第7話 花発多風雨 ―はながひらけば―
文字数 3,938文字
「お母様、撫子にござります」
「こちらへ」
母・すず に呼ばれて、その居室へ来た撫子は、少し緊張していた。
なぜなら、座敷ではなく こちらの部屋へ呼ばれる時は、何かがある。
前回は春画を見せられたのだが、そのように他の家族にも憚られるような話がある時に、ここへ呼ばれるからだ。
すず は何やら書状を手にして、向かいに座った撫子にこう言った。
「まだ御名は伏せられてありますが、三十万石の大名家から おまえを ご側室にというお話が出ているそうです。以前に ご身分を隠されての当家ご滞在の折に、おまえが屏風の蔭からご披露した琴の音に、お殿様はいたく心を動かされたそうですよ」
「はぁ…」
「何ですか、その返事は」
「お母様、何と言われましても、撫子は十兵衛様以外の方の元へ参るつもりはござりませぬ」
「その十兵衛様は、おまえなど見てはおられませぬよ。ご正室様とお二人の御息女様がおられます。妹同様に心に留めてくだされた事を、心得違いしてはなりませぬ」
この時の母すずは、まだ自分の父と夫が十兵衛と話した内容を知らなかった。
ただ、何も進展しなさそうな二人を見ていて、母として撫子を喪いたくない一心で、何としても十兵衛の事を諦めさせなければと、それだけだったのだ。
「大大名家のご側室など、望んでなれるものではありませぬよ。おまえの幸せの為です。十兵衛様でなければ死ぬだなどと、そんな浄瑠璃のような…」
撫子の白い顔が、更に色を無くした。
「お母様、なぜそれを…?」
自分がうっかり口を滑らせてしまった事に気がつき、すずは みるみる蒼白になっていく。
「まさか、私の日記を、盗み見られたのですか!?」
撫子の見開いた目から涙がこぼれ落ちる。
「な、撫子…、母は、ただ、おまえが心配で…」
「大名様のご側室になるのが、幸せですか?ならばなぜ、お母様は、但馬守様の、十兵衛様のお父上様のご側室の話を、お断りになったのですか?」
すずは、心の臓が凍りつくような心地だった。
「あ…、」
言葉も出なかった。
かつて、自分が市朗とまだ恋仲であった頃、十兵衛の父・柳生但馬守から側室にと望まれ、それを断り市朗とむすばれたのだ。
それなのに、娘には恋を捨てて、見も知らぬ大名の側室になれと言う自分の愚かしさに気づく。
「お母様が但馬守様の ご側室だったら、私は十兵衛様の本当の妹だったはず。それならば、あの方を恋うる事など、無かったのに…」
部屋を出て行く撫子に、すずは言葉を掛ける事も、追う事も出来なかった。
離れの十兵衛は、撫子の言い付けどおり、起きて煙草をくゆらせていた。
流れる煙を眺めながら、髪を結わせる時に、ねだり事はないか ゆっくり聞きだそう、碁を打っていた時に聴こえていた曲は何といったか、おれの事も、本当はどう思っているのか、撫子の口からちゃんと聞かねば…などと、とりとめの無いことをボンヤリと考えながら。
その時、何やら にわかに騒がしくなり、廊下をバタバタと走って来る音が聞こえたと思うと、
「十兵衛様!」
離れに駆け込んで来たのは、すず であった。
すず を追いかけて来たものか、遅れて市朗も。
錯乱した様子で十兵衛にすがりついた すずは
「十兵衛様、これは罰なのですか?母上様を亡くされて、お心を失った あなたさまを見捨てて逃げた、私への罰なのですか…?」
そう言うと、そのまま泣き崩れてしまった。
「姉や、どうしたというのだ?落ち着いて話せ」
ただ事では無い様子に、十兵衛は優しく問いかける。
「撫子が、撫子が…」
すずは、混乱した様子ながらも話し始め、十兵衛も根気よく聞いた。
撫子が十六歳の年から次々に縁談が舞い込むようになったが、それと同時に、家業の手伝いや習い事はこなすものの、しだいに感情を表に出さなくなり、人形のようになっていった事、それを心配して盗み見た日記に、二十歳の間までに十兵衛様と結ばれなければ、死のうと思っていると書いてあった事…。
「この度、十兵衛様がこちらに お越しくだされ、撫子は以前のあの子に戻ったようでした。しかしながら…」
十兵衛様には奥方様と御子様方がおられ、身分も違う。
何より十兵衛様に その気が見受けられないご様子であり、諦めて三十万石の お大名の側室にというお話を受けるよう言った。
ところが…。
「あの子はきっと、虫干しの時に、蔵の中にあった おりん様からの手紙を見たのでしょう。あの中に、但馬守様のご側室のお話を おりん様から断っていただいた件に触れた物があったはずです。私が、但馬様の側室に入っていれば、撫子は腹違いであっても十兵衛様のまことの妹、恋などせずに済んだものをと、泣いておりました」
話しながら、すず もまた激しくむせび泣く。
市朗は すず の背をさすってやりながら、これも目に涙を浮かべていた。
「姉や、さっき 『罰なのか?』と、おれに聞いたのう?」
「それは…」
十兵衛の母・おりん様が亡くなられた時の十兵衛は、まるで自らも死んだように、茫然となっていた。
まだ母恋しい十二歳の子供で、それも当然であろう。
すずは、生まれた時から世話をした十兵衛のその姿に心を痛めた。
但馬守は、そこに つけこもうとしたのだ。
『すず、七郎の母になっては貰えまいか?』― 七郎とは、元服前の十兵衛の名である。
「私は十兵衛様のご様子に後ろ髪引かれながらも、但馬守様のご執着が恐ろしくて、あの小さな、お可哀想な十兵衛様を捨てて、この大和へ逃げ帰って来たのでござります。それなのに…」
すずは十兵衛の前に平伏した。
「十兵衛様、すずの一期の願いでござります。どうか、ただの一夜だけでも、撫子をあなた様の妻としてはいただけませぬでしょうか?この三年の間、意に染まぬ縁を勧め続けた母に失望し、あの子は花が枯れるように、少しずつ死に続けていたのでござりましょう。このままでは、私が愚かな母であったばかりに、私共は本当にあの子を喪ってしまいます。どうか、どうか…」
十兵衛の足元にすがりつき、すずは泣き崩れてしまった。
「あー、姉やよ、それは違うぞ。」
この、ある意味 修羅場にそぐわないノホホンとした調子で十兵衛が言う。
「おれは姉やに母になって欲しいなどと、一度も思った事は無い。そうであろう?兄や」
「はい、十兵衛様から、すず どころか御母上様代わりに誰かを望むお言葉は、一度も」
「そういう訳だ。母上とおれの別れは、おれ達二人だけの間の事であって、他の誰にも関わりはござらん。たとえ父上であっても、だ。だから姉やは気にするな。父上はな、他の奥女中にも同じ事を言って、母上が亡くなって一年と経たぬ内に妹が生まれておるよ」
すず にとって、これは初耳である。
「後な、平たく言うと、おれの妻子は父上の妾と子だ。詳しくは兄やに聞いてくれ。な?あんな助平ジジイの事など、気にしなくて良いのだ」
色々とありすぎて、すず の涙は引っ込んでしまった。
「姉や、気を揉ませてしまって悪かったな。おれの腹は もう決まっている。しかし、まだ撫子とそのような話が出来ておらなんだ。当の撫子が、幼い頃の約束は別にして、今の おれと どうなりたいのかを確かめねばなるまいて。兄やと姉やには、その後で お許しをいただこうと思うておったのだが…、何やら 済まぬのう」
「そのような お考えであられたとは、存じませぬでした…」
「兄やとは、ついさっき話しておったのだがな」
十兵衛は片えくぼを彫ってチラと市朗を見た。
「申し訳もございませぬ。突然、すずが自室から泣きながら駆け出てきたので、某も何が何やら」
市朗が頭をかく。
「さて」
十兵衛が灰吹きに煙管の灰を落とすと、やおら立ち上がり、
「皆が気を揉んでおるようだし、まずは撫子と話をしてみるか。母屋におるのかえ?」
「それが、見当たりませぬもので、今、家内を照葉に、外を長七郎にさがさせております」
「そうか。では おれも一緒にさがそうよ」
そう言って、十兵衛は愛刀を帯に差し、一同と共に母屋へ向かった。
ちょうど戻った長七郎と廊下で行き合ったが、撫子は見つからなかったと言う。
照葉や ばあやも、家内には見当たらぬと言い、皆の中に、にわかに緊張が走る。
河原家のような、町人といえど上層家庭の年頃になった娘が、供も連れずに外に出るというのは通常では考えられないが、この宿場で河原家の一人娘を害そうなどという者はいなかった為、撫子は気軽に出掛けてしまう事がよくあるのだ。
以前は それでも良かったのだが、今はそうもいかない。
撫子の娘組の仲間である、おしま に狼藉を働いたケダモノどもが、この宿場を うろついている。
宿場を運営している河原家以下、長者や年寄連中で対応を話し合っている最中の事であり、若い娘に限らず用心するよう触れが回してあったのだった。
―そこへ、
「おじさん、おばさん、大変!」
勝手口から、髪を振り乱し息も切れ切れに、茶店の娘お蔦が飛び込んできた。
「お蔦か!?どうした?」
「ああっ!十兵衛様、撫子ちゃんが、撫子ちゃんが…」
お蔦が手にした下駄を見て、皆が凍りついたようになった。
「さっき、撫子ちゃんが、うちの前を通って、乳神様に、お詣りに行ったの」
息を継ぎながら、お蔦が話す。
「いつもより、遅かったから、見に行こうとしたら、言い合いするような、声が。走ったけど、もう誰もいなくて、これだけ…」
お蔦は下駄を差し出した。
撫子が普段履きしている下駄であった。
「絶対あいつらよ!亀屋の又吉!撫子ちゃんを狙ってたもの!十兵衛様、撫子ちゃんを」
「居場所に、心当たりはあるか?」
驚くほど低く静かな声で、十兵衛が聞く。
「西の外れのお寺、無住になっております。あいつら、いつも そこに…」
「蔦、礼を言うぞ」
十兵衛は、音もなく、風のように走り出た。
「こちらへ」
母・すず に呼ばれて、その居室へ来た撫子は、少し緊張していた。
なぜなら、座敷ではなく こちらの部屋へ呼ばれる時は、何かがある。
前回は春画を見せられたのだが、そのように他の家族にも憚られるような話がある時に、ここへ呼ばれるからだ。
すず は何やら書状を手にして、向かいに座った撫子にこう言った。
「まだ御名は伏せられてありますが、三十万石の大名家から おまえを ご側室にというお話が出ているそうです。以前に ご身分を隠されての当家ご滞在の折に、おまえが屏風の蔭からご披露した琴の音に、お殿様はいたく心を動かされたそうですよ」
「はぁ…」
「何ですか、その返事は」
「お母様、何と言われましても、撫子は十兵衛様以外の方の元へ参るつもりはござりませぬ」
「その十兵衛様は、おまえなど見てはおられませぬよ。ご正室様とお二人の御息女様がおられます。妹同様に心に留めてくだされた事を、心得違いしてはなりませぬ」
この時の母すずは、まだ自分の父と夫が十兵衛と話した内容を知らなかった。
ただ、何も進展しなさそうな二人を見ていて、母として撫子を喪いたくない一心で、何としても十兵衛の事を諦めさせなければと、それだけだったのだ。
「大大名家のご側室など、望んでなれるものではありませぬよ。おまえの幸せの為です。十兵衛様でなければ死ぬだなどと、そんな浄瑠璃のような…」
撫子の白い顔が、更に色を無くした。
「お母様、なぜそれを…?」
自分がうっかり口を滑らせてしまった事に気がつき、すずは みるみる蒼白になっていく。
「まさか、私の日記を、盗み見られたのですか!?」
撫子の見開いた目から涙がこぼれ落ちる。
「な、撫子…、母は、ただ、おまえが心配で…」
「大名様のご側室になるのが、幸せですか?ならばなぜ、お母様は、但馬守様の、十兵衛様のお父上様のご側室の話を、お断りになったのですか?」
すずは、心の臓が凍りつくような心地だった。
「あ…、」
言葉も出なかった。
かつて、自分が市朗とまだ恋仲であった頃、十兵衛の父・柳生但馬守から側室にと望まれ、それを断り市朗とむすばれたのだ。
それなのに、娘には恋を捨てて、見も知らぬ大名の側室になれと言う自分の愚かしさに気づく。
「お母様が但馬守様の ご側室だったら、私は十兵衛様の本当の妹だったはず。それならば、あの方を恋うる事など、無かったのに…」
部屋を出て行く撫子に、すずは言葉を掛ける事も、追う事も出来なかった。
離れの十兵衛は、撫子の言い付けどおり、起きて煙草をくゆらせていた。
流れる煙を眺めながら、髪を結わせる時に、ねだり事はないか ゆっくり聞きだそう、碁を打っていた時に聴こえていた曲は何といったか、おれの事も、本当はどう思っているのか、撫子の口からちゃんと聞かねば…などと、とりとめの無いことをボンヤリと考えながら。
その時、何やら にわかに騒がしくなり、廊下をバタバタと走って来る音が聞こえたと思うと、
「十兵衛様!」
離れに駆け込んで来たのは、すず であった。
すず を追いかけて来たものか、遅れて市朗も。
錯乱した様子で十兵衛にすがりついた すずは
「十兵衛様、これは罰なのですか?母上様を亡くされて、お心を失った あなたさまを見捨てて逃げた、私への罰なのですか…?」
そう言うと、そのまま泣き崩れてしまった。
「姉や、どうしたというのだ?落ち着いて話せ」
ただ事では無い様子に、十兵衛は優しく問いかける。
「撫子が、撫子が…」
すずは、混乱した様子ながらも話し始め、十兵衛も根気よく聞いた。
撫子が十六歳の年から次々に縁談が舞い込むようになったが、それと同時に、家業の手伝いや習い事はこなすものの、しだいに感情を表に出さなくなり、人形のようになっていった事、それを心配して盗み見た日記に、二十歳の間までに十兵衛様と結ばれなければ、死のうと思っていると書いてあった事…。
「この度、十兵衛様がこちらに お越しくだされ、撫子は以前のあの子に戻ったようでした。しかしながら…」
十兵衛様には奥方様と御子様方がおられ、身分も違う。
何より十兵衛様に その気が見受けられないご様子であり、諦めて三十万石の お大名の側室にというお話を受けるよう言った。
ところが…。
「あの子はきっと、虫干しの時に、蔵の中にあった おりん様からの手紙を見たのでしょう。あの中に、但馬守様のご側室のお話を おりん様から断っていただいた件に触れた物があったはずです。私が、但馬様の側室に入っていれば、撫子は腹違いであっても十兵衛様のまことの妹、恋などせずに済んだものをと、泣いておりました」
話しながら、すず もまた激しくむせび泣く。
市朗は すず の背をさすってやりながら、これも目に涙を浮かべていた。
「姉や、さっき 『罰なのか?』と、おれに聞いたのう?」
「それは…」
十兵衛の母・おりん様が亡くなられた時の十兵衛は、まるで自らも死んだように、茫然となっていた。
まだ母恋しい十二歳の子供で、それも当然であろう。
すずは、生まれた時から世話をした十兵衛のその姿に心を痛めた。
但馬守は、そこに つけこもうとしたのだ。
『すず、七郎の母になっては貰えまいか?』― 七郎とは、元服前の十兵衛の名である。
「私は十兵衛様のご様子に後ろ髪引かれながらも、但馬守様のご執着が恐ろしくて、あの小さな、お可哀想な十兵衛様を捨てて、この大和へ逃げ帰って来たのでござります。それなのに…」
すずは十兵衛の前に平伏した。
「十兵衛様、すずの一期の願いでござります。どうか、ただの一夜だけでも、撫子をあなた様の妻としてはいただけませぬでしょうか?この三年の間、意に染まぬ縁を勧め続けた母に失望し、あの子は花が枯れるように、少しずつ死に続けていたのでござりましょう。このままでは、私が愚かな母であったばかりに、私共は本当にあの子を喪ってしまいます。どうか、どうか…」
十兵衛の足元にすがりつき、すずは泣き崩れてしまった。
「あー、姉やよ、それは違うぞ。」
この、ある意味 修羅場にそぐわないノホホンとした調子で十兵衛が言う。
「おれは姉やに母になって欲しいなどと、一度も思った事は無い。そうであろう?兄や」
「はい、十兵衛様から、すず どころか御母上様代わりに誰かを望むお言葉は、一度も」
「そういう訳だ。母上とおれの別れは、おれ達二人だけの間の事であって、他の誰にも関わりはござらん。たとえ父上であっても、だ。だから姉やは気にするな。父上はな、他の奥女中にも同じ事を言って、母上が亡くなって一年と経たぬ内に妹が生まれておるよ」
すず にとって、これは初耳である。
「後な、平たく言うと、おれの妻子は父上の妾と子だ。詳しくは兄やに聞いてくれ。な?あんな助平ジジイの事など、気にしなくて良いのだ」
色々とありすぎて、すず の涙は引っ込んでしまった。
「姉や、気を揉ませてしまって悪かったな。おれの腹は もう決まっている。しかし、まだ撫子とそのような話が出来ておらなんだ。当の撫子が、幼い頃の約束は別にして、今の おれと どうなりたいのかを確かめねばなるまいて。兄やと姉やには、その後で お許しをいただこうと思うておったのだが…、何やら 済まぬのう」
「そのような お考えであられたとは、存じませぬでした…」
「兄やとは、ついさっき話しておったのだがな」
十兵衛は片えくぼを彫ってチラと市朗を見た。
「申し訳もございませぬ。突然、すずが自室から泣きながら駆け出てきたので、某も何が何やら」
市朗が頭をかく。
「さて」
十兵衛が灰吹きに煙管の灰を落とすと、やおら立ち上がり、
「皆が気を揉んでおるようだし、まずは撫子と話をしてみるか。母屋におるのかえ?」
「それが、見当たりませぬもので、今、家内を照葉に、外を長七郎にさがさせております」
「そうか。では おれも一緒にさがそうよ」
そう言って、十兵衛は愛刀を帯に差し、一同と共に母屋へ向かった。
ちょうど戻った長七郎と廊下で行き合ったが、撫子は見つからなかったと言う。
照葉や ばあやも、家内には見当たらぬと言い、皆の中に、にわかに緊張が走る。
河原家のような、町人といえど上層家庭の年頃になった娘が、供も連れずに外に出るというのは通常では考えられないが、この宿場で河原家の一人娘を害そうなどという者はいなかった為、撫子は気軽に出掛けてしまう事がよくあるのだ。
以前は それでも良かったのだが、今はそうもいかない。
撫子の娘組の仲間である、おしま に狼藉を働いたケダモノどもが、この宿場を うろついている。
宿場を運営している河原家以下、長者や年寄連中で対応を話し合っている最中の事であり、若い娘に限らず用心するよう触れが回してあったのだった。
―そこへ、
「おじさん、おばさん、大変!」
勝手口から、髪を振り乱し息も切れ切れに、茶店の娘お蔦が飛び込んできた。
「お蔦か!?どうした?」
「ああっ!十兵衛様、撫子ちゃんが、撫子ちゃんが…」
お蔦が手にした下駄を見て、皆が凍りついたようになった。
「さっき、撫子ちゃんが、うちの前を通って、乳神様に、お詣りに行ったの」
息を継ぎながら、お蔦が話す。
「いつもより、遅かったから、見に行こうとしたら、言い合いするような、声が。走ったけど、もう誰もいなくて、これだけ…」
お蔦は下駄を差し出した。
撫子が普段履きしている下駄であった。
「絶対あいつらよ!亀屋の又吉!撫子ちゃんを狙ってたもの!十兵衛様、撫子ちゃんを」
「居場所に、心当たりはあるか?」
驚くほど低く静かな声で、十兵衛が聞く。
「西の外れのお寺、無住になっております。あいつら、いつも そこに…」
「蔦、礼を言うぞ」
十兵衛は、音もなく、風のように走り出た。