第27話 女難 其の五
文字数 3,122文字
その夜の撫子は大変であった。
眠りに就いたかと思えば、すぐに泣きながら目を覚ましたり跳ね起きたりするとともに 隣に十兵衛がいるのを確かめる事を繰り返す。
そうしてやっと明け方近く、撫子の心身のぜんまいが切れたものか、寝息らしい寝息を立て始めた。それでも、眉を寄せて時折うなされているような声をもらし、安らかな眠りとは程遠い様子に十兵衛は心を痛めた。ー『代わってやれるものならば、おれが代わってやりたい…』ー そのような事が出来うるはずもなく、ただ手枕して胸に抱き その頭や背を撫でさすってやるのみである。
そうして日も高くなり撫子も やっと深い眠りに落ちたと思われる頃、林家を訪れる者があった。
訪問者は玄関で何度か呼ばわったが誰も出て来ない為、ざわざわと声のする庭へ回って行くと、そこは負傷者や死体は運び出されているものの どす黒く残る血の跡や鉄錆びのような臭いが昨夜の惨状を物語る場に出会 す。
男衆達が次々と井戸から桶に汲んだ水を庭へ運び、女衆達はその水で血の跡を流し清めていた。
その内の一人を捕まえた訪問者は
「お取り込みのところ恐れ入るが、わしは河原と申す者。こちらに当家の娘の撫子と娘婿の十兵衛がお世話になっておると聞いております。御主人の与次兵衛どのに お取り次ぎ願えますかな?」
と、庭で何がおきたのかなど全く興味の無いような様子で言った。
林家二階の回り廊下を歩く二つの足音に十兵衛は気付いた。一つは新左衛門、もう一つは この家の者では無い。足音は十兵衛と撫子のいる部屋の前で止まり、
「十兵衛様、お目覚めですや」
「ああ、よいよい。十兵衛どの、入るぞ」
唐紙の向こうで声を掛ける新左衛門を遮って、入って来たのは撫子の父で十兵衛の舅の市朗であった。
「ちっ義父上 !?」
突然の思わぬ来客に隻眼を瞠 った十兵衛であるが、姿勢を正そうにも やっと寝就いた撫子を離すことは出来ない。
「夜具の中から御無礼をつかまつりますが、これには訳がござってですな…。それはそうと義父上は、なにゆえ こちらに? 」
苦笑いをしてたずねる十兵衛に、市朗は
「気にせずともよい。京店の義兄 から、撫子が弓を貸せと言うて寄越したと報せがあってのう。しかも別宅ではなく六条三筋町の林家におると言うではないか。ただごととも思えず、それで急ぎ参ったのであるが…」
チラリとざわめきの聞こえる庭の方へ視線を流すと
「訳とは、そういう事かな?」
と聞く。
十兵衛は眉を寄せて唇を引き結ぶと、壊れ物を扱うように そっと撫子を夜具に横たえ市朗の前に進み出て手を仕 えて切り出した。
「義父上様、申し訳もございませぬ。それがしは、撫子に人を射させ申した。幾人かは命を落とし…」
「ほう、さすがは爺様が その才を認める撫子。初陣で立派に旦那様のお役に立ち、さぞ誉れな心地でおろうな。目を覚ましたら存分に褒めてやらねば」
市朗は目尻を下げる。
「義父上は それがしを お叱りにならないのでござるか?」
「何故おぬしを叱らねばならぬ?撫子は自ら弓を取ったのであろう。それに、あれはもう わしらの娘であって わしらの娘では無い。おぬしの妻ではないか。夫婦で決めた事に口出しなどせぬ」
「はあ…」
「それにのう、わしは おぬしらの初枕の後、撫子と話をしたのだ」
ー 河原家の奥、市朗の居室で父娘は静かに向き合っていた。
『撫子、十兵衛様は鬼ぞ。御家を、弟君達を、大切なものを守る為に鬼になられた。鬼の嫁は鬼でなければ務まらぬ。おまえに、その覚悟はあるか?今ならまだ引き返す事も出来ようて』
自分を案じる父を真っ直ぐに見つめる撫子の瞳には、何の心の揺らぎも見られない。
『十兵衛様の御手を取る為に必要とあらば、撫子は鬼にも蛇 にもなりましょう。それが、私 の望みにござりますれば』
『左様であるか…。十兵衛様は鬼であるには余りに心優しく、そして孤独な御方。どうか、あの方の心を支えて差し上げてくれ』
「十兵衛どの、おぬしを鬼に堕とした わしの娘が おぬしの為に鬼になる。運命 とは、何と因果なものよのう」
懐かしげな、また ほろ苦い顔をする市朗に十兵衛が慌てて頭を上げる。
「義父上!それがしは あの日の事を感謝こそすれ、『堕とされた』などと思うてはおりませぬ。義父上もどうか、そのように思わぬで下され…」
ギリリっと奥歯を噛み、絞り出すように言う十兵衛に、市朗はフッと笑みを作った。
「いや、すまん。そういうつもりでは無かったのだ。最近は昔の事ばかり思い出してしもうてな。歳は取りたくないのう」
笑う市朗の様子に十兵衛が表情を和らげた その時、
「うぅ、あ…」
うなされ始めた撫子に市朗が近付き頭をなでてやると、目を薄く開けて父親の姿を見た。
「お父…さま…?お父様!」
市朗に縋りつくと、幼子のようにわあわあと泣きだす撫子を抱きしめ、頭をなでてやる。
「ようやったのう、撫子。さすがは武勇で名高い河原の娘じゃ。父も鼻が高いぞ」
頷きながらも言葉にならない言葉を発し ただ泣きじゃくる娘と、その背をさする父の姿を眺めながら、十兵衛は撫子に まだ七郎と呼ばれていた少年であった頃の自分の姿を重ねて見ていた。
ー「あれは、あの日のおれだ」ー
『兄 や、兄 や』
初めて人を斬ったあの日、泣きながら縋りつく自分を市朗は抱きしめ背をさすってくれた。
『ようなさいました、七郎様。さすが剣に拠って立つ柳生家の御嫡男。お父上様もさぞ心強き事でございましょう』
「おまえが このように父に甘えるのは久しぶりだの。わしは嬉しくあるが、旦那様が妬きなさるぞ。なあ?十兵衛どの」
市朗の言葉に互いにハッと我に返った十兵衛と撫子は手を伸ばしあい、ひしと抱き合うと撫子は安心しきったように再び眠りに落ちてしまった。
その姿を見て満足げに頷いた市朗は、
「さて、では何がどうなっておるのかを詳しく聞かせてもらおうか?」
と、切り出した。
「ほお、また何とも怪しげな騒ぎに巻き込まれておる事よ」
ここまでの話を聞いた市朗は灰吹きに煙管の灰を落とすと、次の煙草を点け普段は見せる事の無い悪い顔でニヤリとする。
市朗が林家を訪れてより既に一刻は経つが、いまだ騒がしいままの庭を廻り廊下から見下ろしながら懐手で煙草をくゆらす姿は、とても大名家に仕える家士の出とも脇本陣を営む家の主とも思えぬ無頼の徒のような空気を纏い、五十路とはいえ かつては家中一の美男と謳われた顔貌と相まって凄絶な雰囲気を醸し出す。
しかし、この悪い男こそが、十兵衛の知る市朗なのだ。
「息のあった者に聞いたところ、あの瀬川という男に金で雇われただけで何も知らぬと申したそうで」
十兵衛も煙管をくわえて昇る煙を眺めながら答えた。
「であろうな。まあ、今は次の動きを待つしか無かろう」
どこか面白がるように薄く笑みを浮かべて言う市朗を、十兵衛は複雑な気持ちで見ていた。
ー「義父上は変わられたと思うておったが、ご自身が変わられたのではなく、生き方を変えられただけなのだな」ー
「さてと、わしは義兄 の店に戻るとしよう。何か事が動くようなら、すぐに知らせをくれ。いや、せっかく三筋町に おるのだから、戻る前に ちと遊んで行こうかのう…」
「ちっ、義父上 !?」
十兵衛は驚き隻眼を瞠 る。
「撫子と すず には内緒にな。もしバレたならば、おぬしも道連れぞ?」
「い゛っ!ちょっ、なっ」
慌てる十兵衛に いたずらそうな笑顔を見せて、市朗はさっさと階下へ降りていってしまった。
残された十兵衛は、苦笑いを浮かべて煙草の煙を輪に吹くと、
「全く、兄 や ときたら…」
と、独 り言 ちたが、内心は市朗の『何か事が動くようなら、すぐに知らせをくれ』という言葉に何とも言えぬ温かさを感じながら、傍らで眠る撫子の頬を優しくなでた。
眠りに就いたかと思えば、すぐに泣きながら目を覚ましたり跳ね起きたりするとともに 隣に十兵衛がいるのを確かめる事を繰り返す。
そうしてやっと明け方近く、撫子の心身のぜんまいが切れたものか、寝息らしい寝息を立て始めた。それでも、眉を寄せて時折うなされているような声をもらし、安らかな眠りとは程遠い様子に十兵衛は心を痛めた。ー『代わってやれるものならば、おれが代わってやりたい…』ー そのような事が出来うるはずもなく、ただ手枕して胸に抱き その頭や背を撫でさすってやるのみである。
そうして日も高くなり撫子も やっと深い眠りに落ちたと思われる頃、林家を訪れる者があった。
訪問者は玄関で何度か呼ばわったが誰も出て来ない為、ざわざわと声のする庭へ回って行くと、そこは負傷者や死体は運び出されているものの どす黒く残る血の跡や鉄錆びのような臭いが昨夜の惨状を物語る場に
男衆達が次々と井戸から桶に汲んだ水を庭へ運び、女衆達はその水で血の跡を流し清めていた。
その内の一人を捕まえた訪問者は
「お取り込みのところ恐れ入るが、わしは河原と申す者。こちらに当家の娘の撫子と娘婿の十兵衛がお世話になっておると聞いております。御主人の与次兵衛どのに お取り次ぎ願えますかな?」
と、庭で何がおきたのかなど全く興味の無いような様子で言った。
林家二階の回り廊下を歩く二つの足音に十兵衛は気付いた。一つは新左衛門、もう一つは この家の者では無い。足音は十兵衛と撫子のいる部屋の前で止まり、
「十兵衛様、お目覚めですや」
「ああ、よいよい。十兵衛どの、入るぞ」
唐紙の向こうで声を掛ける新左衛門を遮って、入って来たのは撫子の父で十兵衛の舅の市朗であった。
「ちっ
突然の思わぬ来客に隻眼を
「夜具の中から御無礼をつかまつりますが、これには訳がござってですな…。それはそうと義父上は、なにゆえ こちらに? 」
苦笑いをしてたずねる十兵衛に、市朗は
「気にせずともよい。京店の
チラリとざわめきの聞こえる庭の方へ視線を流すと
「訳とは、そういう事かな?」
と聞く。
十兵衛は眉を寄せて唇を引き結ぶと、壊れ物を扱うように そっと撫子を夜具に横たえ市朗の前に進み出て手を
「義父上様、申し訳もございませぬ。それがしは、撫子に人を射させ申した。幾人かは命を落とし…」
「ほう、さすがは爺様が その才を認める撫子。初陣で立派に旦那様のお役に立ち、さぞ誉れな心地でおろうな。目を覚ましたら存分に褒めてやらねば」
市朗は目尻を下げる。
「義父上は それがしを お叱りにならないのでござるか?」
「何故おぬしを叱らねばならぬ?撫子は自ら弓を取ったのであろう。それに、あれはもう わしらの娘であって わしらの娘では無い。おぬしの妻ではないか。夫婦で決めた事に口出しなどせぬ」
「はあ…」
「それにのう、わしは おぬしらの初枕の後、撫子と話をしたのだ」
ー 河原家の奥、市朗の居室で父娘は静かに向き合っていた。
『撫子、十兵衛様は鬼ぞ。御家を、弟君達を、大切なものを守る為に鬼になられた。鬼の嫁は鬼でなければ務まらぬ。おまえに、その覚悟はあるか?今ならまだ引き返す事も出来ようて』
自分を案じる父を真っ直ぐに見つめる撫子の瞳には、何の心の揺らぎも見られない。
『十兵衛様の御手を取る為に必要とあらば、撫子は鬼にも
『左様であるか…。十兵衛様は鬼であるには余りに心優しく、そして孤独な御方。どうか、あの方の心を支えて差し上げてくれ』
「十兵衛どの、おぬしを鬼に堕とした わしの娘が おぬしの為に鬼になる。
懐かしげな、また ほろ苦い顔をする市朗に十兵衛が慌てて頭を上げる。
「義父上!それがしは あの日の事を感謝こそすれ、『堕とされた』などと思うてはおりませぬ。義父上もどうか、そのように思わぬで下され…」
ギリリっと奥歯を噛み、絞り出すように言う十兵衛に、市朗はフッと笑みを作った。
「いや、すまん。そういうつもりでは無かったのだ。最近は昔の事ばかり思い出してしもうてな。歳は取りたくないのう」
笑う市朗の様子に十兵衛が表情を和らげた その時、
「うぅ、あ…」
うなされ始めた撫子に市朗が近付き頭をなでてやると、目を薄く開けて父親の姿を見た。
「お父…さま…?お父様!」
市朗に縋りつくと、幼子のようにわあわあと泣きだす撫子を抱きしめ、頭をなでてやる。
「ようやったのう、撫子。さすがは武勇で名高い河原の娘じゃ。父も鼻が高いぞ」
頷きながらも言葉にならない言葉を発し ただ泣きじゃくる娘と、その背をさする父の姿を眺めながら、十兵衛は撫子に まだ七郎と呼ばれていた少年であった頃の自分の姿を重ねて見ていた。
ー「あれは、あの日のおれだ」ー
『
初めて人を斬ったあの日、泣きながら縋りつく自分を市朗は抱きしめ背をさすってくれた。
『ようなさいました、七郎様。さすが剣に拠って立つ柳生家の御嫡男。お父上様もさぞ心強き事でございましょう』
「おまえが このように父に甘えるのは久しぶりだの。わしは嬉しくあるが、旦那様が妬きなさるぞ。なあ?十兵衛どの」
市朗の言葉に互いにハッと我に返った十兵衛と撫子は手を伸ばしあい、ひしと抱き合うと撫子は安心しきったように再び眠りに落ちてしまった。
その姿を見て満足げに頷いた市朗は、
「さて、では何がどうなっておるのかを詳しく聞かせてもらおうか?」
と、切り出した。
「ほお、また何とも怪しげな騒ぎに巻き込まれておる事よ」
ここまでの話を聞いた市朗は灰吹きに煙管の灰を落とすと、次の煙草を点け普段は見せる事の無い悪い顔でニヤリとする。
市朗が林家を訪れてより既に一刻は経つが、いまだ騒がしいままの庭を廻り廊下から見下ろしながら懐手で煙草をくゆらす姿は、とても大名家に仕える家士の出とも脇本陣を営む家の主とも思えぬ無頼の徒のような空気を纏い、五十路とはいえ かつては家中一の美男と謳われた顔貌と相まって凄絶な雰囲気を醸し出す。
しかし、この悪い男こそが、十兵衛の知る市朗なのだ。
「息のあった者に聞いたところ、あの瀬川という男に金で雇われただけで何も知らぬと申したそうで」
十兵衛も煙管をくわえて昇る煙を眺めながら答えた。
「であろうな。まあ、今は次の動きを待つしか無かろう」
どこか面白がるように薄く笑みを浮かべて言う市朗を、十兵衛は複雑な気持ちで見ていた。
ー「義父上は変わられたと思うておったが、ご自身が変わられたのではなく、生き方を変えられただけなのだな」ー
「さてと、わしは
「ちっ、
十兵衛は驚き隻眼を
「撫子と すず には内緒にな。もしバレたならば、おぬしも道連れぞ?」
「い゛っ!ちょっ、なっ」
慌てる十兵衛に いたずらそうな笑顔を見せて、市朗はさっさと階下へ降りていってしまった。
残された十兵衛は、苦笑いを浮かべて煙草の煙を輪に吹くと、
「全く、
と、