第20話 恋の重荷
文字数 3,782文字
「あなた様は…」
「烏丸光広 が娘、まえ どす」
十兵衛は、目の前の御歳六十ばかりとおぼしき尼が、自分が十二歳の年に江戸屋敷にやって来た六つ下の異母弟、左門に付き添っていたその母であると気付いた。
「左門どのの御母上様でござったか」
「よう覚えておいやしたなあ」
「左門どのと初めて会うた時の事は、今もよう覚えております。見目良く賢く、良くない事でござるが、左門どのと同歳の同腹の弟、主膳とつい比べてしまいもうした…」
十兵衛は懐かしげに隻眼 を細め、ホロ苦い笑みを浮かべる。
「そやし、左門を殺しゃはったん?」
「は…?」
面のような顔で息子を殺したのかと問う老女を、十兵衛は隻眼を瞠 って見つめた。
「それがしが、でござるか?左門どのを?なにゆえにござる?」
「今、言わはったえ?主膳どのよりも左門が秀 でてはったて。同腹の弟のんが可愛かったんですやろ?それに、徳川はんの お気に入られて出世しゃはる左門が、疎まれて遠ざけられた御身には妬ましうありましたのやろ?そやし、左門に刺客を差し向けられましたのやろ?」
「馬鹿な…」
十兵衛は絶句し、頭を抱える。
「同じ父の子として生まれた我ら兄弟の間には、同腹か異腹かなど関係ござらん。それに元々、城勤めがあまり気性に合わなんだ それがし には、左門どのの出世は柳生家にとって目出度き事と慶んでおりましたものを。そもそも、左門どのが お亡くなりになってより もう七年ですぞ?なぜ今頃になって、そのような話をなさるのか…」
「何も知らへんかったウチに、教えて下された方がおいやす」
面のような顔を ますます強張 らせ、まえ は吐き出すように言った。
「誰がそのような…」
十兵衛の問いに まえは答えず、ただ数珠を握り締めて黙りこんだ。
静かな室内には、炉に掛けられた釜の湯が沸く音だけが響いている。
沈黙を破ったのは、十兵衛であった。
「それがしが知っている事を、お話し申す。それを信じるか否かは、まえ様に おまかせいたすが…」
左門とは、十兵衛の異母弟で柳生但馬守宗矩の次男、柳生左門(のち刑部少輔)友矩の事である。
物語から抜け出て来たような大変な美男かつ、性格も穏やかな好人物で、十五歳で十兵衛と入れ替わるように将軍・徳川家光の小姓として出仕すると、たちまち その寵愛を受けるようになった。
しかし、二十六歳の時に病を得て致仕し、二十七歳の若さで世を去っている。
「それがしが最後に左門どのに会うたのは、左門どのが病を得て柳生庄に戻られた時で、美しかった左門どのは見る陰も無く窶 れ果て、別人のようでござった」
『兄上、左門は生きる意味を失いました。もう二度と、上様にお会いする事は叶いますまい』
滂沱 と流れる涙をぬぐいもせず、そう言った弟の姿を、十兵衛は思い出す。
「左門どのと上様は、男色 、武家の間では衆道 と言いならわしますが、その中で念兄 念弟 の契りを結んでおられた。これは互いに想い合う相手は、生涯互いのみという誓い。しかし、上様は大切なお役目として、お世継ぎを遺されねばなりませぬ」
まえは 目を見開き、あえぐように言葉を絞り出した。
「さ、左門が、男色やって…?」
「ああ、ご存知ではなかったのですかな」
六歳の左門を柳生家に引き渡して嫁いだ まえ には、それ以降は数える事が出来る程しか会っていない我が子の性的な指向など、知る由も無かったのだ。
「元より上様は、女人に全く興味を示されず、御台所様 との不仲もそれに端を発しているのでござる。それを危惧された春日局様が、少年のように凛々しき女人 お振 の方様を若衆姿に仕立てて お近づけになると、上様のお手が付き御懐妊のはこびとなり申した」
青ざめて脇息 に寄り掛かる まえ をよそに、十兵衛は静かに淡々と話を続ける。
「その頃より、左門どのは少しずつ心を病み始められ、上様との契りが父上や春日様の知るところとなり、病を理由に お役目を致仕させられて しばらくは江戸の下屋敷、その後 は柳生庄で養生される事となったのでござる」
母である まえ は、幼き頃の左門を思い出していた。
子供ながら美しく整った顔貌、利発で愛らしく、誰もが将来が楽しみだと誉めそやした。
その、左門が。
「上様が女色に目覚められ、自分への恋着 が薄れてきたのを感じた左門どのは、嫉妬から狂い始め、お役目にも障りが出るようになられたとか。父上などは春日様と共に上様の治世を支える相談役として、衆道を控えられ お世継ぎを、と口酸っぱく言うておられたというのに、その息子である左門どのが念兄念弟の契りを盾に、上様に自分への操立てを迫ったなど、面目を潰されたと大層お怒りでござった」
「あの優しい又右衛門様が、お怒りであらしゃったと…そのような」
信じられないとでも言うように、まえ は目を伏せて頭 を振る。
「父上は女人には お優しい方でしたからのう」
苦笑いをして、十兵衛が答えた。
「柳生庄に移されてからの左門どのは、食べ物もあまり喉を通らず、みるみる弱られていったそうでござる。夏のある日、身の回りの世話をしておった者が朝の声掛けに行くと、夜具の中で冷たくなっておられたそうな。それがしは江戸で報せを受け、最後にお会いした時の、涙ながらに上様に会えなくなった身の上を儚む左門どのを思い出し、とうとう この日が来てしもうたと…」
声を詰まらせた十兵衛を見た まえ は、ハッと息を飲む。
十兵衛は、ハラハラと涙をこぼしていた。
まえ は手巾 を十兵衛に手渡しながら、幼き日の左門の涙を拭ってやった事を思い出す。
似ていないようでも血を分けた兄弟、どこがという訳ではないが、まえ は十兵衛の姿に左門の面影を見たような気がしたのだった。
「かたじけない」
まえ の手巾で涙を押さえながら、十兵衛は話を続ける。
「それがしが、左門どのの死に関して存じ上げておるのは、これだけでござる。左門どのは、恋の病で亡うなられた。二度と上様にお会いする事が叶わぬと知って、生きる望みを失われたのであり、この兄の手に掛かってなど、決してござらぬのです」
「したが、なにゆえ、あの御方は、ウチに、あないな事を…」
震えながら、まえ は呟いた。
「まえ様、父上は大目付の内の一角を務めておりました。剣術指南役として上様の ご信頼も厚く、目立つ事もありましたでしょう。大目付の調べが元でお取り潰しになった家も多く、無関係であっても目立つ父上に逆恨みする輩もござる。父上が卒去されて家中が落ち着かぬ今を狙って、何かしら仕掛けて来る向きもあろうかと。おそらく、まえ様にそのような事を吹き込んだ奸物も…。それが何者かは あえて聞きますまいが、お身の回りには充分お気をつけなされませ」
まえは、大きな溜め息を一つ吐き、
「何や、落飾 した身でありながら、今だ煩悩にとらわれとって恥ずかしゅうありますわ」
自嘲するように言い、
「戸沢、そこにおるかえ?」
と、呼ばわると、唐紙が開き、控えていた戸沢が茶室に姿を見せる。
「まえ様、お呼びにて」
「床のお軸を外しとおくれ」
「畏まりましてございます」
戸沢が掛軸を外すと、まえ は それを箱にしまい美しい布に包み十兵衛に差し出した。
「これはウチの おもうさん が書きゃはったものどす。左門と又右衛門様の御香華 料として納めとおくれやす」
「こ、このような物をいただく訳には…」
と、言ってはみたものの、書が大好きな十兵衛は喉から手が出る程欲しかった。
流麗でありながら奔放かつ個性的な筆跡、能書家として名高い烏丸光広の書である。
「今 言いましたえ?十兵衛はんにではなし、お二方 の御香華料やって」
「は…、それでは有り難く頂戴致します」
まえ は満足げに一つ頷くと、
「お引き留めしてしもうて、すんまへんどしたなあ。元の通りまで戸沢に送らせますよって。戸沢、十兵衛はんがお帰りどっせ」
と言った。
十兵衛は居住まいを正し、
「それがしと まえ様は、共に左門どのという大切な方を亡くし申した。同じ悲しみを抱える者同士、何かあれば それがしを息子と思うて頼って下され。それでは」
と言い、茶室をあとにした。
「戸沢どの、これを」
戻りの道で、十兵衛は懐紙入れから小判を一枚取り出すと、戸沢に握らせた。
あたふたする戸沢に、十兵衛は、
「おれの弟子の道場に通うてほしいのだ。それで束脩 と謝義 を合わせて一年分はあると思うぞ。戸沢どのは先ほどの、おれと まえ様の話を聞いておられたろう?もっと強うなって、まえ様を守って下されぬか?」
戸沢の顔がピリッと締まる。
「それは、もちろんにございます。しかし、このような事をしていただく訳には…」
「なに、おれが安心したいが為よ。場所を教えるでのう。あ、おれの名は出さないでくれよ」
二人は先刻寄った茶店の前で別れ、戸沢は早速、道場に入門に行くと言って走り去った。
「
十兵衛は、目の前の御歳六十ばかりとおぼしき尼が、自分が十二歳の年に江戸屋敷にやって来た六つ下の異母弟、左門に付き添っていたその母であると気付いた。
「左門どのの御母上様でござったか」
「よう覚えておいやしたなあ」
「左門どのと初めて会うた時の事は、今もよう覚えております。見目良く賢く、良くない事でござるが、左門どのと同歳の同腹の弟、主膳とつい比べてしまいもうした…」
十兵衛は懐かしげに
「そやし、左門を殺しゃはったん?」
「は…?」
面のような顔で息子を殺したのかと問う老女を、十兵衛は隻眼を
「それがしが、でござるか?左門どのを?なにゆえにござる?」
「今、言わはったえ?主膳どのよりも左門が
「馬鹿な…」
十兵衛は絶句し、頭を抱える。
「同じ父の子として生まれた我ら兄弟の間には、同腹か異腹かなど関係ござらん。それに元々、城勤めがあまり気性に合わなんだ それがし には、左門どのの出世は柳生家にとって目出度き事と慶んでおりましたものを。そもそも、左門どのが お亡くなりになってより もう七年ですぞ?なぜ今頃になって、そのような話をなさるのか…」
「何も知らへんかったウチに、教えて下された方がおいやす」
面のような顔を ますます
「誰がそのような…」
十兵衛の問いに まえは答えず、ただ数珠を握り締めて黙りこんだ。
静かな室内には、炉に掛けられた釜の湯が沸く音だけが響いている。
沈黙を破ったのは、十兵衛であった。
「それがしが知っている事を、お話し申す。それを信じるか否かは、まえ様に おまかせいたすが…」
左門とは、十兵衛の異母弟で柳生但馬守宗矩の次男、柳生左門(のち刑部少輔)友矩の事である。
物語から抜け出て来たような大変な美男かつ、性格も穏やかな好人物で、十五歳で十兵衛と入れ替わるように将軍・徳川家光の小姓として出仕すると、たちまち その寵愛を受けるようになった。
しかし、二十六歳の時に病を得て致仕し、二十七歳の若さで世を去っている。
「それがしが最後に左門どのに会うたのは、左門どのが病を得て柳生庄に戻られた時で、美しかった左門どのは見る陰も無く
『兄上、左門は生きる意味を失いました。もう二度と、上様にお会いする事は叶いますまい』
「左門どのと上様は、
まえは 目を見開き、あえぐように言葉を絞り出した。
「さ、左門が、男色やって…?」
「ああ、ご存知ではなかったのですかな」
六歳の左門を柳生家に引き渡して嫁いだ まえ には、それ以降は数える事が出来る程しか会っていない我が子の性的な指向など、知る由も無かったのだ。
「元より上様は、女人に全く興味を示されず、
青ざめて
「その頃より、左門どのは少しずつ心を病み始められ、上様との契りが父上や春日様の知るところとなり、病を理由に お役目を致仕させられて しばらくは江戸の下屋敷、その
母である まえ は、幼き頃の左門を思い出していた。
子供ながら美しく整った顔貌、利発で愛らしく、誰もが将来が楽しみだと誉めそやした。
その、左門が。
「上様が女色に目覚められ、自分への
「あの優しい又右衛門様が、お怒りであらしゃったと…そのような」
信じられないとでも言うように、まえ は目を伏せて
「父上は女人には お優しい方でしたからのう」
苦笑いをして、十兵衛が答えた。
「柳生庄に移されてからの左門どのは、食べ物もあまり喉を通らず、みるみる弱られていったそうでござる。夏のある日、身の回りの世話をしておった者が朝の声掛けに行くと、夜具の中で冷たくなっておられたそうな。それがしは江戸で報せを受け、最後にお会いした時の、涙ながらに上様に会えなくなった身の上を儚む左門どのを思い出し、とうとう この日が来てしもうたと…」
声を詰まらせた十兵衛を見た まえ は、ハッと息を飲む。
十兵衛は、ハラハラと涙をこぼしていた。
まえ は
似ていないようでも血を分けた兄弟、どこがという訳ではないが、まえ は十兵衛の姿に左門の面影を見たような気がしたのだった。
「かたじけない」
まえ の手巾で涙を押さえながら、十兵衛は話を続ける。
「それがしが、左門どのの死に関して存じ上げておるのは、これだけでござる。左門どのは、恋の病で亡うなられた。二度と上様にお会いする事が叶わぬと知って、生きる望みを失われたのであり、この兄の手に掛かってなど、決してござらぬのです」
「したが、なにゆえ、あの御方は、ウチに、あないな事を…」
震えながら、まえ は呟いた。
「まえ様、父上は大目付の内の一角を務めておりました。剣術指南役として上様の ご信頼も厚く、目立つ事もありましたでしょう。大目付の調べが元でお取り潰しになった家も多く、無関係であっても目立つ父上に逆恨みする輩もござる。父上が卒去されて家中が落ち着かぬ今を狙って、何かしら仕掛けて来る向きもあろうかと。おそらく、まえ様にそのような事を吹き込んだ奸物も…。それが何者かは あえて聞きますまいが、お身の回りには充分お気をつけなされませ」
まえは、大きな溜め息を一つ吐き、
「何や、
自嘲するように言い、
「戸沢、そこにおるかえ?」
と、呼ばわると、唐紙が開き、控えていた戸沢が茶室に姿を見せる。
「まえ様、お呼びにて」
「床のお軸を外しとおくれ」
「畏まりましてございます」
戸沢が掛軸を外すと、まえ は それを箱にしまい美しい布に包み十兵衛に差し出した。
「これはウチの おもうさん が書きゃはったものどす。左門と又右衛門様の
「こ、このような物をいただく訳には…」
と、言ってはみたものの、書が大好きな十兵衛は喉から手が出る程欲しかった。
流麗でありながら奔放かつ個性的な筆跡、能書家として名高い烏丸光広の書である。
「今 言いましたえ?十兵衛はんにではなし、お
「は…、それでは有り難く頂戴致します」
まえ は満足げに一つ頷くと、
「お引き留めしてしもうて、すんまへんどしたなあ。元の通りまで戸沢に送らせますよって。戸沢、十兵衛はんがお帰りどっせ」
と言った。
十兵衛は居住まいを正し、
「それがしと まえ様は、共に左門どのという大切な方を亡くし申した。同じ悲しみを抱える者同士、何かあれば それがしを息子と思うて頼って下され。それでは」
と言い、茶室をあとにした。
「戸沢どの、これを」
戻りの道で、十兵衛は懐紙入れから小判を一枚取り出すと、戸沢に握らせた。
あたふたする戸沢に、十兵衛は、
「おれの弟子の道場に通うてほしいのだ。それで
戸沢の顔がピリッと締まる。
「それは、もちろんにございます。しかし、このような事をしていただく訳には…」
「なに、おれが安心したいが為よ。場所を教えるでのう。あ、おれの名は出さないでくれよ」
二人は先刻寄った茶店の前で別れ、戸沢は早速、道場に入門に行くと言って走り去った。