第22話 女難~緒~
文字数 2,893文字
その日、十兵衛は大徳寺で修行をしている六丸 に、撫子が用意してくれた冬物の下着類や差し入れの菓子などを届けに行った。
「おねいさまは ご一緒じゃないの?」
不満げに言う六丸に十兵衛は、
「まあそう言うな。まだ修行中の身に女人の面会は許されぬでのう。得度式 が済めば会えるであろうよ」
と言って聞かせた。
大徳寺を出た十兵衛は、荷物持ちに連れてきた京店 の丁稚 に駄賃を渡して店に帰し、自分は別宅に帰るでもなく ゆるゆるとそぞろ歩きをする。
しばらく そうしてウロウロとする内に、十兵衛はフと、前から歩いて来る侍に目を止めた。
どこぞの家中の者とも思えぬが、しかし牢人者とも思えぬ身なりの男と すれ違った直後、そやつが背後から抜き打ちに斬り付けてきたのだった。
ギン!と金属がかち合う耳障りな音が響く。
十兵衛は振り返り、左逆手に抜いた脇差しでそれを受けていた。
「何故わかった…?」
襲撃者の問いに十兵衛は、
「大徳寺を出た時から 気付いておったわ。そのように殺気を放っておっては一里先からでも それと知れるぞ。おれを柳生十兵衛と知っての事であるな?おぬし、何奴だ?最期にせめて、名を聞いてやろうよ」
そう言うと、愛刀・三池典太の柄 に手を掛けた。
襲撃者は跳びすざり、十兵衛と距離を取ると、
「吉野太夫から手を引け」
と言う。
「は?」
十兵衛は突然の事に面くらった。
「ちょっと待て、吉野太夫から手を引けとは何の事だ?先代はとうに亡く、当代とは…」
「とぼけるな!いいか、吉野太夫からは手を引け!」
と、叫びながら襲撃者は全力で走り去ったが、十兵衛はあえて追わず、
「何やら面倒な事に巻き込まれておるようだのう…」
脇差しを鞘に収めながら、苦りきった顔で呟いた。
戻りの道で十兵衛は襲撃者の言っていた吉野太夫の事を考えていたが、『手を引け』と言われるような身に覚えは、いくら考えても無い。
十兵衛と吉野太夫との縁は、先代である二代目吉野太夫に筆下ろしをしてもらったところから始まる。
本来ならば当時十三歳の裕福でもない旗本の倅 の十兵衛ごときが呼べる相手ではなかったが、城勤めを始める祝いに撫子の両親と祖父母が計らってくれたものであった。
当時の吉野は太夫になったばかりの十四歳、歳の近かった二人は床入りそのものはあっさりと済ませ、書や碁の話で意気投合して、十兵衛が江戸へ戻ってからも たまに文を交わす間柄となり、蟄居中の十兵衛は、彼女を揚屋に呼ぶよりも自分が置屋の林家に呼び出される事しばしばで、客ではなく年少の友人、弟のような扱いをされていた。
それもそのはず、この歳まで無位無官の十兵衛よりも太夫の吉野は正五位で身分が上(十万石の大名に相当。昇殿し帝の側に侍る事が出来る身分。いわゆる殿上人)だったのである。
最後に会ったのは十兵衛が二十五歳の時、吉野太夫が二十六歳で身請けされ嫁す直前であった。
蟄居も五年目となっていた十兵衛を、それこそ姉のように心配してくれた事を懐かしく思い出す。
その後は季節時候の挨拶の文を交わす程度の付き合いであったが、それも三年前に途絶えた。
吉野が三十八歳の若さで逝去したのである。
十兵衛は当代の吉野太夫とは面識が無い為、そこで吉野太夫との縁は途絶えており、『手を引け』と言われるような覚えは無かった。
「帰ったぞ」
玄関で十兵衛が声を掛けると、撫子が明らかに不機嫌な様子で出てきた。
「…お帰りなされませ」
「どうした?おまえは ふくれっ面が一番可愛ゆらしくはあるが…」
十兵衛が両の頬を ふにふにと揉むと、撫子は厭わしげに顔をそらして、
「座敷で お客様がお待ちでござりますよ」
と冷たく言ってさっさと奥へ引っ込んでしまった。
不機嫌の原因が来客であるのは間違いなさそうなので、さては女人であろうかと思案しながら十兵衛が座敷に入ると、そこには一人の若いが身なりの良い総髪の優男がいた。
「お待たせ致した。柳生十兵衛である。どこぞで お会いした事があったかな?」
「あい、わてが まだ小童 の時分に」
驚いた事に、男は先代吉野太夫の抱主であった置屋・林家の若旦那であるという。
先の襲撃事件との繋りを詳しく話を聞くために、まずは何か誤解をしているであろう撫子を呼ぶ事にした。
「お呼びでござりましょうか?」
変わらぬ ふくれっ面で撫子が座敷に来ると、十兵衛は隣に座らせて、
「これは おれの妻で撫子という。同席させるがかまわぬな?」
と言った。
「それはもう。撫子様でっか。野に咲く花とも思えぬ お美しさですなぁ」
さすが女抱えの商売だけあって臆面も無くさらりと褒めた林家に、いつもになく頬を染めた撫子を見て十兵衛は少し心がザラリとしたが、それを抑えて訪問の目的をたずねた。
「わては林家の新左衛門どす。うちの吉野太夫が明日 、柳生十兵衛様にお会いしたいと言われとおりやす。必ず返事をいただいて来るよう言いつけられとおりやして、無礼は承知で待たせてもらいましてん」
吉野太夫の名が出たせいで撫子がピリッとしたのを感じて十兵衛は、
「おぬし、昔は たしか吾子 と言うたか?会いたいと言われても、おれは当代の吉野太夫は知らぬぞ。先程も『吉野太夫から手を引け』という男に会うたが、とんと身に覚えが無くて どうしたものかと思うておった」
と、答えたのを受けて新左衛門は食い下がった。
「へえ、その吾子で。覚えておいやしたか。当代は先代の禿だったのどす。お会いすればきっとわかります。その、手を引け言われはった事も太夫の口からお話しがあると思いますよって。どうか明日、林家へご足労願えまへんか?」
十兵衛は煙草に火を点け、のぼる煙をながめて思案しながら撫子を見ると、ますます不機嫌な顔をしている。
「そうだな…。撫子と一緒ならば、招きを受けても良いぞ。妻のある身で女人からの誘いを そう易々と受けるわけにもいくまいて」
「なっ、何をおっしゃりますか!?呼ばれておいでなのは十兵衛様でござりましょう。お一人で参られませ。お戻りになられなくても結構にござりますよ!」
撫子は座敷を出ると無言で頭を下げ、唐紙を閉めた。
「妻の躾がなっておらんで、すまんな。おれのようなジジイに悋気 するようなところが可愛ゆうて、言うて聞かせる気にならんのだ」
さして すまなさそうにも見えぬ顔で十兵衛が言う。
「お気になさらんと。奥方様はああ言うてはりますが…。如何 なもんですやろか」
十兵衛は煙管をくわえ、再び思案した。
何にせよ吉野太夫に会わぬ事には今日の襲撃者が、なぜ十兵衛を襲ったのかも分からず、ともすると撫子や河原家にも塁が及ぶやもしれぬのだ。
「あまり気はすすまぬが、何とか撫子は説き伏せるしかないな。明日、そちらに伺おう」
「ほんまでっか!これで わても太夫に叱られんとすみますわぁ。ほな、明日こちらに 御駕篭を差し回しますよって。よろしゅう おたのもうします」
新左衛門は、あからさまにホッとした様子で平伏すると、意気揚々と引き上げて行った。
玄関で新左衛門を見送った十兵衛が撫子を探すと、台所で夕餉の支度をしていたが、般若のような形相で包丁を振るっていたため、声を掛けることが はばかられ そっと台所を離れた。
「おねいさまは ご一緒じゃないの?」
不満げに言う六丸に十兵衛は、
「まあそう言うな。まだ修行中の身に女人の面会は許されぬでのう。
と言って聞かせた。
大徳寺を出た十兵衛は、荷物持ちに連れてきた
しばらく そうしてウロウロとする内に、十兵衛はフと、前から歩いて来る侍に目を止めた。
どこぞの家中の者とも思えぬが、しかし牢人者とも思えぬ身なりの男と すれ違った直後、そやつが背後から抜き打ちに斬り付けてきたのだった。
ギン!と金属がかち合う耳障りな音が響く。
十兵衛は振り返り、左逆手に抜いた脇差しでそれを受けていた。
「何故わかった…?」
襲撃者の問いに十兵衛は、
「大徳寺を出た時から 気付いておったわ。そのように殺気を放っておっては一里先からでも それと知れるぞ。おれを柳生十兵衛と知っての事であるな?おぬし、何奴だ?最期にせめて、名を聞いてやろうよ」
そう言うと、愛刀・三池典太の
襲撃者は跳びすざり、十兵衛と距離を取ると、
「吉野太夫から手を引け」
と言う。
「は?」
十兵衛は突然の事に面くらった。
「ちょっと待て、吉野太夫から手を引けとは何の事だ?先代はとうに亡く、当代とは…」
「とぼけるな!いいか、吉野太夫からは手を引け!」
と、叫びながら襲撃者は全力で走り去ったが、十兵衛はあえて追わず、
「何やら面倒な事に巻き込まれておるようだのう…」
脇差しを鞘に収めながら、苦りきった顔で呟いた。
戻りの道で十兵衛は襲撃者の言っていた吉野太夫の事を考えていたが、『手を引け』と言われるような身に覚えは、いくら考えても無い。
十兵衛と吉野太夫との縁は、先代である二代目吉野太夫に筆下ろしをしてもらったところから始まる。
本来ならば当時十三歳の裕福でもない旗本の
当時の吉野は太夫になったばかりの十四歳、歳の近かった二人は床入りそのものはあっさりと済ませ、書や碁の話で意気投合して、十兵衛が江戸へ戻ってからも たまに文を交わす間柄となり、蟄居中の十兵衛は、彼女を揚屋に呼ぶよりも自分が置屋の林家に呼び出される事しばしばで、客ではなく年少の友人、弟のような扱いをされていた。
それもそのはず、この歳まで無位無官の十兵衛よりも太夫の吉野は正五位で身分が上(十万石の大名に相当。昇殿し帝の側に侍る事が出来る身分。いわゆる殿上人)だったのである。
最後に会ったのは十兵衛が二十五歳の時、吉野太夫が二十六歳で身請けされ嫁す直前であった。
蟄居も五年目となっていた十兵衛を、それこそ姉のように心配してくれた事を懐かしく思い出す。
その後は季節時候の挨拶の文を交わす程度の付き合いであったが、それも三年前に途絶えた。
吉野が三十八歳の若さで逝去したのである。
十兵衛は当代の吉野太夫とは面識が無い為、そこで吉野太夫との縁は途絶えており、『手を引け』と言われるような覚えは無かった。
「帰ったぞ」
玄関で十兵衛が声を掛けると、撫子が明らかに不機嫌な様子で出てきた。
「…お帰りなされませ」
「どうした?おまえは ふくれっ面が一番可愛ゆらしくはあるが…」
十兵衛が両の頬を ふにふにと揉むと、撫子は厭わしげに顔をそらして、
「座敷で お客様がお待ちでござりますよ」
と冷たく言ってさっさと奥へ引っ込んでしまった。
不機嫌の原因が来客であるのは間違いなさそうなので、さては女人であろうかと思案しながら十兵衛が座敷に入ると、そこには一人の若いが身なりの良い総髪の優男がいた。
「お待たせ致した。柳生十兵衛である。どこぞで お会いした事があったかな?」
「あい、わてが まだ
驚いた事に、男は先代吉野太夫の抱主であった置屋・林家の若旦那であるという。
先の襲撃事件との繋りを詳しく話を聞くために、まずは何か誤解をしているであろう撫子を呼ぶ事にした。
「お呼びでござりましょうか?」
変わらぬ ふくれっ面で撫子が座敷に来ると、十兵衛は隣に座らせて、
「これは おれの妻で撫子という。同席させるがかまわぬな?」
と言った。
「それはもう。撫子様でっか。野に咲く花とも思えぬ お美しさですなぁ」
さすが女抱えの商売だけあって臆面も無くさらりと褒めた林家に、いつもになく頬を染めた撫子を見て十兵衛は少し心がザラリとしたが、それを抑えて訪問の目的をたずねた。
「わては林家の新左衛門どす。うちの吉野太夫が
吉野太夫の名が出たせいで撫子がピリッとしたのを感じて十兵衛は、
「おぬし、昔は たしか
と、答えたのを受けて新左衛門は食い下がった。
「へえ、その吾子で。覚えておいやしたか。当代は先代の禿だったのどす。お会いすればきっとわかります。その、手を引け言われはった事も太夫の口からお話しがあると思いますよって。どうか明日、林家へご足労願えまへんか?」
十兵衛は煙草に火を点け、のぼる煙をながめて思案しながら撫子を見ると、ますます不機嫌な顔をしている。
「そうだな…。撫子と一緒ならば、招きを受けても良いぞ。妻のある身で女人からの誘いを そう易々と受けるわけにもいくまいて」
「なっ、何をおっしゃりますか!?呼ばれておいでなのは十兵衛様でござりましょう。お一人で参られませ。お戻りになられなくても結構にござりますよ!」
撫子は座敷を出ると無言で頭を下げ、唐紙を閉めた。
「妻の躾がなっておらんで、すまんな。おれのようなジジイに
さして すまなさそうにも見えぬ顔で十兵衛が言う。
「お気になさらんと。奥方様はああ言うてはりますが…。
十兵衛は煙管をくわえ、再び思案した。
何にせよ吉野太夫に会わぬ事には今日の襲撃者が、なぜ十兵衛を襲ったのかも分からず、ともすると撫子や河原家にも塁が及ぶやもしれぬのだ。
「あまり気はすすまぬが、何とか撫子は説き伏せるしかないな。明日、そちらに伺おう」
「ほんまでっか!これで わても太夫に叱られんとすみますわぁ。ほな、明日こちらに 御駕篭を差し回しますよって。よろしゅう おたのもうします」
新左衛門は、あからさまにホッとした様子で平伏すると、意気揚々と引き上げて行った。
玄関で新左衛門を見送った十兵衛が撫子を探すと、台所で夕餉の支度をしていたが、般若のような形相で包丁を振るっていたため、声を掛けることが はばかられ そっと台所を離れた。