第42話 女難 其の二十
文字数 3,850文字
『明日から、あんたはんは天神の玉菊え。よう おきばりやす。いづれは あんたはんが次の吉野やと、うちは思うてますよって』
「徳子お姐はん……」
珠子が呟くとほぼ同時に駕籠が止まり、外から争うような声が聞こえてくる。
しかし、それもすぐに静かになった。
駕籠を降りた珠子は、もう一台の駕籠の様子を見に行き、脇に控えた男を
「手荒な真似は せえへんようにって、言うたやろ」
と言って、手にした扇子で 男の横っ面を張り、駕籠の中で ぐったりとしている新左衛門の頬をなでた。
「吾子、堪忍え」
当の新左衛門には聞こえていないであろう、とても優しげな
「のう、善女どの、見たか?」
「ええ、たらちねどの、確かに。」
その一部始終を、
「十兵衛めに頼まれて後を
「たらちねどの、新左衛門は何やら害された様子。私がみておこう。早よう、誰ぞ呼んで来やれ」
「そうじゃな。行ってくる」
野分の背にひらりと
「わてが付いとりましたのに、珠子お姐はんを……」
それから
「入りますえ」
声と共に唐紙が開くと、いつもの
「十兵衛様の、言わはったとおりどした。応山様は、太夫を お召しどころか、先から有馬へ湯治に出たはるて……」
「うむ。吾子よ、聞いたとおりだ。元より罠であろうとは思うておったで、おぬしが気に病まずとも良い」
片えくぼを彫って隻眼を笑わせた十兵衛に、新左衛門は普段の気弱とさえ思える様子からは想像もつかない剣幕で、その胸ぐらを掴んで噛みついた。
「罠やて思うてはったんなら!ほんなら何で、何で お姐はんを止めはらへんかったんどすか!?」
「!?新左衛門!?」
大身旗本の当主に対して乱心としか思えない息子の突然の行動に、与次兵衛は呆気に取られて動く事も出来ない。と、そこへ
「手を離さんか慮外者が」
声と同時に新左衛門の頭に衝撃が走り、そのまま畳の上に崩れ落ちる。
「あ、……っ!~く、あ」
激痛の走る頭を押さえながら見上げると、市朗が
「
衿元を直しながら鷹揚に言う十兵衛を咎めるように、キッと一睨みした市朗が新左衛門に向き直り
「気を付けろよ
と言うのを聞き、ハッとして気を取り戻した与次兵衛は、慌てて新左衛門の頭を畳に押し付けて自らも平伏した。
「気にするな、二人とも頭を上げてくれ。それよりも吾子、太夫を止めなかったのは、今止めても事は落着に至らぬからだ。詳しくは言えぬが、太夫の居場所と、その身に危害が及ばぬというのは分かっておる。そもそも、初めに断っておいたではないか?おれは用心棒はせぬ、太夫は裏で糸引く連中を暴く為の囮に使うのだとな」
十兵衛が言うと、新左衛門が顔を上げる。
「危害が及ばぬ……、ほんまでっか?」
「おう。それは請け合おう」
新左衛門の肩を一つポンと叩き十兵衛は座敷を出た。心中に『今は、な』という言葉を呑み込みながら。
その後に続いて市朗が肩越しに
「
と言いながら、そのまま後ろ手に唐紙を閉じるのを黙って見ていた新左衛門は、項垂れて唇を噛み、震えるほど拳を握りしめた。
「義父上も、お人が悪うござるな」
与次兵衛の座敷を離れてククと含み笑いする十兵衛に、仏頂面で市朗が答える。
「何がだ?」
「新左衛門も気の毒に。あのような言い方をなさらずとも……」
「何を言うか。おぬしに無礼を働いたのを、あの程度で済ませてやるなど。わしも焼が回ったものよ」
「ち、
「何だ?」
「いえ、何も」
舌打ちすらしながら さも忌々しげに吐く市朗の姿に驚き、隻眼を
二人が階上の座敷に戻ると、すぐに たらちね と善女龍王が心配そうに新左衛門の様子をたずね、無事に目を覚ましたと知り安堵する。
「たらちね様も善女様も お優しくていらっしゃります。あれは太夫が姿を消す為の道具建てで、元より新左衛門どのの お命は心配無用にござりましたのでしょう?」
手作りのお手玉を たらちね へ投げ渡しながら撫子が言う。
「命は取られぬと分かってはおっても、新左衛門が痛い思いをするのを黙って見ておらねばならんのは可哀想で、わしも善女どのもせつないものじゃった。十兵衛めが手出しはならんと言うておったでの」
頭の上に とぐろを巻いた小さな金色の蛇・善女龍王を乗せた たらちね は、器用に四個の お手玉を回しながら十兵衛に向かって あかんべえをした。
「それにしても、
「初めはただの勘働きでござった。朝餉の席での太夫は、何か嘘を吐いている、と」
「応山様の呼び出しが嘘なら、他に秘密の相手との逢瀬かとも勘繰ったが、吾子を供に付けると言う。腑に落ちんと思うておったら、駕籠に付いて来た侍は
「なぬ!」
「まあ!」
「!!」
たらちね、撫子、善女龍王は同時に驚きをあらわにした。
「それで、あの駕籠が浄土井公卿からの物だと判じ申した」
市朗は黙って腕を組み、うんうんと頷く。
「たらちね様と善女様の見ておられたところでは、太夫は無理矢理に
「おそらくは、あの夜襲から
己の推察を語ると、十兵衛は灰吹きにコン!と煙管を打ち灰を落とした。
「どんな旨い話で釣られたものか、まさか血を分けた兄に命を狙われておるとは思うまいよ。遣りきれんな」
自らも一男一女の兄妹の父親である市朗は、太夫の身の上を想い溜め息を吐く。
「ともあれ、明日の夜に満願の儀をやるまでは、太夫は無事なのじゃろ?のう十兵衛」
「どうでしょうな」
「待て。どうでしょうな、とは、どういう事じゃ?」
「そのままでござるよ。きゃつらの考えなど、それがしには分かり申さん。ただ、瀬川の言うには『満願成就の夜が刻限』という話であったので、それまで無事であろうとは思われますが。まあ、太夫の生き死には、この際あまり気にせずとも」
気候の話でもするかのようにのんびりと、太夫の生死は気にしないと言う十兵衛に たらちねは驚きお手玉を取り落とした。
「いかがなされましたかな?」
隻眼を笑わせて、十兵衛はお手玉を拾い、たらちねの手のひらに戻してやる。
「おぬし、薄情な男じゃな」
「
それだけ言い新しい煙草を煙管に詰める十兵衛と、頬をふくらませ黙ってお手玉を回し始めた たらちねを眺め、市朗は思う。
ー『幼き十兵衛様に「人はいつか死ぬるもの。目の前の生き死にに強く心を動かされませぬように」と お教えした。しかし、それも十三の歳までだ。三つ子の魂百までと言うが、人は育てたように育つものだな』ー
「さあさあ、それでは備えをすると致しましょう。善女様、あの邸の見取り図を作りとうござります。お話を聞かせて下さりませ」
手を一つポンと叩き、たらちねの頭上の善女龍王を見る撫子の声は、心なしか弾んでいるような響きがあった。
「よう来やったな、珠子。もっと早うに兄妹の名乗りをしたかってんやけど、……」
「そないな お話は結構どす。そやし『願えば思うまま』とは、ほんまですやろうな?うちは太夫。このまま戻れば、身分を お返しせなあきまへん。『嘘やった』では済まされまへんえ」
一方、浄土井邸の対面の間では、約二十年ぶりの兄妹の再開とは思えぬ寒々しさが、吉野太夫・珠子と浄土井公卿・隆継のあいだに横たわっていた。
「浄土井の名にかけて、嘘はおへん。珠子も疲れたやろ?
「お呼びにて」
あの瀬川小十郎が進み出て平伏する。
「おたあはんの屋敷におった瀬川や。珠子はえらい なついたはったやろ?これを付けたげるし、何ぞあれば言いつけや」
隆継は太夫の返事も聞かずに対面の間を出て行き、平伏したままの瀬川を、太夫は黙って見つめていた。