第13話 白驟雨
文字数 4,184文字
夕刻になり、雨足は さらに強くなったように思えた。
十兵衛と六丸は脇本陣の男湯で、雨音を聞きながら湯を使っている。
どうやら六丸は温泉も初めてらしく、終始キョロキョロと落ち着かない。
生意気ざかりの年頃ではあるが、こういう子供らしさの残るところを、十兵衛は好ましく思い、隻眼を細めて見ている。
「どれ、六丸。兄が背中を流してやろうよ」
「いいよ、自分で出来るから」
「まあそう言うな。共に風呂に入るなど、最初で最後やもしれぬぞ?」
十兵衛がそう言うと、六丸は黙って腰掛けに座した。
糠袋で六丸の背中をこすりながら、十兵衛が切り出す。
「本当は、出家するのは嫌か?」
六丸は黙ったままこたえない。
「嫌なら、そう言うていいのだぞ。何かやりたい事や、なりたいものがあれば、聞かせてくれぬか」
「別に嫌じゃないよ。まあ、したい訳でもないけど、父上が決めてくれた事だから…」
「そうか。よし、もういいぞ」
六丸の小さな背中を洗い終え、十兵衛が立つと
「次は兄上の番だよ。座って」
と、六丸が言う。
十兵衛は驚いた。
―「このような事を言うような奴だったかのう?まさに『男子、三日会わざれば刮目して見よ』だな」―
糠袋を渡し、腰掛けに座した十兵衛に、今度は六丸が問う。
「十兵衛の兄上は、今のままでいいの?江戸へは戻らないの?」
「んん、お目見えとはいえ無位無官の おれが江戸におってもなあ。上様も戻れとは いわれなんだぞ」
十兵衛の広い背を六丸がこする。
兄弟とは言っても、二人の年の差は二十八、こうしていると、まるで親子のようである。
本来ならば、十兵衛は己が子との間に、このような時間があってもおかしくはないのだが、今さら考えても詮方のない事であるのは、自分が一番よくわかっている。
「父上が倒れられた時、十兵衛の兄上に、父上が見舞いは無用だと言われてるって知らせさせたのは、嘘だよ。主膳の兄上が、勝手に…。父上は、兄上に会いたがってた」
「うむ、知っておるよ。父上が病身であられるのを知っていて、なかなか会いにいかなんだのは、他でもない、おれ自身だ。見舞いは無用と言われておっても、もっと行くべきであった、父上と話すべきであったと思うが、今となってはな…。おれは主膳を責めぬよ。あやつはあやつで、悩みも苦しみもあろう」
「主膳の兄上は嫌い。いじわるだから…」
主膳は十兵衛の六つ下の同母弟で、六丸との間は二十二離れており、これもまた親子のような年の差であるが、ウマが合わないといおうか、二人は寄ると触ると争い合う、いわゆる犬猿の仲なのである。
十兵衛は苦笑いした。
「無理に仲良うせよとは言わぬがのう…」
湯壺に入り、十兵衛はあらためて六丸に出家の意志をたずねた。
「本当に良いのだな?」
「うん…」
六丸は京の大徳寺で出家・修行し、いずれ柳生庄に亡父・但馬守が生前に建立した寺院、芳徳寺に、第一世住持として入るというのが、父の遺言である。
「六丸よ、あの芳徳寺はな、おれも会うた事は無いが、おれたち兄弟の爺様である太祖・柳生石舟斎様の供養の為に建てられたのだ。若くして亡くなられた、おれのもう一人の弟、おまえの兄でもある左門どのもあの墓地に眠っておられる。いずれは、おれもだな。その時に、おまえがあの寺におってくれれば、おれは嬉しいのう。ただ、おまえはまだ十二だ。出家するにしても、まだ先でも構わんのだぞ」
本音を言えば十兵衛は、いろいろと思うところがあり、芳徳寺の事も、父の事も、今は考えたくも無いのである。
ただそれは、目の前の異母弟、六丸には関わりの無いことなので、それが顔や声音に出ぬよう気をつけながら、話すほかない。
「私は四男だから、部屋住みの穀潰しだって、主膳の兄上とお圭様が言うの。だから、早く家を出なきゃ、母上がお可哀想だし」
ポツポツと六丸が話し出す事に、十兵衛は驚いた。
―「あやつら…」―
六丸が何かを察したようにあわてて続ける。
「あ、それはどこの家でも一緒だって知ってるから。私には父上が居場所として芳徳寺を作ってくださっただけ良い方でしょ。だから、出家はするよ」
「そうか。しかし、おまえは おれと似ているところが あるからのう。真面目にやるのは無理であろうから…ま、適当にな」
そう言うと十兵衛はニヤリと笑った。
「十兵衛の兄上、母上を頼むね。なんなら、妾にすればいいよ。母上はもう年増だけど、十兵衛の兄上よりは若いし、美人だろ?」
そう言って笑った六丸を、十兵衛はニッコリと笑うと無言で湯壺に沈めた。
一方、女湯では、撫子とお藤が…
「撫子様は、とても お胸が豊かでいらっしゃるのですね」
「そんな、お恥ずかしいです。お藤様、背中だけで大丈夫でござります」
「ご遠慮なさらずに、お可愛らしい方。お肌も お綺麗で…」
撫子は、お藤に背中を流されていた。
「お藤様こそ、とても お美しくていらっしゃります。あの、『お藤の井戸』で名高い、お藤様なのでござりましょう?」
お藤の井戸とは、現在も奈良県奈良市阪原町に存在する井戸で、そこで洗濯をしていた お藤の美貌を、たまたま馬で通りかかった十兵衛の父、柳生但馬守が目にとめ、そのまま連れ去り側室にしたという伝説の残る場所である。
お藤は、意味ありげに、フ、フ、と笑った。
「あの お話を信じておられるのでございますか?撫子様は、本当に お可愛らしい方。たまたま、私が洗濯をしていたところに、たまたま、殿様が通りかかったなんて、絵草紙でもありますまいに…」
「それはそうでござりましょうね」
撫子は薄笑いで答えた。
「私が聞いた話では、美貌を鼻にかけて、『いずれ、お殿様か お大尽様のお側に侍るのだから、働く必要などない』が口癖の怠け者を もて余した親兄弟が、若い娘がお好きな お殿様に差し出した、とか。通りがかりに品定めなされて、お気に召さねば そのまま行き過ぎる手はずに なっていたのでござりましょう?柳生家にお仕えしている私の伯父が、『殿様にも困ったものだ』と、ぼやいておりましたわ」
お藤の表情がひきつる。
撫子はするりと洗い場の腰掛けを立つと、湯壺へ入った。
「お殿様がいなくなったら、新しい お殿様、でござりますか?」
「そうよ、悪いかえ?」
お藤も湯壺へ、撫子の隣に入る。
「よろしいかと存じまする。お好きになされませ。ただし、十兵衛様に狙いをお定めになるのであれば、あの方は私の旦那様にござりますゆえ、それなりのお覚悟を」
撫子は、お藤をじぃっと見つめた。
自分より十ばかりも年下の娘に気圧され、お藤は目を そらすも、負けじと言い返す。
「選ぶのは十兵衛様でございましょう?私に なんの覚悟が要りましょうか」
撫子は、紅い唇を、夢でも見ているかのように、うっとりと開き、言い放った。
「そのような眠たい事をおっしゃりますな。丁半博打でさえ、ツボの中のサイの目を見るためには、先にコマ札を張るものでござりますよ。撫子は、十兵衛様の お心を手に入れるために、自分の命を賭けましてござります。私と十兵衛様の間に割って入ろうというのであれば、お藤様も、ご自分の命か、それ以上のものを お賭けなされませ」
十兵衛がお藤をどうするかに関わらず、狙うのであれば、容赦しないから命がけでこいだなどと、お藤には、割に合わない話である。
「何を―」
バカな事を、と、お藤が言おうとすると、撫子はさえぎるように立ち上がり、湯壺を出た。
脱衣場の壁は天井近くに隙間が作られてあり、隣の男湯の脱衣場から、十兵衛と六丸の話し声が聞こえる。
お藤も脱衣場に上がってきたが、こちらの二人は無言である。
撫子は身繕いを終えると、男湯に声を掛けた。
「十兵衛様、もう上がられまするか?」
「おねいさま!はい、もう上がります」
「まあ、六丸どの。湯冷めされぬよう、気をつけなされませ」
撫子は、お藤に振り向くと、
「六丸どのは お可愛らしうござります。先々が楽しみでござりますね。お藤様にとっては、ご自分の命より大切な お子でござりましょう?」
と言って、脱衣場をあとにした。
お藤には何かが引っ掛かるような気がしてならない。
さっき、撫子は何と言った? ―『ご自分の命か、それ以上のものを お賭けなされませ』『ご自分の命より大切な お子でござりましょう?』
お藤が あわてて脱衣場を飛び出ると、別棟になっている浴場と宿の棟をつなぐ渡り廊下を、十兵衛と撫子、六丸は、すでに少し先を歩いている。
『おねいさま、おねいさま』と、なつこく まとわりついてくる六丸の髪を、撫子は優しくなでてやると、振り向いて お藤に微笑みかけた。
邪気など感じられない、やわらかな笑みであったが、お藤は冷水を浴びせかけられたように、ゾクッと身震いする。
「六丸どの、母上様も こられましたよ」
と、撫子が言うと、六丸がお藤を手招きして、
「母上!早く」
と言うが、お藤は恐ろしくて足が進まずにいる。
その時、撫子が十兵衛に寄りかかった。
「十兵衛様、撫子は何やら少し目まいがいたします」
「おお、それはいかんな。どれ…」
十兵衛は撫子を両手で抱き上げ、
「お藤どの、六丸、お二人も部屋でゆるりと休まれよ。何かあれば、ここの御女中に頼むがよい。では」
と言いおき、先に歩き始めた。
撫子は十兵衛の首に腕を絡めて、その肩越しにお藤を見やる。
お藤は鉛を飲み込んだように、胃の府のあたりに重く冷たいものを感じながら、二人の姿を見送った。
果たして、自分の知る十兵衛という男は、このような男であったか?酒乱で気短かで女好きで粗野な乱暴者ゆえ、嫁取りも許されず、柳生家を継がせるに値するような男では無いと、亡くなられた殿様からは聞かされていた…。
自分は何か、大きな思い違いをしていたのではないか?と、お藤は自分の足元がゆらぐような薄気味の悪さを感じて立ちつくす。
「母上?」
六丸から声をかけられ、ハッと我にかえったお藤は、
「長湯のせいで のぼせてしまったようです。部屋へ戻って休みましょう」
とごまかし、六丸の手をひいた。
激しさを増した雨の帷は、全てを覆い隠すように、降り続いている。
十兵衛と六丸は脇本陣の男湯で、雨音を聞きながら湯を使っている。
どうやら六丸は温泉も初めてらしく、終始キョロキョロと落ち着かない。
生意気ざかりの年頃ではあるが、こういう子供らしさの残るところを、十兵衛は好ましく思い、隻眼を細めて見ている。
「どれ、六丸。兄が背中を流してやろうよ」
「いいよ、自分で出来るから」
「まあそう言うな。共に風呂に入るなど、最初で最後やもしれぬぞ?」
十兵衛がそう言うと、六丸は黙って腰掛けに座した。
糠袋で六丸の背中をこすりながら、十兵衛が切り出す。
「本当は、出家するのは嫌か?」
六丸は黙ったままこたえない。
「嫌なら、そう言うていいのだぞ。何かやりたい事や、なりたいものがあれば、聞かせてくれぬか」
「別に嫌じゃないよ。まあ、したい訳でもないけど、父上が決めてくれた事だから…」
「そうか。よし、もういいぞ」
六丸の小さな背中を洗い終え、十兵衛が立つと
「次は兄上の番だよ。座って」
と、六丸が言う。
十兵衛は驚いた。
―「このような事を言うような奴だったかのう?まさに『男子、三日会わざれば刮目して見よ』だな」―
糠袋を渡し、腰掛けに座した十兵衛に、今度は六丸が問う。
「十兵衛の兄上は、今のままでいいの?江戸へは戻らないの?」
「んん、お目見えとはいえ無位無官の おれが江戸におってもなあ。上様も戻れとは いわれなんだぞ」
十兵衛の広い背を六丸がこする。
兄弟とは言っても、二人の年の差は二十八、こうしていると、まるで親子のようである。
本来ならば、十兵衛は己が子との間に、このような時間があってもおかしくはないのだが、今さら考えても詮方のない事であるのは、自分が一番よくわかっている。
「父上が倒れられた時、十兵衛の兄上に、父上が見舞いは無用だと言われてるって知らせさせたのは、嘘だよ。主膳の兄上が、勝手に…。父上は、兄上に会いたがってた」
「うむ、知っておるよ。父上が病身であられるのを知っていて、なかなか会いにいかなんだのは、他でもない、おれ自身だ。見舞いは無用と言われておっても、もっと行くべきであった、父上と話すべきであったと思うが、今となってはな…。おれは主膳を責めぬよ。あやつはあやつで、悩みも苦しみもあろう」
「主膳の兄上は嫌い。いじわるだから…」
主膳は十兵衛の六つ下の同母弟で、六丸との間は二十二離れており、これもまた親子のような年の差であるが、ウマが合わないといおうか、二人は寄ると触ると争い合う、いわゆる犬猿の仲なのである。
十兵衛は苦笑いした。
「無理に仲良うせよとは言わぬがのう…」
湯壺に入り、十兵衛はあらためて六丸に出家の意志をたずねた。
「本当に良いのだな?」
「うん…」
六丸は京の大徳寺で出家・修行し、いずれ柳生庄に亡父・但馬守が生前に建立した寺院、芳徳寺に、第一世住持として入るというのが、父の遺言である。
「六丸よ、あの芳徳寺はな、おれも会うた事は無いが、おれたち兄弟の爺様である太祖・柳生石舟斎様の供養の為に建てられたのだ。若くして亡くなられた、おれのもう一人の弟、おまえの兄でもある左門どのもあの墓地に眠っておられる。いずれは、おれもだな。その時に、おまえがあの寺におってくれれば、おれは嬉しいのう。ただ、おまえはまだ十二だ。出家するにしても、まだ先でも構わんのだぞ」
本音を言えば十兵衛は、いろいろと思うところがあり、芳徳寺の事も、父の事も、今は考えたくも無いのである。
ただそれは、目の前の異母弟、六丸には関わりの無いことなので、それが顔や声音に出ぬよう気をつけながら、話すほかない。
「私は四男だから、部屋住みの穀潰しだって、主膳の兄上とお圭様が言うの。だから、早く家を出なきゃ、母上がお可哀想だし」
ポツポツと六丸が話し出す事に、十兵衛は驚いた。
―「あやつら…」―
六丸が何かを察したようにあわてて続ける。
「あ、それはどこの家でも一緒だって知ってるから。私には父上が居場所として芳徳寺を作ってくださっただけ良い方でしょ。だから、出家はするよ」
「そうか。しかし、おまえは おれと似ているところが あるからのう。真面目にやるのは無理であろうから…ま、適当にな」
そう言うと十兵衛はニヤリと笑った。
「十兵衛の兄上、母上を頼むね。なんなら、妾にすればいいよ。母上はもう年増だけど、十兵衛の兄上よりは若いし、美人だろ?」
そう言って笑った六丸を、十兵衛はニッコリと笑うと無言で湯壺に沈めた。
一方、女湯では、撫子とお藤が…
「撫子様は、とても お胸が豊かでいらっしゃるのですね」
「そんな、お恥ずかしいです。お藤様、背中だけで大丈夫でござります」
「ご遠慮なさらずに、お可愛らしい方。お肌も お綺麗で…」
撫子は、お藤に背中を流されていた。
「お藤様こそ、とても お美しくていらっしゃります。あの、『お藤の井戸』で名高い、お藤様なのでござりましょう?」
お藤の井戸とは、現在も奈良県奈良市阪原町に存在する井戸で、そこで洗濯をしていた お藤の美貌を、たまたま馬で通りかかった十兵衛の父、柳生但馬守が目にとめ、そのまま連れ去り側室にしたという伝説の残る場所である。
お藤は、意味ありげに、フ、フ、と笑った。
「あの お話を信じておられるのでございますか?撫子様は、本当に お可愛らしい方。たまたま、私が洗濯をしていたところに、たまたま、殿様が通りかかったなんて、絵草紙でもありますまいに…」
「それはそうでござりましょうね」
撫子は薄笑いで答えた。
「私が聞いた話では、美貌を鼻にかけて、『いずれ、お殿様か お大尽様のお側に侍るのだから、働く必要などない』が口癖の怠け者を もて余した親兄弟が、若い娘がお好きな お殿様に差し出した、とか。通りがかりに品定めなされて、お気に召さねば そのまま行き過ぎる手はずに なっていたのでござりましょう?柳生家にお仕えしている私の伯父が、『殿様にも困ったものだ』と、ぼやいておりましたわ」
お藤の表情がひきつる。
撫子はするりと洗い場の腰掛けを立つと、湯壺へ入った。
「お殿様がいなくなったら、新しい お殿様、でござりますか?」
「そうよ、悪いかえ?」
お藤も湯壺へ、撫子の隣に入る。
「よろしいかと存じまする。お好きになされませ。ただし、十兵衛様に狙いをお定めになるのであれば、あの方は私の旦那様にござりますゆえ、それなりのお覚悟を」
撫子は、お藤をじぃっと見つめた。
自分より十ばかりも年下の娘に気圧され、お藤は目を そらすも、負けじと言い返す。
「選ぶのは十兵衛様でございましょう?私に なんの覚悟が要りましょうか」
撫子は、紅い唇を、夢でも見ているかのように、うっとりと開き、言い放った。
「そのような眠たい事をおっしゃりますな。丁半博打でさえ、ツボの中のサイの目を見るためには、先にコマ札を張るものでござりますよ。撫子は、十兵衛様の お心を手に入れるために、自分の命を賭けましてござります。私と十兵衛様の間に割って入ろうというのであれば、お藤様も、ご自分の命か、それ以上のものを お賭けなされませ」
十兵衛がお藤をどうするかに関わらず、狙うのであれば、容赦しないから命がけでこいだなどと、お藤には、割に合わない話である。
「何を―」
バカな事を、と、お藤が言おうとすると、撫子はさえぎるように立ち上がり、湯壺を出た。
脱衣場の壁は天井近くに隙間が作られてあり、隣の男湯の脱衣場から、十兵衛と六丸の話し声が聞こえる。
お藤も脱衣場に上がってきたが、こちらの二人は無言である。
撫子は身繕いを終えると、男湯に声を掛けた。
「十兵衛様、もう上がられまするか?」
「おねいさま!はい、もう上がります」
「まあ、六丸どの。湯冷めされぬよう、気をつけなされませ」
撫子は、お藤に振り向くと、
「六丸どのは お可愛らしうござります。先々が楽しみでござりますね。お藤様にとっては、ご自分の命より大切な お子でござりましょう?」
と言って、脱衣場をあとにした。
お藤には何かが引っ掛かるような気がしてならない。
さっき、撫子は何と言った? ―『ご自分の命か、それ以上のものを お賭けなされませ』『ご自分の命より大切な お子でござりましょう?』
お藤が あわてて脱衣場を飛び出ると、別棟になっている浴場と宿の棟をつなぐ渡り廊下を、十兵衛と撫子、六丸は、すでに少し先を歩いている。
『おねいさま、おねいさま』と、なつこく まとわりついてくる六丸の髪を、撫子は優しくなでてやると、振り向いて お藤に微笑みかけた。
邪気など感じられない、やわらかな笑みであったが、お藤は冷水を浴びせかけられたように、ゾクッと身震いする。
「六丸どの、母上様も こられましたよ」
と、撫子が言うと、六丸がお藤を手招きして、
「母上!早く」
と言うが、お藤は恐ろしくて足が進まずにいる。
その時、撫子が十兵衛に寄りかかった。
「十兵衛様、撫子は何やら少し目まいがいたします」
「おお、それはいかんな。どれ…」
十兵衛は撫子を両手で抱き上げ、
「お藤どの、六丸、お二人も部屋でゆるりと休まれよ。何かあれば、ここの御女中に頼むがよい。では」
と言いおき、先に歩き始めた。
撫子は十兵衛の首に腕を絡めて、その肩越しにお藤を見やる。
お藤は鉛を飲み込んだように、胃の府のあたりに重く冷たいものを感じながら、二人の姿を見送った。
果たして、自分の知る十兵衛という男は、このような男であったか?酒乱で気短かで女好きで粗野な乱暴者ゆえ、嫁取りも許されず、柳生家を継がせるに値するような男では無いと、亡くなられた殿様からは聞かされていた…。
自分は何か、大きな思い違いをしていたのではないか?と、お藤は自分の足元がゆらぐような薄気味の悪さを感じて立ちつくす。
「母上?」
六丸から声をかけられ、ハッと我にかえったお藤は、
「長湯のせいで のぼせてしまったようです。部屋へ戻って休みましょう」
とごまかし、六丸の手をひいた。
激しさを増した雨の帷は、全てを覆い隠すように、降り続いている。