第26話 女難 其の四
文字数 3,031文字
その日の吉野太夫・珠子の お座敷は、馴染みである豪商が役人の接待の為に設けた宴席で、宴はつつがなく お開きとなり、珠子と妹分の遊女・禿らと芸者衆が役人達と旦那を乗せた籠を見送ると、別の間で様子を窺っていた十兵衛と撫子も共に帰途につく事となった。
揚屋から林家までは同じ町内の目と鼻の先。夜とはいえ、まだ人通りもあり特に異変も無く門をくぐると撫子は眠気が差して目をこする禿達を連れて さっさと屋内に引っ込んだ。
「庭を案内してくれぬか?」
玄関の前庭で珠子と二人きりになった十兵衛が言うと、紅を濃く重ねた唇をクッと吊り上げた珠子は十兵衛の手を取って庭へ続く踏み石に足を置く。
庭に点々と配された灯篭には全て灯りが入れられてあったが、月の無い今宵は隠れて睦言を囁くのに好都合だと思われる暗がりが残っていた。
「十兵衛様…」
珠子が切なげな媚びを含んだ声を吐きながら身を寄せて来ると、十兵衛は
「ここではいかん。そちらに…」
と言いながら珠子を抱き寄せるようにして庭の中程まで進んだところで、
「柳生十兵衛…。寝静まってから押し入るつもりであったが、吉野太夫共々そちらから飛び込んで来るとは、手間が省けたわ」
聞き覚えのある声が響き、灯りの届かぬ闇の中から、先 に十兵衛を襲った男が姿を現した。
珠子はハッと息を飲み、十兵衛の背後に身を隠す。やはり十兵衛を襲った男が珠子を拐かそうとした男であったのだ。
「大徳寺の帰りにも言うたが、そのように殺気を放っておって なぜ気付かれておらぬと思う?よほど おれは侮 られておるのだのう」
苦笑いしながら懐手で顎をポリポリとかきながら のんびりとした調子で十兵衛が言うと、男は
「気付いておったと言いながら、このように のこのこと出て来て我らに囲まれておる。ご高名な柳生十兵衛様ともあろう御方が、侮られても致し方ないのではないか?」
明らかな侮蔑をにじませて言い放つと、暗がりから次々と腰に刀を帯びた男達が現れた。その数、ざっと十名余り。
「うぬらこそ、か弱き女一人を拐かす為だけに ここまでせねばならんとはな。呆れたものよ」
「何とでも言え。いかな柳生十兵衛でも、太夫を庇いながら一人で この人数を相手には出来まい」
「確かに、父・柳生但馬守も『多勢に無勢ならぬ也』と教えておられるでのう。本来ならばこのような事は致さぬ。おれが一人であれば、の話だがな。太夫、離れておれ。なに、心配は無用だ。何奴も今はおぬしに近付けぬよ」
「笑止な事よ、他に誰がおると言うのだ。この期に及んで そのような強がりを…」
男の言葉が笑い声に変わった その時、十兵衛の背後で
「ぐっ!」
と声が上がり、どっと地面に倒れこんだ男が苦鳴を上げながらのたうつ。男の太股 を貫いた矢のせいであった。
「なっ、何!?」
笑いが一転、目を見開いて驚愕する目の前の男に、十兵衛は
「おれには鷹の目を持つ弓取りがついておる。有象無象は片付けてくれるで、おれの相手はうぬ一人よ。とは言うても、我が柳生新陰流は天下の御流儀。他流と仕合うを禁じておるゆえ、うぬには冥土の土産に一手指南をしてやろうか。遠慮は要らぬぞ。いざ、心を澄ましてかかって参れ」
そう言って愛刀・三池典太を抜き、切っ先を地に向けて落とすと新陰流の『無行の位』を取り、スッと仏像を思わせる半眼の表情になった。
そうしている間にも庭のあちこちでは悲鳴が上がり、どっと倒れこむ音や地面をじたばたと転げ回る音が聞こえる。
十兵衛と対峙した男は観念したように刀を抜き青眼に構えると
「瀬川小十郎、参る」
と、名乗りをあげた。
珠子は十兵衛の言う弓取りが誰であるのかを察し、撫子がいるのであろう庭に面した二階を見上げるも、一階も二階も漏れる灯りの一筋すら無く普段の林家の様子から考えると甚だ不自然な漆黒の闇があるだけ。しかし珠子は、その闇が自分を見つめているのをハッキリと感じ取ったのだ。
ぬばたまの闇と目が合った ー「あの矢は、うちを狙 うてる…」ー 何も見えてはいないが、珠子は なぜか そう思った。その瞬間、全身の肌は粟立ち冷たい汗が吹き出す。動く事も声を上げる事も、目を逸らす事すら出来ず縫い留められたように立ち尽くす その耳元を疾風が薙いだ。
ガチャっと重い金属が落ちた音に続き
「ぐぼっ!がっ!」
という水の中で息を吐くような声が聞こえた直後、矢に喉を貫かれて口から血とゴボゴボという音を吹き出しながら、男が珠子の背にのしかかって来る。
「あーっ!ああぁーあー!!」
弾かれたように悲鳴を上げながら男の体を退 けようともがくが、それも虚しく下敷きになる形で倒れ伏す。血まみれで死体に押し潰されている無様な自分の姿を、二階の闇は嘲笑 っているに違いない。珠子は そう思った。
「これで、ようやく二人きりになれたのう」
依然、どこを見ているのか分からない半眼のままで十兵衛は片えくぼを彫る。
ー『討てる討てないではない。打ち込む隙すら見えない』ー
瀬川の背筋に冷たい汗が走る。二日前、十兵衛に斬りかかれたのは、あれは誘われた、斬りかからせられたのだと悟った。
その時、門を叩く音と共に
「ごめんやす。番所のもんやけど、何ぞ ありましたかいな?」
と呼ばわる声がする。騒ぎを聞きつけた近所から番所へ報せが入ったのであろう。
それを聞き、少しずつジリジリと後すざりを始める瀬川に十兵衛が
「邪魔が入ったな。逃げたければ逃げるがよい。今なら追わぬぞ」
と言うと、瀬川は明らかに狼狽する。ー『罠かもしれん』ー そんな心中を見透かすように
「番所が来たからには こちらも調べに応じねばならん。うぬの後を追うどころではない。背後から斬りかかったりはせぬゆえ、行 け」
そう言うと十兵衛は愛刀をパチンと鞘に納めてニヤリと笑った。
こちらも刀を納めて踵 を返す瀬川の背に投げられた
「また会おうよなあ?」
という 場違いに のんびりとした言葉に戦慄しながら、走狗のごとくに逃げ出し塀を乗り越える瀬川を見送った十兵衛は、たった今までの余裕しゃくしゃくとした様子と うって変わり慌てて建物の方に駆け寄り二階に両腕を差し出すと
「撫子、来い!」
と叫んだ。
二階の闇の中からガタンと何かを取り落とす音に続き、回り廊下の外の庇 に姿を現した撫子は、黒い小袖と裁付け袴姿で籠手 に弓懸 もそのままに十兵衛の腕の中に飛び込んで来た。
顔は涙でぐしゃぐしゃ、体はガタガタと震え上手く呼吸が出来ず ヒュッと喉を鳴らして しゃくり上げている撫子を抱きしめながら、十兵衛は己が初めて人を斬った時の事を思い出す。
「すまぬ。辛い思いをさせたな」
「い…いえ、これ…は、撫子が、望んだ、事…、」
蒼白な顔で切れ切れに答えながらも、撫子は満足げに幸せそうな笑みを作った。
与次兵衛が番所の対応に出てきたのと共に、事態の収まりを知った新左衛門や使用人達も
庭の入り口に回って来たが、矢に射られて呻き声をあげる者と死体と血溜まりの酸鼻を極める有り様に思わず足が止まる。
「うっ」
「こ、これは…」
尻込みする新左衛門達に
「何してんの?!早 よウチを助けえ!」
珠子の叱咤が飛ぶ。
「太夫!?」
「こんな…、どないしゃはったんどすか?」
新左衛門と男衆達は仰天し、慌てて駆け寄り死体を転がすように珠子の上から退かした。
死体の下から血塗れで助け出された珠子は この地獄を作り出した二人 、十兵衛と撫子が互いの他には何も目に入っていないかのような様子であるのを薄ら寒く不気味に感じながら、ただ茫然と座り込むのだった。
揚屋から林家までは同じ町内の目と鼻の先。夜とはいえ、まだ人通りもあり特に異変も無く門をくぐると撫子は眠気が差して目をこする禿達を連れて さっさと屋内に引っ込んだ。
「庭を案内してくれぬか?」
玄関の前庭で珠子と二人きりになった十兵衛が言うと、紅を濃く重ねた唇をクッと吊り上げた珠子は十兵衛の手を取って庭へ続く踏み石に足を置く。
庭に点々と配された灯篭には全て灯りが入れられてあったが、月の無い今宵は隠れて睦言を囁くのに好都合だと思われる暗がりが残っていた。
「十兵衛様…」
珠子が切なげな媚びを含んだ声を吐きながら身を寄せて来ると、十兵衛は
「ここではいかん。そちらに…」
と言いながら珠子を抱き寄せるようにして庭の中程まで進んだところで、
「柳生十兵衛…。寝静まってから押し入るつもりであったが、吉野太夫共々そちらから飛び込んで来るとは、手間が省けたわ」
聞き覚えのある声が響き、灯りの届かぬ闇の中から、
珠子はハッと息を飲み、十兵衛の背後に身を隠す。やはり十兵衛を襲った男が珠子を拐かそうとした男であったのだ。
「大徳寺の帰りにも言うたが、そのように殺気を放っておって なぜ気付かれておらぬと思う?よほど おれは
苦笑いしながら懐手で顎をポリポリとかきながら のんびりとした調子で十兵衛が言うと、男は
「気付いておったと言いながら、このように のこのこと出て来て我らに囲まれておる。ご高名な柳生十兵衛様ともあろう御方が、侮られても致し方ないのではないか?」
明らかな侮蔑をにじませて言い放つと、暗がりから次々と腰に刀を帯びた男達が現れた。その数、ざっと十名余り。
「うぬらこそ、か弱き女一人を拐かす為だけに ここまでせねばならんとはな。呆れたものよ」
「何とでも言え。いかな柳生十兵衛でも、太夫を庇いながら一人で この人数を相手には出来まい」
「確かに、父・柳生但馬守も『多勢に無勢ならぬ也』と教えておられるでのう。本来ならばこのような事は致さぬ。おれが一人であれば、の話だがな。太夫、離れておれ。なに、心配は無用だ。何奴も今はおぬしに近付けぬよ」
「笑止な事よ、他に誰がおると言うのだ。この期に及んで そのような強がりを…」
男の言葉が笑い声に変わった その時、十兵衛の背後で
「ぐっ!」
と声が上がり、どっと地面に倒れこんだ男が苦鳴を上げながらのたうつ。男の
「なっ、何!?」
笑いが一転、目を見開いて驚愕する目の前の男に、十兵衛は
「おれには鷹の目を持つ弓取りがついておる。有象無象は片付けてくれるで、おれの相手はうぬ一人よ。とは言うても、我が柳生新陰流は天下の御流儀。他流と仕合うを禁じておるゆえ、うぬには冥土の土産に一手指南をしてやろうか。遠慮は要らぬぞ。いざ、心を澄ましてかかって参れ」
そう言って愛刀・三池典太を抜き、切っ先を地に向けて落とすと新陰流の『無行の位』を取り、スッと仏像を思わせる半眼の表情になった。
そうしている間にも庭のあちこちでは悲鳴が上がり、どっと倒れこむ音や地面をじたばたと転げ回る音が聞こえる。
十兵衛と対峙した男は観念したように刀を抜き青眼に構えると
「瀬川小十郎、参る」
と、名乗りをあげた。
珠子は十兵衛の言う弓取りが誰であるのかを察し、撫子がいるのであろう庭に面した二階を見上げるも、一階も二階も漏れる灯りの一筋すら無く普段の林家の様子から考えると甚だ不自然な漆黒の闇があるだけ。しかし珠子は、その闇が自分を見つめているのをハッキリと感じ取ったのだ。
ぬばたまの闇と目が合った ー「あの矢は、うちを
ガチャっと重い金属が落ちた音に続き
「ぐぼっ!がっ!」
という水の中で息を吐くような声が聞こえた直後、矢に喉を貫かれて口から血とゴボゴボという音を吹き出しながら、男が珠子の背にのしかかって来る。
「あーっ!ああぁーあー!!」
弾かれたように悲鳴を上げながら男の体を
「これで、ようやく二人きりになれたのう」
依然、どこを見ているのか分からない半眼のままで十兵衛は片えくぼを彫る。
ー『討てる討てないではない。打ち込む隙すら見えない』ー
瀬川の背筋に冷たい汗が走る。二日前、十兵衛に斬りかかれたのは、あれは誘われた、斬りかからせられたのだと悟った。
その時、門を叩く音と共に
「ごめんやす。番所のもんやけど、何ぞ ありましたかいな?」
と呼ばわる声がする。騒ぎを聞きつけた近所から番所へ報せが入ったのであろう。
それを聞き、少しずつジリジリと後すざりを始める瀬川に十兵衛が
「邪魔が入ったな。逃げたければ逃げるがよい。今なら追わぬぞ」
と言うと、瀬川は明らかに狼狽する。ー『罠かもしれん』ー そんな心中を見透かすように
「番所が来たからには こちらも調べに応じねばならん。うぬの後を追うどころではない。背後から斬りかかったりはせぬゆえ、
そう言うと十兵衛は愛刀をパチンと鞘に納めてニヤリと笑った。
こちらも刀を納めて
「また会おうよなあ?」
という 場違いに のんびりとした言葉に戦慄しながら、走狗のごとくに逃げ出し塀を乗り越える瀬川を見送った十兵衛は、たった今までの余裕しゃくしゃくとした様子と うって変わり慌てて建物の方に駆け寄り二階に両腕を差し出すと
「撫子、来い!」
と叫んだ。
二階の闇の中からガタンと何かを取り落とす音に続き、回り廊下の外の
顔は涙でぐしゃぐしゃ、体はガタガタと震え上手く呼吸が出来ず ヒュッと喉を鳴らして しゃくり上げている撫子を抱きしめながら、十兵衛は己が初めて人を斬った時の事を思い出す。
「すまぬ。辛い思いをさせたな」
「い…いえ、これ…は、撫子が、望んだ、事…、」
蒼白な顔で切れ切れに答えながらも、撫子は満足げに幸せそうな笑みを作った。
与次兵衛が番所の対応に出てきたのと共に、事態の収まりを知った新左衛門や使用人達も
庭の入り口に回って来たが、矢に射られて呻き声をあげる者と死体と血溜まりの酸鼻を極める有り様に思わず足が止まる。
「うっ」
「こ、これは…」
尻込みする新左衛門達に
「何してんの?!
珠子の叱咤が飛ぶ。
「太夫!?」
「こんな…、どないしゃはったんどすか?」
新左衛門と男衆達は仰天し、慌てて駆け寄り死体を転がすように珠子の上から退かした。
死体の下から血塗れで助け出された珠子は この地獄を作り出した二人 、十兵衛と撫子が互いの他には何も目に入っていないかのような様子であるのを薄ら寒く不気味に感じながら、ただ茫然と座り込むのだった。