第41話 女難 其の十九

文字数 2,015文字

階下の座敷で皆が夕餉の膳に着いている最中、撫子は一人で宛がわれている二階の部屋にいた。
隣室は現・吉野太夫の珠子の居間であるが、ひっそりと静まりかえっているところをみれば、いまだ奥の寝間に引き籠っているのであろう。
「撫子、ありがとう」
「善女様そのような……。畏れ多い事にござります」
夕刻の供え物を終えると、善女龍王は撫子の手に頭をすり寄せ、いつものように水盤の底へと消えて行った。
後片付けをしようと手にした懐紙を取り落とし、水盤の載せられた美しい唐櫃(からびつ)の下にひらりと入り込んでしまう。
「いけない」
つぶやいて、撫子が唐櫃の下に手を伸ばした時、雷に打たれたような衝撃と共に脳裏に甦った記憶があった。

『うちとあんたはんだけの内緒やよ』

この唐櫃は、亡き先代の吉野太夫・徳子の遺した物であった。撫子は記憶を辿りながら、恐る恐る唐櫃の下から底の部分をまさぐる。
すると、ほんの小さな出っ張りに触れた。
「確か、これを」
思い出しながら それを押し込み、カタンと音がしたのを確かめて底の(ふち)に手を掛ければ、高さ一寸あまりの抽斗(ひきだし)が するりと現れる。
「あぁ、そうだ。思い出した……」
抽斗の中を見つめる撫子は、さまざまの色の入り交じった表情(かお)で、深く深く溜め息を吐いた。

翌朝、皆が集まった朝餉の席に吉野太夫・珠子が禿(かむろ)を従えて現れ、しおらしく手を(つか)える。
「えろう案じさしてしもて、かんにんえ。応山(おうざん)様のお呼びは今日ですやろ?お迎えを寄越してくれはるそうやし、おもうはん、手形をとっとくれやす」
「そやし、ゆうべまで伏せったはったのに……」
「応山様は徳子お姉はんの思い出話をしゃはる為に、うちを呼ばはんのどっせ。ほかの()ぉを名代に、とはいきまへん。吾子(あこ)を連れて行きますよって、ほんなら よろしいやろ?」
置屋(おきや)・林家の(あるじ) 与次兵衛は、太夫の申し出に うーん、と(うな)りながら思案を巡らせた。
応山とは公卿であった近衛(このえ)信尋(のぶひろ)の出家後の号である。かつて、先代吉野太夫・徳子の身請けを灰屋(はいや)詔益(しょうえき)と争い、敗れて(のち)は徳子が育てた珠子を贔屓にし、吉野太夫の名跡の継承を後押しした。
その応山からの呼び出しであれば、たとい現在の状況を(かんが)みても珠子本人は勿論のこと、与次兵衛もそうそう無碍(むげ)には出来ない。
「しゃあないな。ほな、新左衛門、太夫を頼みまっせ」
「へえ。太夫がそう言わはんにゃったら……」
苦り切った顔の与次兵衛と冴えない顔の吾子こと新左衛門のやりとりを見ながら、珠子は禿に給仕をさせ膳に手を付け始めた。
「ちょっと待ってくれ。手形を取れとは応山様が揚屋に来るのではなく、太夫が お屋敷へ出向くのか?」
「さいですわ。ご出家しゃはってからは お来しが(はばか)られますよって。今日はわてが お共ですねんけど、いつもは太夫おひとりどっせ」
十兵衛の問いに新左衛門が答える。
近衛信尋卿は趣味人として有名で、この六条三筋町にも足繁く通った。だが、出家の身になってからは外聞が悪いので太夫との逢瀬は自らの屋敷に招き、説話や茶の湯をという ていを取るようになっていったのだった。
もちろん太夫も、懇意にしている僧侶の元へ有難い法話や説話を拝聴に行くだけなので、禿も連れず化粧や髪、着物も どこぞの奥様のような慎ましやかな姿で出掛けるのである。
当時の六条三筋町は、後の江戸吉原よりもはるかに緩やかで穏やかな遊里で、条件さえ守れば遊女は町の外へ寺社参りや芝居見物に買い物、物見遊山などに出る事が出来た。
「太夫」という身分が表すとおり帝のおわす御所へ上がったり、貴人や お大尽の屋敷を訪れたりといった、仕事として町の外へ出る機会もあったのだ。
「では、おれは応山様の屋敷の前で待っておらねばならんのかな?」
苦笑いする十兵衛に、珠子は たっぷりと色香を含んだ視線を流す。
「うちが人拐(ひとさら)いが怖いや言うたら、応山様が お迎えの駕籠(かご)に お侍を付けてくれはるて。そやし、十兵衛様は奥様と ゆっくり遊んだはったらよろしいおすえ」
「それは助かる。築地(ついじ)の内は武家の身には居心地が悪くてな」
無精髭をひとなですると、十兵衛は隣で たらちねの世話をやいていた市朗と、黙って箸を口に運んでいる撫子とチラリと目を見合わせた。

(ひる)になり、吉野太夫・珠子の元へ迎えの駕籠が差し回されて来た。
朝餉の席で珠子が言っていたとおり、駕籠には笠を被った侍が()いている。
「おもうはん、ほな」
「応山様によろしゅうな。新左衛門、太夫を頼みますえ」
「へえ。行って参ります」
林家の前で与次兵衛が珠子と新左衛門を見送る様子を、二階の回り廊下から十兵衛と市朗が眺めていた。
見られているのに気付いたものか、駕籠が出る直前に、侍はツイっと笠を上げて二人に会釈をし後を追った。
婿(むこ)どのよ、なんという顔を」
欄干に頬杖ついて一行の後ろ姿を見ている十兵衛に、市朗がくつくつと笑って煙管(きせる)を差し出しながら、声を掛ける。
「む……」
ぽりぽりと気まずそうに頭を掻きながら煙管を受け取り、ゆっくりと くゆらせ始めた。
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登場人物紹介

柳生十兵衛三巌

主人公

剣豪として知られる柳生家当主で少し助平なイケおじ


河原 撫子

ヒロイン

美人で爆乳で淫らな十兵衛の嫁

柳生但馬守宗矩

故人

主人公・十兵衛の父

助平ジジイ

河原 市朗

ヒロイン・撫子の父

幼少の頃の十兵衛の傅役だった

イケオジィ

河原 すず

ヒロイン・撫子の母

若い頃、十兵衛の母・おりんの方様の侍女だった

ばあや

撫子のばあや

撫子が生まれる前は、すずの侍女だった

徳川家光

三代将軍


お藤

宗矩の側室

六丸の母

柳生 六丸

十兵衛の末弟

宗矩と お藤の子


お蔦

茶店の娘

撫子の幼なじみ


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