第39話 女難 其の十七
文字数 2,188文字
林家二階奥の吉野太夫・珠子の寝間では、朝、気分がすぐれないと言っていた珠子が午後の遅い時間になっても夜具の中にいた。何やら枕元に置かれた書状を眺めては置きしながら溜め息をつくのを繰り返している。
まるで恋文であるかのようだが、その表情は険しく とてもそうとは思えない。
その書状の内容も、彼女が何を考えているかも知る術は無いが、なんとも言えない不穏な気配が漂っているのだけは窺えるのであった。
一方、林家の主・与次兵衛の座敷では、十兵衛と撫子が先ほど瀬川から聞いてきた珠子の出自を保証する書き付けを改めていた。
十兵衛が撫子の袖口から こっそりとのぞく善女龍王にチラと視線をやると、こくりと頷いて見せる。
書き付けも、それが納められた家紋入りの筥 も本物であるという事だ。
「あれが兄はんやのうて家人 やったとは……。年が離れとっても兄妹だけあって よう似てはるなと思うたんは、見間違いやったんやな」
ぼやくように与次兵衛は言った。
「幼い子などは、どうとでも見える。昨夜見た浄土井公卿は、確かに太夫と似ておったゆえ、血のつながりは間違い無かろう」
「血のつながりどすか……。今のお話やと、いっそ血のつながりやなんて無かった方がマシどっせ。親には捨てられ、今度は兄が手に掛けようとしてるやなんて、珠子が不憫や」
「そういえば、太夫のお加減は?まだ伏せっておられますのでしょうか?」
朝食の席に来なかった太夫を思い出し、撫子がたずねる。
「さいですわ。あないに気ぃの強 い妓 でも ここのところ いろいろありましたさかい、仕方の無い事やと思うて お座敷も休ませとおりますのや」
「まあ……。それは お気の毒にござります」
「ともあれ、もう日も無い。ちと、やり方を考えねばな。義父上 に お知恵を拝借しようではないか」
あまり気の毒そうにも聞こえぬ声音 で言う妻を十兵衛は苦笑いで促して、与次兵衛の座敷を出た。
「戻ったか。どうであった?」
二階では撫子の父・市朗が煙管をくゆらせながら、のんびりとした様子で膝の上の たらちねの髪を手櫛していた。
「は。善女様に お確かめ いただいたところ……」
水を向けられた善女龍王は、するりと撫子の袖口から這い出て姿を表し、 その腕に巻き付く。
「あの書き付けは間違いなく隆明 の蹟 。あの筥 も、さまざまの物に紋を入れるのが流行っていた頃に作らせた内の一つで、浄土井家の物に相違ない」
それを受けて、十兵衛は市朗に向けて頷いた。
「ほう。善女様がそう仰せならば、おぬしが聞いて来た話に嘘は無いようだな」
「それがしには、あやつが嘘をついておるようには見えませなんだ。すくなくとも、話した事については」
「含みのある言い方をしよるが……」
口からプカリと煙を吐きながら、市朗は探るように十兵衛を見やる。
「おそらく あの瀬川めは、あえて話さなかった事があるように思われます。しかしながら、それは隠したというよりも、話す必要のない類 いのものと考えたのでしょう」
「おぬしは、どう読む」
「 これは あくまでも それがしの私見にてござるが、その瀬川の秘め事が鍵となりそうですな。読みが当たっておれば、面白い事になりましょう」
片えくぼを彫ってニヤリと笑った十兵衛に、市朗も愉快そうにくつくつと笑った。
「面白い事になる、か。おぬしは変わらんな。そういうところが、困ったものであり、好もしいものであり……」
その言葉に十兵衛はフッと表情を弛めると、煙管 に煙草 を詰めながら、腕に巻き付いた善女龍王と楽しげに話している撫子を眺めていた。
『撫子、撫子、これはウチとあんたはんだけの内緒やよ』
『ないしょ?』
『そうや。十 の字 にも教えたらあかんえ』
『十兵衛さまにも?』
「どうして?徳子ねえ……」
撫子は、己の口から出た言葉で目を覚ました。まだ夜中のようで、同衾している十兵衛の寝息の他は何も聞こえない。
ー「ああ、あれは徳子姉の お嫁入り前に、最後に ここへ来た日の夢だわ。あの時、わたくしは何を聞いたのでしたっけ……?」ー
ぼんやりと思い出そうとするも、十兵衛の胸の心地好い温 みに、撫子は再び眠りに落ちて行った。
翌日の午 近く、未 だ伏せっている太夫の代わりに禿達 の琴の稽古を見ていた撫子の耳に、表の方から聞き覚えのある犬の鳴き声が響く。
「え?いえ、まさか そのような……。でも」
禿達に そのまま続けるように言いおき、撫子は表に向かった。
数人の男衆 ・女衆 が困惑した様子で林家の門前に屯 しているのをかき分けて出ると、そこには風呂敷包みを背負った二頭の山犬がいた。
「野分 !追風 !どうしたのです!?」
野分 は大和にいる撫子の祖父母が飼う山犬の つがいの雌。追風 はその娘で、分家である京店に飼われている。
「奥様とこの犬 ぉどすか?良うおした。誰に用やろうと思て包みの中を見してや言いましてんけど、逃げてしまいますのや。よほど大切なもんなんですやろな。賢い犬 らどっせ」
安心した男衆・女衆が三々五々それぞれの仕事に戻って行くと、それまでキリっと お座りをしていた二頭は途端に撫子に飛び付くようにして甘え始めたのであった。
「こーら、野分、追風、お座りなさい。いいから、包みを お見せ!もう!」
もみくちゃにされながらも二頭から包みを取り上げようとしている姿を、散歩がてら菓子など買いに出ていた市朗と たらちねが離れた場所から見ていた事に、撫子は気が付いていなかった。
まるで恋文であるかのようだが、その表情は険しく とてもそうとは思えない。
その書状の内容も、彼女が何を考えているかも知る術は無いが、なんとも言えない不穏な気配が漂っているのだけは窺えるのであった。
一方、林家の主・与次兵衛の座敷では、十兵衛と撫子が先ほど瀬川から聞いてきた珠子の出自を保証する書き付けを改めていた。
十兵衛が撫子の袖口から こっそりとのぞく善女龍王にチラと視線をやると、こくりと頷いて見せる。
書き付けも、それが納められた家紋入りの
「あれが兄はんやのうて
ぼやくように与次兵衛は言った。
「幼い子などは、どうとでも見える。昨夜見た浄土井公卿は、確かに太夫と似ておったゆえ、血のつながりは間違い無かろう」
「血のつながりどすか……。今のお話やと、いっそ血のつながりやなんて無かった方がマシどっせ。親には捨てられ、今度は兄が手に掛けようとしてるやなんて、珠子が不憫や」
「そういえば、太夫のお加減は?まだ伏せっておられますのでしょうか?」
朝食の席に来なかった太夫を思い出し、撫子がたずねる。
「さいですわ。あないに気ぃの
「まあ……。それは お気の毒にござります」
「ともあれ、もう日も無い。ちと、やり方を考えねばな。
あまり気の毒そうにも聞こえぬ
「戻ったか。どうであった?」
二階では撫子の父・市朗が煙管をくゆらせながら、のんびりとした様子で膝の上の たらちねの髪を手櫛していた。
「は。善女様に お確かめ いただいたところ……」
水を向けられた善女龍王は、するりと撫子の袖口から這い出て姿を表し、 その腕に巻き付く。
「あの書き付けは間違いなく
それを受けて、十兵衛は市朗に向けて頷いた。
「ほう。善女様がそう仰せならば、おぬしが聞いて来た話に嘘は無いようだな」
「それがしには、あやつが嘘をついておるようには見えませなんだ。すくなくとも、話した事については」
「含みのある言い方をしよるが……」
口からプカリと煙を吐きながら、市朗は探るように十兵衛を見やる。
「おそらく あの瀬川めは、あえて話さなかった事があるように思われます。しかしながら、それは隠したというよりも、話す必要のない
「おぬしは、どう読む」
「 これは あくまでも それがしの私見にてござるが、その瀬川の秘め事が鍵となりそうですな。読みが当たっておれば、面白い事になりましょう」
片えくぼを彫ってニヤリと笑った十兵衛に、市朗も愉快そうにくつくつと笑った。
「面白い事になる、か。おぬしは変わらんな。そういうところが、困ったものであり、好もしいものであり……」
その言葉に十兵衛はフッと表情を弛めると、
『撫子、撫子、これはウチとあんたはんだけの内緒やよ』
『ないしょ?』
『そうや。
『十兵衛さまにも?』
「どうして?徳子ねえ……」
撫子は、己の口から出た言葉で目を覚ました。まだ夜中のようで、同衾している十兵衛の寝息の他は何も聞こえない。
ー「ああ、あれは徳子姉の お嫁入り前に、最後に ここへ来た日の夢だわ。あの時、わたくしは何を聞いたのでしたっけ……?」ー
ぼんやりと思い出そうとするも、十兵衛の胸の心地好い
翌日の
「え?いえ、まさか そのような……。でも」
禿達に そのまま続けるように言いおき、撫子は表に向かった。
数人の
「
「奥様とこの
安心した男衆・女衆が三々五々それぞれの仕事に戻って行くと、それまでキリっと お座りをしていた二頭は途端に撫子に飛び付くようにして甘え始めたのであった。
「こーら、野分、追風、お座りなさい。いいから、包みを お見せ!もう!」
もみくちゃにされながらも二頭から包みを取り上げようとしている姿を、散歩がてら菓子など買いに出ていた市朗と たらちねが離れた場所から見ていた事に、撫子は気が付いていなかった。