第8話 緑林白波

文字数 3,582文字

  時は少し前にさかのぼる。
撫子は母との言い合いで、少し言い過ぎた事を反省し、頭を冷やそうと外へ出た。
特に目的もなかったが、今日はまだ、乳神様にお詣りしていなかった事を思いだしたので、お詣りと仲良しの茶店の蔦の顔を見に行く事にした。
もうすぐ、お蔦は幼馴染みの三太と所帯を持って、二人で三太の親の煙草屋を継ぐのだ。
所帯を持てば、舅姑の手前、今までのように気軽に遊ぶ事は出来なくなる。
その事を思いながら茶店の中をのぞき込むと、ちょうど お蔦がいた。
「お蔦ちゃん、お詣りしてから すぐ来るね。三太のノロケでも聞かせなさいよ」
「おや撫子ちゃんじゃないか。体がうずいて寝らんなくなるような話を、聞かしてあげるよ」
と、お互いに おどけて言う。
茶店の横の道を入って行く撫子は、贈り物は何が良いかなど考えていて、自分の後をつけている気配に気付けていなかった。
祠に手を合わせ、
「お蔦ちゃんと三太に、早く可愛い ややこが授かりますように」
と、願っていると、背後でパキッと音がする。
明らかに、人が落ちている枯れ枝などを踏んだ重さのある音だ。
しかし、怪しい事に足音がしない。
撫子は祠に手を合わせたまま、気付かないふりをして気配をうかがっていた。
他の参拝者と考えるには、明らかにおかしい挙動だからだ。
すると、むこうが しびれを切らした。
「よう、撫子。今日は犬も片目の用心棒もいないのか?」
下卑た笑いを含んだ耳障りな声―亀屋の又吉であった。
撫子は返事もしなければ、振り返りもしない。
無視を決め込まれ、カッとなった又吉が撫子の肩に手をかけ振り向かせた。
又吉の向こうに、七、八人のゴロツキ仲間の姿もある。
撫子は依然として無言で、美しい顔の眉間を厭わしげに寄せ、自分の肩を掴んだ手を見て、
「あの御方は用心棒などではありません。当家の客人で御大身の お旗本でいらっしゃいます。口を慎めゴロツキが」
そう言い放つと、又吉を睨み付けた。
美しさの持つ凄みというものなのか、大の男の又吉は一瞬ひるんだが、仲間の手前 立て直し、
「へえ、じゃあオマエが飯盛り女よろしく、お旗本様のアッチの世話もしてるのか」
と言うと、ゴロツキ仲間からイヒヒ、と、嫌らしい笑い声が湧く。
「世の男が全て自分と同じだと思うておるとは、虫ケラの おつむりは易くて良いわえのう」
と、撫子は冷たく言い放ちながら、お蔦が異変に気付いてくれるまで、なんとか時間を稼ごうと考えていた。
しかし、
「又吉あにい、さっさと連れていこうぜ」
「おう、そうだな。後はむこうでゆっくりと、な」
万事休す、撫子はとっさに下駄を脱ぎ捨てると、
「イヤあぁー、連れて行くって、どーこーにーよー!」
と、謡いで鍛えたのどの大声で叫んだ。
「あ、オ、オマエ何しやがるっ」
又吉が あわてて撫子に当て身を食らわせると、
  ―「お蔦ちゃん、あとは お願いよ」―
そう思った刹那、撫子の意識は薄れた。

十兵衛は走りながら考えた。
最悪の場合には、撫子を汚した連中を全員たたっ斬って、全てを無かった事にして、優しく慰めてやれば良いのだろうが、撫子は自分の身に危急が迫れば舌を噛んで死ぬような女なのである。
  ―「急がねばなるまい」―
前方左手に入ると、漆喰を塗った塀に立派な山門の寺が見えた。
十兵衛が山門の陰に身を滑り込ませ、境内の様子を窺うと、八人の一見して博徒やゴロツキと分かる男達が たむろ している。
全員が帯に短刀や道中差しを挟んでいるが、そんな物は問題ではない。
「又吉アニイが楽しんだ後は、おしま の時みてえに俺らに下げ渡してくれるんだろうな」
「撫子みてえな上玉、おらあ初めてだ」
さして急ぎ足でもなく、ツ、ツ、ツ、― と、山門の陰から十兵衛が出て来て、境内の庭のまん中に立った。
ゴロツキどもがその姿に気付いた時には、幻のように消え、自分達の背に焼けつくような痛みを感じて崩れおちていた。
全員髷が落ちてザンバラ髪になり、帯と着物の背縫いを背の皮ごと、褌の一文字をも斬られてほとんど裸となり、傷みにもんどり打っていた。
骨のある奴が短刀を抜いたが、十兵衛が唐竹割りに斬りおろす愛刀・三池典太の下で、その刀身は真っ二つに割れて落ち、そやつの額からあごにかけて、赤黒いすじがふくれあがってくる。
斬ったのではない。
十兵衛は刀身を返した峰の方で擦りおろしたのだ。
他の奴らの背もそうしたのだが、いずれにせよ、きっさきが走っての凄まじい一撃。
恐ろしい痛みであろう。
痛みでヒイヒイと うめき声を上げるそやつらに一瞥もくれず、十兵衛は戸の閉ざされた本堂に向かった。

  一方、意識を取り戻した撫子は、目を開けずに回りの気配をうかがっていた。
着衣は着ている、手足は縛られているが、それ以外は痛みも無い、人の気配はあるようだが、話し声はしない。
板敷きの床の上に寝かされているようなので、屋内だと思われるが、もう夕刻のはずなのに、瞼を通して光を感じるほどに明るく、熱気が感じられるような暖かさだ。
  ―「ここは何?目を開けてみようかしら?それとも…」―
その時、撫子はフ、と、かすかに自分の頬にかかる生臭い息を感じて戦慄した。
息がかかるような近さで、自分を見ている奴がいるとすれば、今この状況なら又吉をおいて他に無い。
「なあ、撫子。目ェ覚めてるんだろう?なあ?」
下卑た笑いを含んだ、耳障りな声。―又吉である。
撫子が腹を括って目を開けると、又吉は撫子の上に覆い被さるようにしていた。
「白い肌だなあ、良い匂いもするし、こんなにでかい乳の女は、他に見た事ねえよ」
又吉は撫子の首筋に顔を寄せて、犬のようにスンスンと嗅いでいる。
撫子は眉間にシワを寄せ、厭わしげな表情をしているだけであった。
泣いたり叫んだりすれば、この卑劣な男を喜ばせるだけだと分かっていたからだ。
「泣かねえのか?可愛いげねえな。でも、強がってられんのも今の内だけだ。その人を馬鹿にしたような澄ましかえった綺麗な顔を、グチャグチャにしてやるよ」
そう言うと、又吉は撫子の衿に手を掛けた。
  ―「もう、これまで。十兵衛様、お去らばです」―
撫子が自らの舌に歯を当てて、力を込めようとしたその時であった。
落雷にも似た音が響き、又吉が振り返ろうとしたその時にはもう、又吉の髷が はね飛ばされ、外の連中と同じく背をなぞられて、痛みのあまりに何が起きたか理解出来ぬまま、もんどりを打って倒れた又吉の喉ぶえに、十兵衛は剣尖を突きつけていた。
「流れ者であろうとも、大和国におれば名前ぐらい聞いたことはあるだろう。柳生十兵衛だ」
「い゛っやっぎゅ、じゅ、じゅう」
又吉は目を見開いて、歯の根も合わぬほど震えている。
「おれの女に手を出そうとは、なかなか太い奴ではないか。ん?」
十兵衛は隻眼を細めて渋く笑ってはいるが、それだけで人が殺せそうな殺気を纏っていた。
「おれは今まで、心ならずも大勢の人間を斬ってきた。ずいぶんと要らざる殺生を重ねたが、それは必要に迫られての事で、斬りたくて斬った訳ではない。だが今、おれは生まれて始めて、人が斬りたくて斬りたくてしようがない。うぬを なますに斬ってやれば、さぞ心が晴れるだろう。しかし、それはせぬよ。可愛い撫子の目の前で、うぬごときを斬って怯えさせてはいかんのでな。ふふっ」
今にも三池典太の きっさきを、又吉の喉に沈めそうになる自分を落ち着かせるように、十兵衛は息を吐くと、
「時間をくれてやる。今夜中に、外のゴロツキ仲間と一緒に この宿場を去ね。明日の朝 見掛けたら、その場で斬る。どうだ?」
又吉は、震えながらブンブンと顔を振ってうなずき、着衣もほとんど落としながら、這うようにして本堂を出て行った。
「十兵衛様…」
十兵衛は愛刀をパチンと鞘に納めると、撫子に駆け寄り戒めを解いた。
「大丈夫か!?ケガはないか?」
本堂の中はたくさんの百目ろうそくが灯され、昼間のように煌々と明るく、又吉がいかにして撫子を辱しめようとしていたかが見てとれた。
明るい中で見ると、撫子の唇の端に血がにじんでいるのに気がつく。
「きゃつに打たれたのか!?」
いたわしげに見る十兵衛に、撫子は首を振って、
「さっき、もう駄目かと思って舌を噛もうと…。少し切れただけで、もう血は止まっているようでござります」
と、舌を差し出して見せた。
血が止まっているのを確認しようと見ていた十兵衛は、思わず我を忘れてその舌を吸い、唇を重ねる。
十兵衛は撫子を掻き抱き、撫子も十兵衛の首に手を回し、それに応えた。
どれ程そうしていたものか、雨に濡れた蜘蛛の糸を引き、二人の唇が離れた。
「十兵衛様、さっき『おれの女』と…」
撫子は、ウットリと夢でも見ているかのように瞳を潤ませている。
「違うのか?」
「いいえ、違いませぬ」
「うん、では帰ろう。皆が心配しておろう」
十兵衛は撫子を抱き上げて、すっかり暮れた道を戻っていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

柳生十兵衛三巌

主人公

剣豪として知られる柳生家当主で少し助平なイケおじ


河原 撫子

ヒロイン

美人で爆乳で淫らな十兵衛の嫁

柳生但馬守宗矩

故人

主人公・十兵衛の父

助平ジジイ

河原 市朗

ヒロイン・撫子の父

幼少の頃の十兵衛の傅役だった

イケオジィ

河原 すず

ヒロイン・撫子の母

若い頃、十兵衛の母・おりんの方様の侍女だった

ばあや

撫子のばあや

撫子が生まれる前は、すずの侍女だった

徳川家光

三代将軍


お藤

宗矩の側室

六丸の母

柳生 六丸

十兵衛の末弟

宗矩と お藤の子


お蔦

茶店の娘

撫子の幼なじみ


ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み