第1話 花の名前
文字数 3,063文字
時は正保三年三月、柳生十兵衛三厳の父であり、元大目付で三代将軍徳川家光の剣術指南役兼相談役であった、柳生但馬守宗矩が卒去した。
これにより、但馬守の遺志を聞き届けた将軍家光の裁量で家督が分割相続される事となり、元々の一万二千五百石から八千三百石を柳生家を継ぐ十兵衛に、分家する弟の主膳宗冬に四千石、末弟の六丸 が第一世住持となる事が決まっている柳生谷の芳徳寺に二百石が分知された。
こうして、石高一万を切った柳生家は大名から旗本へと戻ったのであった。
父、但馬守の葬儀にまつわる諸々の事がほぼ片付き、十兵衛は柳生家江戸上屋敷の書院で一人、書をしたためている。
「殿、よろしいでしょうか?」
「おう、入れ」
家士は何通もの書状を持って書院に入って来た。
「国元からの物にございます」
柳生庄からの荷物などと共に届いたもので、ざっと目を通すと その中の一通ににわかに里心がつくような差出人の名があったのだった。
懐かしい記憶がいちどきに思い起こされ、胸に込み上げてくる。
若き日、上様の御前を退き鬱々とした蟄居の日々に荒みそうになる心を癒してくれた、愛らしい名付け子の名だ。
「そういえば、もう ずいぶん長い事会っておらなんだな。会いたいのう」
十兵衛はフと思い立ち、会いに行く事にした。
控えていた家士に弟の主膳を呼ぶように伝えると、先ほど書いていたものとは違う書状に取りかかった。
しばし後、
「兄上、主膳参りました」
「うむ。おれはこの届け出をすませたら、大和へ帰る。おまえも普請を急がせて、早くこの家を出て嫁を貰え」
「あ、兄上!?どうした事ですか、急にそのような…」
「家を継いだら無役になったでのう。江戸におっても暇だし、おれは大和の方が水が合うようだ」
「しかし…」
言いつのる主膳を、十兵衛はさえぎった。
「別家を構えたおまえが、いつまでも当家にいるのはよろしくない事だぞ。おれが何も知らぬと思うてか?」
主膳の顔色が変わり平伏すると、
「は、かしこまりましてございます…」
蚊の鳴くような声で答えた。
「しかと言いおいたぞ」
十兵衛は重い声で言うと、主膳の肩をポンと叩き、書いた書状を持って書院をあとにした。
それから十数日の後の大和国、柳生庄からもそう遠くない温泉地の宿場に十兵衛の姿はあった。
目的地は脇本陣の河原家、先に訪う旨の文は出してある。
門を潜り、
「御免」
玄関先で深編笠を脱ぎ呼び掛けると、しずしずと女中らが出てきて手をつかえ、
「いらせられませ」
と、挨拶をする。
足洗の用意をする揃いのお仕着せの女中たちにに混ざって、一人だけ華やかな小袖姿の娘が、鈴を転がすようなきれいな声で、
「柳生十兵衛様、お待ち申し上げておりました。お疲れでござりましょう。お足元をご無礼致します」
と、言うと、式台に進み出て十兵衛の草鞋の紐を解き始めた。
ひざをつかえた娘に目を落とすと、衿元から小山のごとき豊かな両の乳房がつくる深き谷間が垣間みえる。
「ほう」
十兵衛の隻眼が、我知らず細くなった。
ニヤニヤと眺めていると、視線に気付いたものか、娘が顔を上げて花のほころぶようにニコリと笑った。
それはそれは、驚くような美形であった。
脇本陣の客室ではなく、母屋の勝手座敷に通された十兵衛は、まるで我が家のごとくにくつろぎ、縁側で煙草をくゆらせている。
そこへ主人夫婦が入ってきた。
二人は十兵衛を見るなり
「十兵衛様、お懐かしや。御変わりありませぬか」
「お元気そうで何よりでございます」
と、嬉しげに声を掛ける。
「兄や、姉や、長く無沙汰をしたのう。変わりは無いか?」
兄や姉やと呼ばれた主人夫婦は、二人共に十兵衛がまだ幼い頃、柳生家に奉公していたのだ。
「失礼致します」
茶菓を持って、玄関で十兵衛の足を清めてくれた娘が来た。
「おう、先ほどの…。そなた大層な美女だな。京でも江戸でも、こんなに美しい女は見た事が無いぞ。それに乳が張っておるのもまた何とも良いのう」
十兵衛は目を細めて無遠慮に娘を眺め回しながら言う。
「まあ、お上手ですこと」
娘は言われ慣れているのか、床の間を背に安座した十兵衛に茶と菓子を出しながら澄まして答える。
「まことだ、おれは世辞など言わんよ」
「あら、女人を喜ばせる嘘をささやき慣れていらっしゃるのですね」
「まことだと言うておろうが。そのようなつまらぬ嘘などつかん」
憮然とする十兵衛に娘は言った。
「さようにござりまするか。それでは、お約束どおり私を嫁に貰って下さるのですね」
「はぁ!?嫁に?んなっ、何の話だ!?」
十兵衛は目玉が落ちそうな位に隻眼を瞠り、白く美しい娘の顔を見つめた。
娘は拗ねたように赤い唇をとがらせて、上目遣いに十兵衛を見返す。
「情の薄い御方…。もうお忘れに?それとも、忘れたふりをなさって…?」
「馬鹿を言うな、そなたのような美女に会って忘れられる訳があるか!」
―ましてや嫁になどと、そんな話をしておれば、いや、酒が入っていれば、或いは―
しかし、いくら考えても十兵衛に思い当たるフシは無かった。
すると、
「これ撫子、いい加減にせぬか。十兵衛様がお困りであろう」
と、主人が娘を叱る。
「撫子とな!?」 撫子とは、過日に江戸の上屋敷で不意に思い出した名付け子、この河原家の一人娘の名だった。
「いや待て、撫子はまだホンの子供ではないか」
ちらっと、撫子と呼ばれた娘の方を見る。
「十兵衛様、最後にお会いしてより八年、十一歳だった撫子は、もう十九歳。いつまでも子供ではござりませぬよ」
先ほどまでのしとやかな様子とは打って変わり、撫子は子供のようにプイとヨソを向くと、プクっと頬をふくらませた。
十兵衛は愕然とした。
何年経っているのかはちゃんと分かっていたのだ。
それなのに、十兵衛の心の内では撫子はまだ十一歳の童女のままだった。
「フッ」
自分の思い込みに隻眼を笑わせて膝を叩く十兵衛に、
「何が可笑しいのでござりますか?」
と、むくれて噛みつく撫子を母である女将がとがめた。
「撫子、下がりなさい。もう子供ではないと言うのであれば、立場をわきまえそのように御無礼な振る舞いなどするものではありませぬよ」
父である主人も、
「母上の言うとおりだ、撫子。改めなさい。お前が子供であったればこそ、そのような馴れ馴れしい態度をお許し下されていたのだ」
「兄や姉や、そのように言わずとも、おれは気にしておらんよ。可愛いものではないか」
と、十兵衛がとりなすも再度下がるよう言われ、不承不承といった態で座敷を退出した撫子は、唐紙を閉じざま、
「十兵衛様の嘘つきー!」
と言いながら、柱に当たった唐紙が少し戻るような勢いをつけてパーンと閉じると、バタバタと音を立てて走り去った。
主人夫婦は真っ青になり、慌てて追おうとするも、十兵衛がそれを止めた。
「よせよせ、あれでこそ撫子ではないか。澄ましかえっておるより、ずっとらしいぞ」
「申し訳もござりませぬ。つい甘やかしたばかりにあのような…」
「最近は年頃らしく落ち着いてきましたものを…。あれを十兵衛様のお世話に付けようと思うておりましたが、とてもとても。誰ぞ他の者を…」
「いや、撫子を付けてくれ。おれはあの子に会いに来たでな。それに甘やかしたのが悪かったと言うのであれば、この中で一番撫子を甘やかしたおれに責があろうが。ん?」
と、無精髭の伸びたあごを撫でながら、遠くを見るように隻眼を細めた。
「はあ、十兵衛様があれで良いと仰せであらせられますれば…そう致しますが」
不安そうに顔を見合わせる主人夫婦を余所に、十兵衛は煙管をくわえてニヤリとえくぼを彫った。
これにより、但馬守の遺志を聞き届けた将軍家光の裁量で家督が分割相続される事となり、元々の一万二千五百石から八千三百石を柳生家を継ぐ十兵衛に、分家する弟の主膳宗冬に四千石、末弟の
こうして、石高一万を切った柳生家は大名から旗本へと戻ったのであった。
父、但馬守の葬儀にまつわる諸々の事がほぼ片付き、十兵衛は柳生家江戸上屋敷の書院で一人、書をしたためている。
「殿、よろしいでしょうか?」
「おう、入れ」
家士は何通もの書状を持って書院に入って来た。
「国元からの物にございます」
柳生庄からの荷物などと共に届いたもので、ざっと目を通すと その中の一通ににわかに里心がつくような差出人の名があったのだった。
懐かしい記憶がいちどきに思い起こされ、胸に込み上げてくる。
若き日、上様の御前を退き鬱々とした蟄居の日々に荒みそうになる心を癒してくれた、愛らしい名付け子の名だ。
「そういえば、もう ずいぶん長い事会っておらなんだな。会いたいのう」
十兵衛はフと思い立ち、会いに行く事にした。
控えていた家士に弟の主膳を呼ぶように伝えると、先ほど書いていたものとは違う書状に取りかかった。
しばし後、
「兄上、主膳参りました」
「うむ。おれはこの届け出をすませたら、大和へ帰る。おまえも普請を急がせて、早くこの家を出て嫁を貰え」
「あ、兄上!?どうした事ですか、急にそのような…」
「家を継いだら無役になったでのう。江戸におっても暇だし、おれは大和の方が水が合うようだ」
「しかし…」
言いつのる主膳を、十兵衛はさえぎった。
「別家を構えたおまえが、いつまでも当家にいるのはよろしくない事だぞ。おれが何も知らぬと思うてか?」
主膳の顔色が変わり平伏すると、
「は、かしこまりましてございます…」
蚊の鳴くような声で答えた。
「しかと言いおいたぞ」
十兵衛は重い声で言うと、主膳の肩をポンと叩き、書いた書状を持って書院をあとにした。
それから十数日の後の大和国、柳生庄からもそう遠くない温泉地の宿場に十兵衛の姿はあった。
目的地は脇本陣の河原家、先に訪う旨の文は出してある。
門を潜り、
「御免」
玄関先で深編笠を脱ぎ呼び掛けると、しずしずと女中らが出てきて手をつかえ、
「いらせられませ」
と、挨拶をする。
足洗の用意をする揃いのお仕着せの女中たちにに混ざって、一人だけ華やかな小袖姿の娘が、鈴を転がすようなきれいな声で、
「柳生十兵衛様、お待ち申し上げておりました。お疲れでござりましょう。お足元をご無礼致します」
と、言うと、式台に進み出て十兵衛の草鞋の紐を解き始めた。
ひざをつかえた娘に目を落とすと、衿元から小山のごとき豊かな両の乳房がつくる深き谷間が垣間みえる。
「ほう」
十兵衛の隻眼が、我知らず細くなった。
ニヤニヤと眺めていると、視線に気付いたものか、娘が顔を上げて花のほころぶようにニコリと笑った。
それはそれは、驚くような美形であった。
脇本陣の客室ではなく、母屋の勝手座敷に通された十兵衛は、まるで我が家のごとくにくつろぎ、縁側で煙草をくゆらせている。
そこへ主人夫婦が入ってきた。
二人は十兵衛を見るなり
「十兵衛様、お懐かしや。御変わりありませぬか」
「お元気そうで何よりでございます」
と、嬉しげに声を掛ける。
「兄や、姉や、長く無沙汰をしたのう。変わりは無いか?」
兄や姉やと呼ばれた主人夫婦は、二人共に十兵衛がまだ幼い頃、柳生家に奉公していたのだ。
「失礼致します」
茶菓を持って、玄関で十兵衛の足を清めてくれた娘が来た。
「おう、先ほどの…。そなた大層な美女だな。京でも江戸でも、こんなに美しい女は見た事が無いぞ。それに乳が張っておるのもまた何とも良いのう」
十兵衛は目を細めて無遠慮に娘を眺め回しながら言う。
「まあ、お上手ですこと」
娘は言われ慣れているのか、床の間を背に安座した十兵衛に茶と菓子を出しながら澄まして答える。
「まことだ、おれは世辞など言わんよ」
「あら、女人を喜ばせる嘘をささやき慣れていらっしゃるのですね」
「まことだと言うておろうが。そのようなつまらぬ嘘などつかん」
憮然とする十兵衛に娘は言った。
「さようにござりまするか。それでは、お約束どおり私を嫁に貰って下さるのですね」
「はぁ!?嫁に?んなっ、何の話だ!?」
十兵衛は目玉が落ちそうな位に隻眼を瞠り、白く美しい娘の顔を見つめた。
娘は拗ねたように赤い唇をとがらせて、上目遣いに十兵衛を見返す。
「情の薄い御方…。もうお忘れに?それとも、忘れたふりをなさって…?」
「馬鹿を言うな、そなたのような美女に会って忘れられる訳があるか!」
―ましてや嫁になどと、そんな話をしておれば、いや、酒が入っていれば、或いは―
しかし、いくら考えても十兵衛に思い当たるフシは無かった。
すると、
「これ撫子、いい加減にせぬか。十兵衛様がお困りであろう」
と、主人が娘を叱る。
「撫子とな!?」 撫子とは、過日に江戸の上屋敷で不意に思い出した名付け子、この河原家の一人娘の名だった。
「いや待て、撫子はまだホンの子供ではないか」
ちらっと、撫子と呼ばれた娘の方を見る。
「十兵衛様、最後にお会いしてより八年、十一歳だった撫子は、もう十九歳。いつまでも子供ではござりませぬよ」
先ほどまでのしとやかな様子とは打って変わり、撫子は子供のようにプイとヨソを向くと、プクっと頬をふくらませた。
十兵衛は愕然とした。
何年経っているのかはちゃんと分かっていたのだ。
それなのに、十兵衛の心の内では撫子はまだ十一歳の童女のままだった。
「フッ」
自分の思い込みに隻眼を笑わせて膝を叩く十兵衛に、
「何が可笑しいのでござりますか?」
と、むくれて噛みつく撫子を母である女将がとがめた。
「撫子、下がりなさい。もう子供ではないと言うのであれば、立場をわきまえそのように御無礼な振る舞いなどするものではありませぬよ」
父である主人も、
「母上の言うとおりだ、撫子。改めなさい。お前が子供であったればこそ、そのような馴れ馴れしい態度をお許し下されていたのだ」
「兄や姉や、そのように言わずとも、おれは気にしておらんよ。可愛いものではないか」
と、十兵衛がとりなすも再度下がるよう言われ、不承不承といった態で座敷を退出した撫子は、唐紙を閉じざま、
「十兵衛様の嘘つきー!」
と言いながら、柱に当たった唐紙が少し戻るような勢いをつけてパーンと閉じると、バタバタと音を立てて走り去った。
主人夫婦は真っ青になり、慌てて追おうとするも、十兵衛がそれを止めた。
「よせよせ、あれでこそ撫子ではないか。澄ましかえっておるより、ずっとらしいぞ」
「申し訳もござりませぬ。つい甘やかしたばかりにあのような…」
「最近は年頃らしく落ち着いてきましたものを…。あれを十兵衛様のお世話に付けようと思うておりましたが、とてもとても。誰ぞ他の者を…」
「いや、撫子を付けてくれ。おれはあの子に会いに来たでな。それに甘やかしたのが悪かったと言うのであれば、この中で一番撫子を甘やかしたおれに責があろうが。ん?」
と、無精髭の伸びたあごを撫でながら、遠くを見るように隻眼を細めた。
「はあ、十兵衛様があれで良いと仰せであらせられますれば…そう致しますが」
不安そうに顔を見合わせる主人夫婦を余所に、十兵衛は煙管をくわえてニヤリとえくぼを彫った。