第31話 女難 其の九

文字数 1,326文字

禿達の琴の稽古の見張りを新左衛門にまかせ、珠子は庭に出てきた。
先の襲撃の跡は何事も無かったかのように片付けられ、松の木の幹に残った矢の(きずあと)からにじみ出た松脂(まつやに)だけが、かろうじて あの事件が夢や幻ではない証拠を留める。
ー『浄土井公卿……』ー
その松の痕を見ながら物思いに(ふけ)る珠子の頭部に突如として軽い衝撃が走り、髪に挿していた銀の(かんざし)がぴぃんと跳ね落ちると、続けて松に何かが当たり足元に落ちた。
驚いて振り向く珠子の目に、一階の回り廊下で小袖の双肩(もろかた)を脱ぎ筒袖の襦袢姿で片ひざ立ちに弓を構える撫子が見え、足元に落ちた物を確かめると それは(やじり)の付いていない矢であった。
(あた)り♪」
紅い唇をニイッと弦月に笑わせた撫子は、沓抜石(くつぬぎいし)に置かれてあった下駄をつっかけて庭に降り、固まる珠子の足元に落ちたままの簪を拾い上げ差し出す。
受け取る珠子の手は、ふるふると震えている。あの夜、暗闇の中から撫子の弓に狙われていると感じた恐怖を思い出したのだ。
「まあ……。わたくしごときが、そんなに怖ろしい?」
クスクスと笑う撫子をキッと睨んだものの、震える手は簪を取り落としてしまう。
撫子は再度拾い上げた簪を、今度は直に髪に挿してやった。
「わたくしの旦那さまに手を出そうというのだから、どんなに太い(きも)を お持ちなのかと思えば。ずいぶんと小心でいらっしゃること」
「あ、あんたはんに、うちの、何が、わかりますのん」
蒼褪(あおざ)めた唇を震わせて珠子が言い返す。
「さあ?あなた様と浄土井公卿様の お関わりなど、わかりたくもござりませぬ」
「はっ、な、何を……」
不意を突かれた珠子は、あからさまに動揺する。
「まさか あのような猿芝居で まんまと隠しおおせたとでも?」
雪のように真っ白になった顔を逸らした珠子を覗き込むようにして撫子は続けた。
「もっとも、わたくしには そのような事など、どうでも()いのでござりますが。それほどまでに命を惜しまれるのであれば、二度とわたくしの十兵衛様に しなだれ掛かるような真似をなされますな」
「……あんたはん、とんだ(ねこ)(かぶ)りどすなぁ」
「太夫は猫を被るのが不得手(ふえて)なご様子。見倣(みなら)われるが()ろしゅうござりましょう」
奥方(おくがた)本性(ほんしょう)が こないに怖ろしいやなんて知れたら、十兵衛はんは さぞ がっかりしゃはるんやないやろか?」
「十兵衛様は、わたくしが このような女なのだと充分 存じておられます。その上で、あのように お可愛がり下さりますの」
頬を染めて うっとりとした口ぶりで言う撫子に、珠子はカチカチと鳴る奥歯をギリリと噛んで絞り出す。
「そうやった。あんたはんは たった四つの時分に、後にも先にも超える名妓(めいぎ)無しと(うた)われる二代目吉野太夫の徳子お姉はんと十兵衛はんを争うて勝った化け物やったわ」
「左様な事もござりましたわね。徳子姉は あれで諦めたから、無事に天寿(てんじゅ)(まっと)うされたのですわ。……次は、外して差し上げませぬよ」
撫子は珠子の目を真っ直ぐに見据えて天女もかくやと思われるような笑みを浮かべると、珠子の額の真ん中を人差し指でトンと一つ突いて(きびす)を返し、振り返りもせずに元の沓抜石で下駄を置いて屋内へ消えた。
その後ろ姿から目を離す事も出来ないまま、珠子は腰砕けにへたりこんで ただ震える己の肩を抱いていた。
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登場人物紹介

柳生十兵衛三巌

主人公

剣豪として知られる柳生家当主で少し助平なイケおじ


河原 撫子

ヒロイン

美人で爆乳で淫らな十兵衛の嫁

柳生但馬守宗矩

故人

主人公・十兵衛の父

助平ジジイ

河原 市朗

ヒロイン・撫子の父

幼少の頃の十兵衛の傅役だった

イケオジィ

河原 すず

ヒロイン・撫子の母

若い頃、十兵衛の母・おりんの方様の侍女だった

ばあや

撫子のばあや

撫子が生まれる前は、すずの侍女だった

徳川家光

三代将軍


お藤

宗矩の側室

六丸の母

柳生 六丸

十兵衛の末弟

宗矩と お藤の子


お蔦

茶店の娘

撫子の幼なじみ


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