が眉間に一矢で仕留めたものだ。
御歳八十に近い爺様は、父親と二代で十兵衛の祖父柳生石舟斎に弟子入りしており、その縁で商人でありながら戦にも出ている。
老いたりといえども、戦国の世を刀と弓で生き抜いた兵 であり、さすがの十兵衛もこの爺様に弓で狙われて生きていられる気はしないであろう。
「爺様、そろそろ十兵衛どのをお帰しせねば。あまりお引き留めしては撫子が寂しがりますでしょう」
「おう、そうじゃの。まだ明るいとはいえ、肉を持って山中を歩くとヒヒに襲われるやもしれん。青嵐 に送らせようぞ」
外まで見送りに出た爺様に呼ばれてやってきたのは、飼い慣らした山犬であった。
「では十兵衛どの、撫子の事、ようよう頼みおき申したぞ。恋は知らいでも、女遊びはお盛んであると聞いておる。あれを側置いて可愛がってやってくれ」
「は、心得て…ござる?」
祖父の口から聞かされるには微妙な内容だけに、十兵衛の返事も少し変なものになってしまうが、隻眼を笑わせて いとまを告げ、青嵐を供に山道を下って行く。
何やら十兵衛は背中と頭が熱く、ふわふわとした落ち着かない心地で、秋の夕暮れの涼やかな山風が頬を冷してくれるのを気持ちよく感じながら、我知らず速足になっていた。
婆様は、囲炉裏端で青嵐の連れ合い、野分 の背を撫でている。
「爺様、十兵衛どのはいくつになっても童子 のようでございますなあ」
「そうよの。あやつの頭には剣と兵法しか無いのえ」
「春桃様が二言目には、石舟斎様の生まれ変わりだと言われて、舐めるように可愛がっておられましたが、ほんにそのとおりに思われます」
この隠居夫婦は先に触れたように、柳生十兵衛の生まれる前から大和柳生家に深い関わりを持っている。
婆様の言う春桃様とは、十兵衛の祖母で柳生石舟斎の正室・春桃御前のことで、正室と言っても石舟斎は他に室を持たず、春桃が生涯ただ一人の妻であり、十兵衛の父・柳生但馬守を含む五男六女の母である。
「そういえば、十兵衛どのの正室として届け出ておられる、和泉どのの御息女は、どうなされるのでしょうか。又右衛門どのがお亡くなりになられた今となっては…」
「婆よ、今はまだ何とも言えぬな。撫子は可愛いが、和泉どのも古き友であるゆえ」
和泉どの、とは大和国の土豪・秋篠和泉守、その娘は柳生十兵衛の正室として幕府に届出がなされており、松・竹の二人の娘がいるとされている。
しかし、この老夫婦の口ぶりからは何やらそのままに受けとることの出来ない、剣呑な空気が感じられた。
山を降りてきた十兵衛が宿場の入り口の枡形を抜けると、それまでピタリと十兵衛の隣を付いて歩いていた青嵐が走り出した。
何事かと思っていたら、宿場の中央に位置する河原家の、表の通用口にあたる通り土間の板戸を前足で引っ掻いている。
板戸が開き、撫子が出てきた。
たすきと前掛け姿であるところを見ると、通り土間の中にある台所で泊まり客の夕餉の支度をしていたのだろう。
「まあ、青嵐。どうしたの?」
青嵐は撫子の手をペロペロと舐め、腹を見せて地面に寝転がった。
しゃがんで青嵐の腹をワシワシと掻く撫子は、もうずいぶんと傾いた夕陽の中、自分の上に影が差したのに気付き、顔を上げた。
「遅くなって、すまんの」
「十兵衛様…。謝っても許しませんからね」
そう、撫子の手習いを見てやる約束があったのだ。
いつものように拗ねて唇を尖らす撫子を見て、十兵衛は生まれて初めて胸に甘く鈍い痛みのさすのを感じていた。
「爺様から、猪肉だぞ」
肩から降ろした背負子を見せると、撫子の目はキラキラと輝き、
「きょ、今日は特別に許して差し上げます。今日だけでござりまするよ!」
と言って、土間の中に十兵衛を促すと、猪肉を一切れ切り取り、外で待っていた青嵐に与えて労ってから山へ帰し、
「さ、十兵衛様。まずは湯をつかいなされませ。獣臭うござりまする」
撫子は困ったような顔をして勧める。
見ると、他の使用人達も同じような顔をしていたので、十兵衛は苦笑いして離れに引っ込んでいった。
十兵衛の起居する離れには専用の風呂場があり、こんこんと湧き出す温泉の湯が、いつでも湯壺を満たしている。
しっかりと獣臭さと疲れを洗い流した十兵衛が脱衣場から隣の板の間に入ると、囲炉裏には牡丹鍋が掛けられ、撫子が給仕の為に控えていた。
「おお、良い匂いだな」
「牡丹鍋がご所望だと、長七郎が申しておりました」
十兵衛が囲炉裏端の置き畳に座ると、撫子が鍋の猪肉と野菜をよそって膳の上に置く。
「おまえは?一緒に食べぬのか?」
「私は、お給仕ですゆえ。十兵衛様、ごゆっくり召し上がられませ」
十兵衛は、肉を一切れ箸でつまむと、フウフウと吹いて冷まし、撫子の口元に差し出した。
「食え」
「毒など盛っておりませぬよ」
「いいから食え」
撫子が口開けると、十兵衛は優しくそれを差し入れて、
「美味いか?」
と、聞いた。
撫子は口をもぐもぐさせながら、何とも幸せそうな顔で、
「ふぁい、おいひぃれふ」
と答える。
それを見る十兵衛も、何とも幸せそうに隻眼を細め、
「椀と箸を持って来い。一人で食うてもつまらぬ。これからは、出来るだけ膳を共にしてくれ」
と言うと、撫子の頬を柔らかくつまんだ。
十兵衛は年老いてなお睦まじい山の隠居家の夫婦を思い出しながら、自分もあのようになっていけるのだろうか、と考えていた。
撫子が戻ったら字を見てやる約束なので、手本を作っているのだ。
剣の天禀に加え、荒くれ者や酒乱といった粗野なイメージがあるが、上様の小姓であった十兵衛は高い教養を持つ大変な能筆家であり、撫子の読み書きの最初の師匠でもあった。
「十兵衛先生、長七郎にござります。入ってもよろしいでしょうか?」
「おう、入れ」
長七郎はこの河原家の一人息子で、撫子の六つ上の兄である。
十兵衛を先生と呼ばわるのは、子供の頃に十兵衛より剣術の指南を受けていたためだ。
「どうしたのだ?」
「今、使いで山の爺様の家に行って戻った所なのですが…」
聞くと、爺様が大きな猪を仕留めたのだが、重すぎて運べない。
分け前をやるので十兵衛先生に手伝いに来い、という話であった。
長七郎はというと、裕福な商家の非力な若旦那が役に立つはずもなく、伝令が精一杯である。
「爺様やるのう。すぐ行こう。夕餉は牡丹鍋だな、ふふっ」
普段の十兵衛は畳に根が生えたような不精者だが、こういう時の行動の速さはさすがで、さっさと裁っ付け袴に着替えると長七郎も連れずに出ていった。
山の爺様とは河原家の先代当主で、撫子と長七郎の祖父、そして十兵衛の祖父の太祖柳生石舟斎の弟子であった人である。
宿場町から少し山へ入った場所に隠居家を構えているので、山の爺様と呼ばれているのだ。
「爺様おるかえ?」
と、戸口で呼ばわると、小柄な好好爺が出てきた。
「おうおう、十兵衛どの、待っておったぞ。久しいのう」
再会の挨拶もそこそこに、まずはと二人は森の中へと入って行く。
爺様に案内されたそこには、十兵衛より大きな七尺はあろうと思われる大猪が、後ろ足を太い綱で大木につながれ、頭を下にして谷へ落ちる斜面に提げられ血抜きをしてあった。
「ここまではよかったんじゃが、引き上げようとしたらびくともせんでな」
と、爺様がカラカラ笑うと、十兵衛は綱をつかみヒョイと引き上げ、
「血はきれいに抜けておるようでござるな。爺様の庭先でよいのか?」
とムシロに包んだ猪を担ぎ上げた。
「ほ!」
爺様は感嘆の声をあげる。
「バラしも手伝うてくれよ。やり方はおぼえておるか?」
「もちろんでござるよ。若い頃におぼえたことは、なかなか忘れぬものですな」
隠居家に戻ると婆様が庭のかまどで湯を沸かし、ヨキだ鎌だと用意を整えて待っていてくれたおかげで、思っていたよりも早く作業を終えての酒盛りとなった。
「いやはや、十兵衛どのは相変わらずの醜男ぶりだのう。あの大猪を軽々と担ぐとは」
「爺様、いまどきそれは誉め言葉ではござらんよ」
先ほどさばいた獲物を囲炉裏であぶり焼きしたものを肴にして上機嫌な爺様の言葉に、十兵衛は苦笑いする。
「何を言われますか、この婆も十兵衛どのの醜男ぶりに、あと十も若ければ、と思いましたよ」
「ホレみろ、わしの婆までもがおぬしの醜男ぶりにあてられておる」
「まあ、爺様、妬いておられますのか?ホホホ」
ちなみに婆様は十若くなると六十である。
古語の醜男―しこお―とは、強く逞しい色男の事であり、不細工な男では無い。
ただ、この時代のモテ男の傾向は色白で中性的な優男で、浅黒い肌に六尺豊かの長身で筋骨隆々な十兵衛は、整った顔をしてはいるものの流行りのタイプではなかった。
「しかし、血は争えんものでのう。わしらの可愛い孫娘も、おぬしの醜男ぶりにあてられておるわい」
十兵衛は一瞬、撫子の手習いをみてやる約束を思い出したが、いとまを言い出せる雰囲気では無い。
「そんな、爺様。何を申されますか。撫子は今小町と名高い十九の乙女ですぞ。それがしのような片目の潰れた四十のおやじに対して、何も思うところなどありますまいて」
「はて、十兵衛どの、おぬしはまこと左様に思うておるのか…?」
十兵衛は何も言えなかった。
撫子が自分を好いているのは分かっている。
ただそれが、幼い頃からの兄を慕うような気持ちの延長なのか、それとも一人の男として求められているのか、十兵衛には量りかねていた。
それを察するように、爺様が続ける。
「のう、十兵衛どの。わしはおぬしが撫子に、手習いだけでなく竹刀を振らせて馬の乗り方を教え、漢詩に和歌、果ては四書五経や仕舞いと茶の湯まで仕込んでおるのを見て、おぬしは光源氏か後深草院になるつもりでおるのだと思うておった」
「それがしが、でござるか?」
「左様。いずれ撫子を貰い受けるつもりで、自分と釣り合うように仕込んでおるのだろうとな」
十兵衛にはそのような自覚は無かったが、端からはそのように見えていたのかと知って愕然とする。
「わしらだけでは無く、皆がそのように思うておった。撫子本人も、じゃ」
爺様は続ける。
「二日前に撫子がここに来てのう。久しぶりに会うたおぬしが、以前にも増して良い男で、自分がどれ程おぬしに惚れておるのかを、頬を染めながら話していったわえ」
「婆も聞いておりましたよ。あなた様の御世話を焼くのが、まるで女房にでもなったようで、嬉しいとも」
「撫子は女の道具揃いといわれる十六になった途端、降る雨のごとくに縁談が来るようになった。中には然るべき家に養女に入った後に大名の側室や旗本の正室になどという話も、チラホラある。しかしな、あれは決して首を縦には振らなんだ。十兵衛どの、おぬしのせいじゃ。すずと市朗も困り果てておったわえ」
撫子の恋心を知らぬかったのが、己一人であったとは。―十兵衛は、改めて自分のその方面に対する鈍さに、目眩をすらおぼえた。
「さて十兵衛どの。おぬし、どうするよ?すずと市朗が、あの離れにおぬしと撫子を二人にさせておるのは、おぬしを信じておるからでは無い。むしろ撫子に手を付けてくれるのを待っておるのじゃぞ」
「爺様、それは…」
十兵衛は驚きに隻眼を瞠った。
兄や姉やのみならず、老夫婦までもが、あの可憐な娘に自分のような男の手が付くのを待っているなどと、手を付けてくれるなと釘をさされるならまだしも、そのような話し、俄には信じられるようなものではない。
「十兵衛どの、婆も昔は娘でございました。想う方に添いたい撫子の気持ちが、痛い程よう分かるのです。それに、十兵衛どのは撫子に嫁に貰うてやる、という約束をなされておられたとか。すずと市朗が気を揉んでおるのは、撫子が二十歳になるまでに十兵衛どのが迎えに来なければ、死ぬと書いた日記を盗み見たせいにございます」
「なっ、馬鹿な…!」
「馬鹿はおぬしじゃ!そも男子が軽々にそのような約束を、相手を子供と侮りての事であろうが、撫子とて人形では無いのじゃぞ。このまま捨て置けば、あれは年明け早々にも死ぬるであろう。しかし、それは許さぬ。十兵衛どの、その気が無ければ撫子をお斬りなされ。それがお嫌ならば、せめて袖にしてやってくれ。いずれを選んでも死ぬるが、そのほうが撫子が黄泉路で迷わぬで済む」
十兵衛は鉄球で頭を打たれたような衝撃をうけていた。
あのたおやかで美しい撫子が、このような激しい恋情を自分に向けていようとは。
この八年の間には、会いにこそ来なかったものの、折々に文を交わしていた。
そのような気持ちのあるなどと、ついぞ匂わせて寄越した事さえも無かったのに。
「まあ爺様、そのような…。まずは十兵衛どののお心を聞いてみましょうぞ」
婆様に促され、十兵衛はポツポツと今の自分の心の内を話し始めた。
撫子を昔のままに愛おしく思い、心栄え美しき娘に成長した事を喜び、大切に護りたいと思う反面、見目も美しく成長した姿を見て、気を抜くと淫心を抱いてしまい無体な仕打ちに及んでしまいそうな自分もいて、どちらが自分の本心なのかが分からぬ、と。
爺様と婆様は顔を見合わせた。
「あー、十兵衛どの、どちらも本心なのであろう。それは恋ではござらぬのか?」
「へ…、これは恋なのでござるか?」
婆様はホホホ、と声をあげて笑った。
「なんとまあ、十兵衛どののお可愛らしきこと。いまだ恋を知らぬでございましたのか。二人が二人とも初心では話の進みが遅いのも無理はございませぬなあ」
十兵衛が耳まで赤くなったのは、酔いが回ったせいでは無い。―おれは撫子に惚れておるのか?この気持ちが恋というものなのか?そうだとすれば、これは何とも落ち着かぬものだのう…。
「なんじゃ、おぬし見た目だけでなく中身も石舟斎様にそっくりではないか。多情で女色好きの又右衛門に似ておるのかと思うておれば…」 又右衛門とは十兵衛の父、柳生但馬守の以前の通称である。
「ともあれ、撫子の事をうやむやにして逃げれば、このわしがどこまででも追って、石舟斎様からもお褒めをいただいたこの弓で、おぬしに射掛けてやろうよ」
立て掛けられた弓の方に顎をしゃくった爺様は笑ってはいるが、目にはギラリとした光があり、冗談の類いでは無い事がうかがえる。
実際、今、口にしている猪は爺様が眉間に一矢で仕留めたものだ。
御歳八十に近い爺様は、父親と二代で十兵衛の祖父柳生石舟斎に弟子入りしており、その縁で商人でありながら戦にも出ている。
老いたりといえども、戦国の世を刀と弓で生き抜いた
「爺様、そろそろ十兵衛どのをお帰しせねば。あまりお引き留めしては撫子が寂しがりますでしょう」
「おう、そうじゃの。まだ明るいとはいえ、肉を持って山中を歩くとヒヒに襲われるやもしれん。
外まで見送りに出た爺様に呼ばれてやってきたのは、飼い慣らした山犬であった。
「では十兵衛どの、撫子の事、ようよう頼みおき申したぞ。恋は知らいでも、女遊びはお盛んであると聞いておる。あれを側置いて可愛がってやってくれ」
「は、心得て…ござる?」
祖父の口から聞かされるには微妙な内容だけに、十兵衛の返事も少し変なものになってしまうが、隻眼を笑わせて いとまを告げ、青嵐を供に山道を下って行く。
何やら十兵衛は背中と頭が熱く、ふわふわとした落ち着かない心地で、秋の夕暮れの涼やかな山風が頬を冷してくれるのを気持ちよく感じながら、我知らず速足になっていた。
婆様は、囲炉裏端で青嵐の連れ合い、
「爺様、十兵衛どのはいくつになっても
「そうよの。あやつの頭には剣と兵法しか無いのえ」
「春桃様が二言目には、石舟斎様の生まれ変わりだと言われて、舐めるように可愛がっておられましたが、ほんにそのとおりに思われます」
この隠居夫婦は先に触れたように、柳生十兵衛の生まれる前から大和柳生家に深い関わりを持っている。
婆様の言う春桃様とは、十兵衛の祖母で柳生石舟斎の正室・春桃御前のことで、正室と言っても石舟斎は他に室を持たず、春桃が生涯ただ一人の妻であり、十兵衛の父・柳生但馬守を含む五男六女の母である。
「そういえば、十兵衛どのの正室として届け出ておられる、和泉どのの御息女は、どうなされるのでしょうか。又右衛門どのがお亡くなりになられた今となっては…」
「婆よ、今はまだ何とも言えぬな。撫子は可愛いが、和泉どのも古き友であるゆえ」
和泉どの、とは大和国の土豪・秋篠和泉守、その娘は柳生十兵衛の正室として幕府に届出がなされており、松・竹の二人の娘がいるとされている。
しかし、この老夫婦の口ぶりからは何やらそのままに受けとることの出来ない、剣呑な空気が感じられた。
山を降りてきた十兵衛が宿場の入り口の枡形を抜けると、それまでピタリと十兵衛の隣を付いて歩いていた青嵐が走り出した。
何事かと思っていたら、宿場の中央に位置する河原家の、表の通用口にあたる通り土間の板戸を前足で引っ掻いている。
板戸が開き、撫子が出てきた。
たすきと前掛け姿であるところを見ると、通り土間の中にある台所で泊まり客の夕餉の支度をしていたのだろう。
「まあ、青嵐。どうしたの?」
青嵐は撫子の手をペロペロと舐め、腹を見せて地面に寝転がった。
しゃがんで青嵐の腹をワシワシと掻く撫子は、もうずいぶんと傾いた夕陽の中、自分の上に影が差したのに気付き、顔を上げた。
「遅くなって、すまんの」
「十兵衛様…。謝っても許しませんからね」
そう、撫子の手習いを見てやる約束があったのだ。
いつものように拗ねて唇を尖らす撫子を見て、十兵衛は生まれて初めて胸に甘く鈍い痛みのさすのを感じていた。
「爺様から、猪肉だぞ」
肩から降ろした背負子を見せると、撫子の目はキラキラと輝き、
「きょ、今日は特別に許して差し上げます。今日だけでござりまするよ!」
と言って、土間の中に十兵衛を促すと、猪肉を一切れ切り取り、外で待っていた青嵐に与えて労ってから山へ帰し、
「さ、十兵衛様。まずは湯をつかいなされませ。獣臭うござりまする」
撫子は困ったような顔をして勧める。
見ると、他の使用人達も同じような顔をしていたので、十兵衛は苦笑いして離れに引っ込んでいった。
十兵衛の起居する離れには専用の風呂場があり、こんこんと湧き出す温泉の湯が、いつでも湯壺を満たしている。
しっかりと獣臭さと疲れを洗い流した十兵衛が脱衣場から隣の板の間に入ると、囲炉裏には牡丹鍋が掛けられ、撫子が給仕の為に控えていた。
「おお、良い匂いだな」
「牡丹鍋がご所望だと、長七郎が申しておりました」
十兵衛が囲炉裏端の置き畳に座ると、撫子が鍋の猪肉と野菜をよそって膳の上に置く。
「おまえは?一緒に食べぬのか?」
「私は、お給仕ですゆえ。十兵衛様、ごゆっくり召し上がられませ」
十兵衛は、肉を一切れ箸でつまむと、フウフウと吹いて冷まし、撫子の口元に差し出した。
「食え」
「毒など盛っておりませぬよ」
「いいから食え」
撫子が口開けると、十兵衛は優しくそれを差し入れて、
「美味いか?」
と、聞いた。
撫子は口をもぐもぐさせながら、何とも幸せそうな顔で、
「ふぁい、おいひぃれふ」
と答える。
それを見る十兵衛も、何とも幸せそうに隻眼を細め、
「椀と箸を持って来い。一人で食うてもつまらぬ。これからは、出来るだけ膳を共にしてくれ」
と言うと、撫子の頬を柔らかくつまんだ。
十兵衛は年老いてなお睦まじい山の隠居家の夫婦を思い出しながら、自分もあのようになっていけるのだろうか、と考えていた。