第23話 女難 其の一

文字数 5,186文字

その日の夕餉は殊のほか静かなものであった。
元々、十兵衛は食事中には あまり自分から話をしない。
それは武家の嫡男として そういう躾を受けてきたからにすぎず、普段は撫子が会話の無い食事を嫌い、何かと話しかけるので おしゃべりをしながら楽しく食べているのだが、その撫子が無表情で黙りこくっている為、さながら通夜の様相を呈しているのである。
気まずい夕餉を終えた後も撫子は無表情に黙ったまま、十兵衛から離れた場所で針仕事などをしていた。
寝そべって煙管をくわえてその姿を眺めながら、十兵衛は撫子の機嫌を取る方法を考えるも、そもそもの不機嫌の原因が先の来客にまつわるのならば十兵衛が謝る筋合いのものでは無いため、どうしようもないのである。
「撫子よ、そろそろ(やす)むか」
「はい」
撫子は針の手を止めて乱箱を出して来ると十兵衛を寝間着に着替えさせて、
「夜具はご用意してありますので、先にお(やす)み下さりませ。撫子は今少し針を進めます」
と言うとまた針箱のところに戻り、縫い物を始めた。
「そうか。あまり根を詰めぬようにな」
そう声を掛けて、十兵衛は隣の寝室への唐紙を開けて驚いた。
夜具が二つ敷かれてあったのだ。
このような事は夫婦となって初めてである。
動揺を隠して十兵衛はいつも使っている夜具に身を横たえた。
しばらく(のち)、そっと様子を伺うようにゆっくり唐紙が開くと、足音を忍ばせて撫子が寝室へと入り、そっともう一つの夜具に滑り込んだ。
「撫子」
「ひゃいっ」
寝付きの良い十兵衛は眠っているものと思っていた撫子は、不意に呼ばれて変な声が出てしまった。
「じゅ、十兵衛様、起きて…」
「このような仕打ちを受けて、安んじて眠れると思うてか?」
撫子は黙ったまま答えない。
「こっちや来い」
呼び掛けてもビクッと身じろぎしたまま、待っていても動かない撫子に業を煮やし、十兵衛は撫子の夜着をはぎ取るとヒョイと抱えて自分の夜具に引き入れた。
「あ、いやっ!」
じたばたする撫子を胸に抱き寄せて背をさすり頭をなでてやると さめざめと泣きだし、堪えきれず声を漏らす。
「う、うぅ、ふっ…」

―「おれに信じさせてやれるだけの男の甲斐性が無いばかりに、泣かせてばかりだのう。悋気するのが可愛ゆらしいなどと、こんなにも苦しんでいるではないか。おれは馬鹿だ…」―

「撫子よ、おまえは おれに大切な乙女の操を与えてくれたというのに、おれは おまえに何も返すものが無く、申し訳なく思うておる。しかしな、おまえと夫婦になるより前の事は、容赦してもらえぬか?これからはずっと、身も心も おまえ一人のものだと約束しよう」
耳元で静かに優しく囁く声に、顔を十兵衛の胸に伏せたままの撫子は、
「まことにござりますか…?」
と、涙声で答える。
「まことだとも。もし嘘であったならば、おれを殺せ。おまえにならば、黙って殺されようぞ。ん?」
「はい…」
「うむ。そこで相談なのだが、明日は一緒に林家に行ってはもらえぬか?おれが一人で行けば、おまえは また おれを疑わねばならぬ事になるであろ?」
こっくりと頷いた撫子に安堵した十兵衛は、その背中をポンポンと叩いてやると、
「待っておれ」
と言いおいて寝室を出て行った。
戻った十兵衛は湯に浸した手拭いと白湯の入った湯飲みを乗せた盆を持ち、隅に置いていた行灯を引き寄せて夜具の中の撫子を抱き起こし、手拭いで顔を拭ってやり白湯をすすらせる。
「心地は落ち着いたか?」
頷く撫子を胸に抱いて夜具に入り、十兵衛は撫子の足を いつもそうしているように自分のふくらはぎで挟んで温めた。
「おまえは不思議な女だな。菩薩のようだと思えば般若のようで、閨の中では天女なのに、こうしていると幼い頃のままの女童だ」
足が温まり眠気がさした撫子は夢うつつで十兵衛の声を聞いていた。
「その全てが、たまらなく いとおしい」
眠りに落ちた撫子が、最後まで十兵衛の言葉を聞いていたものかは分からない。

翌朝、林家から差し回された籠が着いた場所に、撫子は驚いた。
見覚えのある通りに門構え、六条三筋町の林家は幼い頃に十兵衛に連れられて何度か訪れた場所であったのだ。
「十兵衛様、これはどうした事でござります?ここは徳子姉(とくこねえ)の家ではありませぬか…」
「ほう、覚えておったのか。詳しくは後で話すが、おまえの言う徳子が先代吉野太夫なのだ」
「え…!」
撫子は言葉も継げないほど驚いたが、新左衛門が出迎えに来たため何も無いふうを取り繕う。
「おいでやすぅ。ささ、中へ 。父も十兵衛様にお会いできる言うて、楽しみに待っとおいやした」
二人で門をくぐり前庭を通りながら、撫子は時が戻ったような不思議な感覚におそわれた。
最後に訪れてより十五年、少しずつ変わった部分などはあるものの、ほぼ覚えているままの林家は今にも『撫子、ようおいでやした』と呼ばわりながら徳子姉が顔を出すのではないかと思えるほどだ。
何とは無しに落ち着かない気分になった撫子が十兵衛を見上げると、何か察したものかニコリと笑って撫子の肩を抱いた。
これも見覚えのある玄関を上がり、廊下を回り、撫子は幼い自分と遊んでくれた少し年長の女の子がいた事を思いだして、あの子は禿であったのか ここの娘であったのか、今はどうしているのだろうかなどと考えをめぐらす。

書院に通されると、そこには新左衛門の父親で十兵衛もよく知る林家の(あるじ)、林与次兵衛が待っていた。
「十兵衛様、お懐かしい。それにしても、お変わり無い男振りどすなあ」
「見え透いた世辞を。老けたのはお互い様だが息災のようで何よりだ」
再会の挨拶を交わすと、与次兵衛は撫子に目を移し、
「そちらは、昔うちに何度か連れて来やはった子ぉですやろ?思うてたとおり、美しゅうならはって」
と、目を細める。
「うむ、今はおれの妻でな。フフ」
十兵衛は照れたように うなじをなでながら言うと、腰の莨入(たばこい)れから煙管を取り出した。
「それはそれは、おめでとうさんどすな。今からでも吾子の嫁御にどないですかと お頼みしたかったんどすが。若紫とは、十兵衛様もなかなか…」
笑う与次兵衛の言葉を十兵衛の横で聞いていた撫子は、何か大切な事を忘れていて、それを思いだしそうで思い出せずモヤモヤするのであった。
そこへ、
「お待たせしてしもうて、堪忍しとぉくれやす」
新左衛門と禿を従えて書院に入って来た女は長閑な様子で そう言うと、手を仕える。
「吉野どす。十兵衛様にはお久しゅう。もう、うちのことなん お忘れですやろか」
「ん…、林弥(りんや)…。いや、…玉菊(たまぎく)…か?吉野太夫の名を継いだとは知らなんだ。いや、大した出世ではないか」
記憶をたどり、十兵衛は先代吉野太夫の禿であった林弥、(のち)の天神・玉菊を何とか思い出した。
「覚えておいやしたんどすか?嬉しおすなあ。徳子お姉はんへの義理で一度だけ呼んでもうたっきりどしたから、てっきり お忘れやと…」
撫子は一瞬ピリッとしたものの、昨夜の十兵衛との約束を思い出して角を引っ込め平静を装う。
十兵衛は煙草をくゆらせ撫子の手を握り、その指先を もてあそびながら、
「わざわざ昔話をしに おれを呼んだ訳では無いだろう?用件を聞かせてもらおうか」
と切り出した。
「そうどしたなあ。実は―」
吉野太夫の話はこうである。
―先月に身請けの話が来たが、相手はやんごとなき御方の為、金子(きんす)は言い値で支払う代わりに身分は明かせないという何とも怪しいもので、帝さえ顧客に持つ吉野太夫にとって、それ以上にやんごとなき御方などいるはずもなく、丁重にお断りした。ところが二日前に徳子の墓参へ行った帰りに(かどわ)かされそうになり、京に来ているとの噂を耳にしていた十兵衛の名をとっさに出してしまった―
「大和の柳生十兵衛様から身請け話が来とおいやす。うちがおらんようになったら、ただでは済みまへんえって言うたら、蜘蛛の子散らすみとおに慌てて逃げて行きやはったのどす。十兵衛様の御剣名に震え上がりはったんどすなあ」
吉野太夫はコロコロと笑いながら語るのに十兵衛は苦笑いした。
「なぜそのような嘘をついた?」
「徳子お姉はんが、『困った時は柳生十兵衛様を頼り』って言うてはったんどす。ちょうど その お姉はんの墓参帰りだったのは、巡り合わせですやろなあ」
艶っぽい笑みを浮かべて十兵衛を見つめた吉野太夫は、
「うちは十兵衛様やったら、ほんまに身請けしてもろても かましまへんえ?そしたら嘘や無くなりますやろ」
と言い放った。
それを聞きながら撫子は涼しい顔をしているが、その手は爪を立てるように十兵衛の手をきつく握りしめる。
十兵衛はその手を優しく握り返すと、
「勿体なくも太夫からそのような申し出をいただくとは誉れな事ではござるが、あいにくと それがしには この可愛い恋女房がおりましてな。お畏れながら御免こうむる」
そう言って、撫子をぐいっと抱き寄せ膝にかかえた。
「ややわぁ、五倍子水(おはぐろ)もしてはらへんから奥方様やなんて思わへんどしたわぁ。堪忍え」
「おれの好みでな。鉄漿(おはぐろ)も結い髪も引き眉も させておらん」
「十兵衛様は(いと)けのうて おぼこい御方が お好みなんどすなぁ。そやけど、十兵衛様の お持ち物はご立派やし、気ぃを遣らずに時を過ごされますよって、お可愛らしい奥方様にはえらいことやおへんか」
まるで挑発するかのような吉野太夫の言いように、十兵衛の膝の撫子も負けてはいない。
「太夫はどちらの十兵衛様のお話をなされておいででござりまするか?撫子の十兵衛様は、いつも(わたくし)をとても()心地(ここち)にしてくださり、一夜に三度は気を お遣りになります。私は十兵衛様との閨を大変だなどと思うた事はござりません。もし、同じ十兵衛様の事でござりますれば、気を遣らずに時を過ごされるのは、御無礼ながら太夫の お持ち物の具合が…」
皆まで言わず言葉を濁し、撫子が紅い唇を三日月の形に笑わせると、吉野太夫は顔に朱が差し唇を噛んで撫子を()めつける。
二人は散らす火花が見えるかのごとくに、互いに逸らさず視線を交わすのを大きな笑い声が遮った。
「はーっはっはっは!珠子(たまこ)、おまえの負けどっせ。いや、奥方様は大したお方や」
笑い声の主は与次兵衛で、珠子と呼ばれた吉野太夫は不満げに唇を歪めて見せる。
「堪忍してやっとおくれやす。芸事は先代吉野太夫にも劣らぬと評判どすが、性根(しょうね)に難ありどしてなあ」
「ほんに、さようでござりますね」
さらりと撫子が流すと、十兵衛は煙草の煙を輪に吐いて悩ましげに、
「おれを襲った奴は その太夫の身請けを断られた其奴の差し金でほぼ間違いないが、正体が判らぬときてはなあ」
と、こぼす。
「今日お呼び立てしたんは その事なんどす。お相手が判りしませんし、まさか うちを拐かそうとまでしゃはるなんて恐ろしうて…。そやし、十兵衛様にうちをお守りいただけへんかと思うて」
吉野太夫はわざとらしいと思えるほどに しおらしく言うが、十兵衛はにべもなく、
「そのような事なら用心棒でも雇えばよかろう。ただでさえ昨日は身に覚えの無い話で いきなり斬りかかられて いい迷惑だ。面倒事に巻き込まぬでくれ」
いかにもうんざりといった表情だ。
「それどすねんけどなあ」
それまで黙っていた新左衛門が口を開く。
「うちとこは女抱えの商い。太夫のみならず他の遊女に禿と女ばかりどして、慣れた男衆の他に新しく用心棒なん入れて女衆に手え出されても困りますよって。十兵衛様やったら腕が立つだけやのうて、遊び慣れてはるし奥方様もおますさかい女衆の心配をせいで済みますし…」
「わてからも何とか お頼申(おたのもう)します。御大身のお殿様に 用心棒の真似事をしてくれやなんて、お手打ちにされてもしゃあないとは思うてますが、昔のよしみで何とぞ。それに、今のままやったら相手が十兵衛様に太夫を諦めさす為に奥方様に何かせんともかぎりまへんえ?」
与次兵衛からも頭を下げられ痛いところを突かれて、十兵衛も思案する。
―「それよな…撫子と河原の家に害をなされては困る。相手の一味を一人捕まえて敵陣に乗り込むのが手っ取り早いのだろうな。その為には…。それに昨日の男、まあまあの使い手であったようだが。もう一度、きちんと立ち合ってみたい気もするし、一味にもっと強いのがおらぬとも限らん」―
もともと面白がりで荒事も好きな十兵衛は、我知らずのうちに少し乗り気になってきていた。
「十兵衛様」
膝の撫子に声を掛けられ、十兵衛はハッと我に返る。
「ああ、撫子、どうした?」
「少し面白いと思うておいででござりましょう?撫子は十兵衛様とご一緒でさえあれば、よろしゅうござりますよ」
「フッ」
十兵衛は思わず吹き出し、
「お前には かなわんな」
撫子の頭ををなでて あごをくすぐりながら十兵衛は、
「妻の お許しが出たので少し首を突っ込んでみるとしよう。ただし、用心棒としてではないぞ。太夫を きゃつらを(おび)きだす(おとり)に使うついでに、だ」
と、のほほんとした調子で言った。
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登場人物紹介

柳生十兵衛三巌

主人公

剣豪として知られる柳生家当主で少し助平なイケおじ


河原 撫子

ヒロイン

美人で爆乳で淫らな十兵衛の嫁

柳生但馬守宗矩

故人

主人公・十兵衛の父

助平ジジイ

河原 市朗

ヒロイン・撫子の父

幼少の頃の十兵衛の傅役だった

イケオジィ

河原 すず

ヒロイン・撫子の母

若い頃、十兵衛の母・おりんの方様の侍女だった

ばあや

撫子のばあや

撫子が生まれる前は、すずの侍女だった

徳川家光

三代将軍


お藤

宗矩の側室

六丸の母

柳生 六丸

十兵衛の末弟

宗矩と お藤の子


お蔦

茶店の娘

撫子の幼なじみ


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