第2話 剣侠、故山へ帰る
文字数 5,472文字
脇本陣・河原家の主人である市朗は入り婿で、元は 石長 市朗という。
市朗の父と兄が柳生家に仕えていた縁で、十兵衛が生まれる年に市朗も十三歳で柳生家へご奉公に上がった。
その同年、河原家の跡取り娘のすずも、十兵衛出産の為に柳生庄へ帰国した但馬守正室おりんの侍女として十二歳で奉公に上がり、二人はそこで出会った。
山に囲まれた田舎の国許で、長子の十兵衛は二人を兄代わり・姉代わりに慕いながらのびのびと育ち、二人もまた主家の幼き嫡男を弟のように愛情を持って慈しみ、教え、世話をした。
後に十兵衛が母おりんと弟達と共に江戸へ上るに当たって、本来ならば国許勤めであった二人は、環境が大きく変わる十兵衛と病弱な自身を不安に思ったおりんの、たっての願いにより同行する事となり、すずは、おりんが亡くなって後に、市朗は十兵衛の元服を見届けてから、それぞれの役目を辞して大和国へ戻り夫婦となったのである。
その時既に二人は二十代半ば過ぎ、当初考えていたよりずっと長い時間を、十兵衛と共にすごしたのであった。
それだけに、十兵衛にとってこの河原家は、柳生屋敷よりも心安き者達のいる、言ってみれば居心地の良い実家のようなものなのだ。
「十兵衛様、お呼びでござりましょうか」
「撫子か。入れ」
河原家の母屋から渡り廊下でつながる離れに、十兵衛は起居していた。
元々は先代夫婦の隠居家として作られたものであったが、老夫婦は別宅を構えてそちらに移ってしまった為、誰も住まう者がなく、十兵衛が蟄居中の約十二年の間たびたび河原家に滞在する際の居室に使用されていた。
今またその離れに、十兵衛が戻って来たのだ。
十兵衛は畳の上にゴロリとうつ伏せに寝転がって、
「腰をもんでくれ。後でこづかいをやろう。あめも買うてやるぞ」
「もう、子供扱いして」
と、撫子がむくれながら十兵衛の腰を揉み始めると
「おおぅ、そこだ。うむ、そこも…」
十兵衛はとろけそうな声をあげる。
「やはり撫子は上手だな。按摩を呼ぶよりずっと良い」
「それはそうでござりましょう。どれだけ十兵衛様のお身体を揉みました事か」
「そうだな。おまえもあの頃よりは大きくなったし、こづかいはちと、はずんでやらねばな」
と、十兵衛は首を後ろにねじ向けてニヤリと笑う。
「では、あめは店ごと買うて下さりませね」
イタズラっぽく言う撫子の声を聞きながら、十兵衛はうとうとと微睡みの中に落ちていった。
『十兵衛さま、いちごを採ってまいりました。いっぱいありますよ』
『足が傷だらけではないか!?』
『いちごのつるのトゲのせいです。でも大丈夫ですよ。痛くありませんから』
『嘘をつけ、洗うてやるからこちらへ来い。いちごの茂みに入ったのか?馬鹿な事を』
『だって十兵衛さま、いちごお好きでしょ?たくさん食べていただきたかったのです』
『それでか。撫子は気立ての良い優しい娘だ。きっといい嫁になるな。そうだ、大きくなったら、この十兵衛が嫁にもろうてやろう』
『本当ですか?』
『おう、本当だとも。ただし、うんと別嬪になって、うんと乳が大きくなったらな』
『うんと別嬪になって、うんと乳が大きくなったら…』
『そうだ、楽しみに待ってるぞ』
『はい。では約束の指切りです』
『何だそれは』
『こうやるのです』
十兵衛は夢とうつつの狭間で遠い昔の約束を思い出していた。
―ああ、そうであった。 確かに約束したのだった。痛みで両の目いっぱいに涙をためながら、痛くない大丈夫だ、と言って笑って見せる姿がいじらしくて…。しかし、あんな戯れ言を真に受けて八年も待っていたというのか?―
どれ位そうしていたものか、十兵衛が撫子を離れに呼んだのは朝餉の後であったのだが、今はすっかり日が高くなっている。
十兵衛がのっそりと身体を起こすと、撫子はすぐ傍らで針仕事をしていた。
「お目覚めでござりますか?ようおやすみでござりました」
夢の続きのような愛らしい笑顔だ。
「ん…。撫子、出掛けよう。あめを買いに行かねばな」
と、十兵衛は隻眼を糸のように細めると、撫子の艶やかな垂髪の頭を子供にするようにワシャワシャと撫で回した。
十兵衛と撫子は宿場内で一番賑やかな街道を並んでそぞろ歩きしていた。
本街道沿いでは無いものの、この宿場は温泉がある為、長逗留する湯治客も多く常に賑わいを見せている。
「ご褒美は、あめよりもお団子にして下さりませ。私とよく遊んでいたお蔦ちゃんを覚えておられますか?あの子のおうちのお団子が、とても美味しいのでござります」
「そうか。会えば思い出すであろうが…」
十兵衛にとって八年ぶりとなるこの宿場は懐かしく、またその歳月の間には店の入れ替わりや普請などもありで見知らぬ景色にも見え、不思議な感じがする。
何よりも、十兵衛の手を引いたり肩車やおんぶをされていた幼子が、今やこの宿場の小町娘なのである。
「よう、撫子」
一軒の旅籠の前を通り掛かった時、店先から馴れ馴れしい調子で声を掛けてきた男がいた。
着ている物や持ち物などの身なりは良く一見若旦那風だが、下卑た薄笑いを浮かべて撫子を舐め回すように見ている様子が、とても堅気の者には見えない。
無視してそのまま通り過ぎようとする撫子の前に、取り巻きの輩どもと一緒に回り込んで来ると、十兵衛の方にアゴをしゃくって、
「なんだァ?お前、脇本陣の用心棒か?」
と、言う。
そう思われるのも無理は無い。
蓬々と伸びた月代、着流しで素足に雪駄履きと、まるで牢人者のごとき姿である。
「なっ」
撫子が口を開こうとするのを、十兵衛が前に出て遮った。
「左様、撫子お嬢様はお年頃なのでな。悪い虫が付いたり野良犬に噛まれたりせぬよう、しかとお護りせよと申し付けられておる」
そう言うと、愛刀・三池典太の柄を拳で一つとんと叩き、隻眼で若旦那風の男を見た。
笑っているのに射抜くような視線と六尺豊かの長身に気圧されたのか、ゴロツキどもはジリジリと道を開けていく。
十兵衛は撫子を抱き寄せると、悠々とその場を後にした。
しばらくして、十兵衛と撫子は一軒の茶店にいた。
「何が撫子お嬢様ですか。変な遊びはおやめ下さりませ」
「んふっ。なかなか面白かったであろう、撫子お嬢様?」
十兵衛は白い歯を見せてからかうように笑うと、一転、表情を厳しくし、
「きゃつは何者だ?」
と、たずねた。
「私に声を掛けてきたのは、あの飯盛旅籠、亀屋のドラ息子又吉にござります。とは言っても、元々は五年ほど前に父親と二人で流れて来た人足でござりました」
「ほう、元は流れ者とな…」
撫子によると、元々は旦那に先立たれた女将が切り盛りする普通の旅籠だったのだが、先の又吉親子が入り込み、女将は父親の方と所帯を持った。
すると、旅籠に飯盛り女を置くようになり、色茶屋や酌婦のいる料理屋と女抱えの商いを拡げていったという事だった。
「ふうん、なるほどな」
無宿人のならず者親子が男日照の未亡人を二人でたらし込んで…という具合だろう。
道理で、この宿場の顔役であるところの河原家の一人娘に平気であのような態度が取れるのだ。
身なりに金を掛けても、気品や教養は金では買えぬ、といったところか。
「撫子よ、おまえも年頃だ。冗談抜きに、野良犬に噛まれぬよう気を付けよ」
そう言うと十兵衛は、煙管を取り出した。
「撫子ちゃん、お待たせっ」
団子を運んで来たのは茶店の娘お蔦、撫子とは幼い頃から仲のいい友達である。
お蔦は十兵衛をみるなり、
「あっ、十兵衛様だ」
と、声を上げた。
「ああ、お蔦か!久しいな。すっかり年頃になって、見違えたぞ」
「あらぁ、もう、ありがとうございますぅ。十兵衛様こそ変わらない男振りですこと」
お蔦は看板娘らしくそつの無い受け答えをすると、声をひそめた。
「撫子ちゃん聞いた?おしまちゃんの事」
「松屋さんのおしまちゃん?何かあったの?」
「最近見かけないでしょう?亀屋の又吉達に手籠めにされて、気が触れてしまったって…」
「ええっ!」
ハッとして口を押さえる撫子は、みるみる顔色を失っていく。
「今は吉野の親類の家にいるって聞いてるわ」
「そんな…」
撫子は沈痛な面持ちで絞り出すように言った。
先刻、絡んで来た事といい、最近は宿場内でもきゃつらに用心するように話が回っていたが、まさか娘組の同輩がそのような目に遭っていようとは知らぬかったのである。
十兵衛はというと、娘二人の話には関心無さげに煙管くわえて、立ち上る煙を眺めている。
奥から呼ばれたお蔦は、
「ちょっとごめんね、ゆっくりしてて」
と、言い置いてパタパタと引っ込んで行った。
十兵衛は煙を輪に吹くと、
「茶が冷めるぞ」
と言い、沈んだ撫子の鼻先に団子を突き付け、
「おまえが気に病んだとて、どうにもなるまい。ホレ、食え」
と、隻眼を笑わせた。
撫子は突き付けられた団子の一番先の一つを噛み取ると、そのまま食べた。
十兵衛は団子が四つになった串を持ってその様子を見ていたが、撫子が団子を飲み込んだのでもう一度串を差し出すと、撫子はまたそのまま二個目を噛み取る。
「なぜ自分で串を持たんのだ?」
く、く、と十兵衛が笑いながら問うと、
「昔みたいに食べさせて下さるのだとばかり。では十兵衛様には私が食べさせて差し上げます。お口を開けて下さりませ」
と、笑いながら団子を十兵衛の口許に持ってきた。
十兵衛はそれを一つ口にすると、
「後はおまえが食べよ。ちゃんと自分で持て」
と、持っていた串を撫子に渡し煙管をくわえた。
不意に、
「あっ!」
撫子が小さく声を上げる。
十兵衛が目を向けると、撫子の口許から団子の甘たれが零れ、衿の開きから胸の谷間へ落ちていくのが見えた。
「やっ」
両手が団子でふさがっており、皿は撫子から手の届かない十兵衛の隣にある。
困り顔で身を捩る撫子の正面に回った十兵衛は、撫子の衿元を少しだけ開き、白い鉢を並べて伏せたような膨らみの間に付いたたれを指で拭い取って舐めると、ニヤリと笑って、
「んふっ、まるで団子のようだの」
などと言いながら、撫子の乳を二、三度つついた。
撫子の頬はさっと紅を掃いたように染まり、衿を直しながら、
「ならば、お召し上がりになればよろしいのに」
と、十兵衛の隻眼をまっすぐに見つめた。
思わぬ反撃に今度は十兵衛の方が熟柿のように赤くなり、目を逸らして頬をぽりぽりと掻いた。
―調子が狂うではないか。―
十兵衛とて木石漢では無い。
自ら放蕩無頼を認める女好きである。
まして今の撫子は十兵衛好みで誂えたように、垂髪にした絹糸の黒髪、白磁の肌、血赤珊瑚の唇と新月の夜の瞳に豊かな乳房を持つ美女ときている。
何のしがらみも無ければ、とっくに新鉢を割っているだろう。
しかし、これは兄・姉と慕う二人の大切な一人娘、十兵衛にとっても妹や娘とも想ってきた相手で、簡単に手を出して良いものではない。
ところが本人は、幼な子のように甘えたりじゃれついて来るかと思えば、フとした時に誘うように女の顔を見せてくる。
撫子は撫子なのだと頭では分かっていても転んでしまいそうな自分に、十兵衛は戸惑っていた。
十兵衛がそんな事を考えているとは露とも知らない撫子は、
「すぐに戻りますから、お待ちになってて下さりませ」
そう言い残し、茶店のすぐ横の小さな道へ入って行った。
「あれぇ、撫子ちゃんは?」
戻ったお蔦に、すぐ脇の道へ入って行った事を告げると、
「ああ、いつもの乳神様詣りか。毎日毎日よく続くもんだわ」
と、笑った。
十兵衛が乳神様とは?と問うと、すぐそこに子授けと乳の出に御利益のある祠があり、撫子は子供の頃から毎日、雨の日も風の日も欠かさずお詣りを続けて来たのだという。
以前お蔦が何の願掛けかたずねたところ、乳が大きくなるように、と答えたのだそうな。
「まー、それを聞いた時は笑っちゃいましたけど、今の撫子ちゃん見たら私も詣っとくんだったと思いますよぅ」
と言ってコロコロと笑う。
十兵衛は、お蔦が昔から人懐こく話し上手な子であった事を思い出していた。
お蔦は一息つくと、
「十兵衛様がまたこの宿場に来られてから、撫子ちゃんが前みたいに笑うようになりました。この三年ほどは物思わしげな様子が増えて、良い縁談が山のように来てるっていうのに、想う人とは添えないから独りでいい。親に孝養を尽くして、後は死ぬまで家で働くって言ってたんです」
でも、と続ける。
「私は、最近の撫子ちゃんは儚げで、神隠しに遭うみたいに突然消えちゃうんじゃないかって思えて、怖かった…」
そして言い難そうに、
「私ら町人と違って、お武家様は色々あるのは知ってます。けど、撫子ちゃんの想い人って」
お蔦は脇道から下駄の音が近付いて来るのに気づき、言葉を切ると小声で、
「つまらぬ話を致しました。お忘れ下さい」
と告げ、脇道から出てきた撫子にいつもの調子で、
「まあた乳神様かい?それ以上でかくなったら引き摺って歩く事になるよぅ」
と冷やかしたのを、撫子は、
「お蔦ちゃんも今からでもお詣りしたら?まだ間に合うかもよ」
と受けた。
そんなやり取りを眺めながら、内心の悩ましさを隠すように十兵衛は煙草をくゆらせた。
市朗の父と兄が柳生家に仕えていた縁で、十兵衛が生まれる年に市朗も十三歳で柳生家へご奉公に上がった。
その同年、河原家の跡取り娘のすずも、十兵衛出産の為に柳生庄へ帰国した但馬守正室おりんの侍女として十二歳で奉公に上がり、二人はそこで出会った。
山に囲まれた田舎の国許で、長子の十兵衛は二人を兄代わり・姉代わりに慕いながらのびのびと育ち、二人もまた主家の幼き嫡男を弟のように愛情を持って慈しみ、教え、世話をした。
後に十兵衛が母おりんと弟達と共に江戸へ上るに当たって、本来ならば国許勤めであった二人は、環境が大きく変わる十兵衛と病弱な自身を不安に思ったおりんの、たっての願いにより同行する事となり、すずは、おりんが亡くなって後に、市朗は十兵衛の元服を見届けてから、それぞれの役目を辞して大和国へ戻り夫婦となったのである。
その時既に二人は二十代半ば過ぎ、当初考えていたよりずっと長い時間を、十兵衛と共にすごしたのであった。
それだけに、十兵衛にとってこの河原家は、柳生屋敷よりも心安き者達のいる、言ってみれば居心地の良い実家のようなものなのだ。
「十兵衛様、お呼びでござりましょうか」
「撫子か。入れ」
河原家の母屋から渡り廊下でつながる離れに、十兵衛は起居していた。
元々は先代夫婦の隠居家として作られたものであったが、老夫婦は別宅を構えてそちらに移ってしまった為、誰も住まう者がなく、十兵衛が蟄居中の約十二年の間たびたび河原家に滞在する際の居室に使用されていた。
今またその離れに、十兵衛が戻って来たのだ。
十兵衛は畳の上にゴロリとうつ伏せに寝転がって、
「腰をもんでくれ。後でこづかいをやろう。あめも買うてやるぞ」
「もう、子供扱いして」
と、撫子がむくれながら十兵衛の腰を揉み始めると
「おおぅ、そこだ。うむ、そこも…」
十兵衛はとろけそうな声をあげる。
「やはり撫子は上手だな。按摩を呼ぶよりずっと良い」
「それはそうでござりましょう。どれだけ十兵衛様のお身体を揉みました事か」
「そうだな。おまえもあの頃よりは大きくなったし、こづかいはちと、はずんでやらねばな」
と、十兵衛は首を後ろにねじ向けてニヤリと笑う。
「では、あめは店ごと買うて下さりませね」
イタズラっぽく言う撫子の声を聞きながら、十兵衛はうとうとと微睡みの中に落ちていった。
『十兵衛さま、いちごを採ってまいりました。いっぱいありますよ』
『足が傷だらけではないか!?』
『いちごのつるのトゲのせいです。でも大丈夫ですよ。痛くありませんから』
『嘘をつけ、洗うてやるからこちらへ来い。いちごの茂みに入ったのか?馬鹿な事を』
『だって十兵衛さま、いちごお好きでしょ?たくさん食べていただきたかったのです』
『それでか。撫子は気立ての良い優しい娘だ。きっといい嫁になるな。そうだ、大きくなったら、この十兵衛が嫁にもろうてやろう』
『本当ですか?』
『おう、本当だとも。ただし、うんと別嬪になって、うんと乳が大きくなったらな』
『うんと別嬪になって、うんと乳が大きくなったら…』
『そうだ、楽しみに待ってるぞ』
『はい。では約束の指切りです』
『何だそれは』
『こうやるのです』
十兵衛は夢とうつつの狭間で遠い昔の約束を思い出していた。
―ああ、そうであった。 確かに約束したのだった。痛みで両の目いっぱいに涙をためながら、痛くない大丈夫だ、と言って笑って見せる姿がいじらしくて…。しかし、あんな戯れ言を真に受けて八年も待っていたというのか?―
どれ位そうしていたものか、十兵衛が撫子を離れに呼んだのは朝餉の後であったのだが、今はすっかり日が高くなっている。
十兵衛がのっそりと身体を起こすと、撫子はすぐ傍らで針仕事をしていた。
「お目覚めでござりますか?ようおやすみでござりました」
夢の続きのような愛らしい笑顔だ。
「ん…。撫子、出掛けよう。あめを買いに行かねばな」
と、十兵衛は隻眼を糸のように細めると、撫子の艶やかな垂髪の頭を子供にするようにワシャワシャと撫で回した。
十兵衛と撫子は宿場内で一番賑やかな街道を並んでそぞろ歩きしていた。
本街道沿いでは無いものの、この宿場は温泉がある為、長逗留する湯治客も多く常に賑わいを見せている。
「ご褒美は、あめよりもお団子にして下さりませ。私とよく遊んでいたお蔦ちゃんを覚えておられますか?あの子のおうちのお団子が、とても美味しいのでござります」
「そうか。会えば思い出すであろうが…」
十兵衛にとって八年ぶりとなるこの宿場は懐かしく、またその歳月の間には店の入れ替わりや普請などもありで見知らぬ景色にも見え、不思議な感じがする。
何よりも、十兵衛の手を引いたり肩車やおんぶをされていた幼子が、今やこの宿場の小町娘なのである。
「よう、撫子」
一軒の旅籠の前を通り掛かった時、店先から馴れ馴れしい調子で声を掛けてきた男がいた。
着ている物や持ち物などの身なりは良く一見若旦那風だが、下卑た薄笑いを浮かべて撫子を舐め回すように見ている様子が、とても堅気の者には見えない。
無視してそのまま通り過ぎようとする撫子の前に、取り巻きの輩どもと一緒に回り込んで来ると、十兵衛の方にアゴをしゃくって、
「なんだァ?お前、脇本陣の用心棒か?」
と、言う。
そう思われるのも無理は無い。
蓬々と伸びた月代、着流しで素足に雪駄履きと、まるで牢人者のごとき姿である。
「なっ」
撫子が口を開こうとするのを、十兵衛が前に出て遮った。
「左様、撫子お嬢様はお年頃なのでな。悪い虫が付いたり野良犬に噛まれたりせぬよう、しかとお護りせよと申し付けられておる」
そう言うと、愛刀・三池典太の柄を拳で一つとんと叩き、隻眼で若旦那風の男を見た。
笑っているのに射抜くような視線と六尺豊かの長身に気圧されたのか、ゴロツキどもはジリジリと道を開けていく。
十兵衛は撫子を抱き寄せると、悠々とその場を後にした。
しばらくして、十兵衛と撫子は一軒の茶店にいた。
「何が撫子お嬢様ですか。変な遊びはおやめ下さりませ」
「んふっ。なかなか面白かったであろう、撫子お嬢様?」
十兵衛は白い歯を見せてからかうように笑うと、一転、表情を厳しくし、
「きゃつは何者だ?」
と、たずねた。
「私に声を掛けてきたのは、あの飯盛旅籠、亀屋のドラ息子又吉にござります。とは言っても、元々は五年ほど前に父親と二人で流れて来た人足でござりました」
「ほう、元は流れ者とな…」
撫子によると、元々は旦那に先立たれた女将が切り盛りする普通の旅籠だったのだが、先の又吉親子が入り込み、女将は父親の方と所帯を持った。
すると、旅籠に飯盛り女を置くようになり、色茶屋や酌婦のいる料理屋と女抱えの商いを拡げていったという事だった。
「ふうん、なるほどな」
無宿人のならず者親子が男日照の未亡人を二人でたらし込んで…という具合だろう。
道理で、この宿場の顔役であるところの河原家の一人娘に平気であのような態度が取れるのだ。
身なりに金を掛けても、気品や教養は金では買えぬ、といったところか。
「撫子よ、おまえも年頃だ。冗談抜きに、野良犬に噛まれぬよう気を付けよ」
そう言うと十兵衛は、煙管を取り出した。
「撫子ちゃん、お待たせっ」
団子を運んで来たのは茶店の娘お蔦、撫子とは幼い頃から仲のいい友達である。
お蔦は十兵衛をみるなり、
「あっ、十兵衛様だ」
と、声を上げた。
「ああ、お蔦か!久しいな。すっかり年頃になって、見違えたぞ」
「あらぁ、もう、ありがとうございますぅ。十兵衛様こそ変わらない男振りですこと」
お蔦は看板娘らしくそつの無い受け答えをすると、声をひそめた。
「撫子ちゃん聞いた?おしまちゃんの事」
「松屋さんのおしまちゃん?何かあったの?」
「最近見かけないでしょう?亀屋の又吉達に手籠めにされて、気が触れてしまったって…」
「ええっ!」
ハッとして口を押さえる撫子は、みるみる顔色を失っていく。
「今は吉野の親類の家にいるって聞いてるわ」
「そんな…」
撫子は沈痛な面持ちで絞り出すように言った。
先刻、絡んで来た事といい、最近は宿場内でもきゃつらに用心するように話が回っていたが、まさか娘組の同輩がそのような目に遭っていようとは知らぬかったのである。
十兵衛はというと、娘二人の話には関心無さげに煙管くわえて、立ち上る煙を眺めている。
奥から呼ばれたお蔦は、
「ちょっとごめんね、ゆっくりしてて」
と、言い置いてパタパタと引っ込んで行った。
十兵衛は煙を輪に吹くと、
「茶が冷めるぞ」
と言い、沈んだ撫子の鼻先に団子を突き付け、
「おまえが気に病んだとて、どうにもなるまい。ホレ、食え」
と、隻眼を笑わせた。
撫子は突き付けられた団子の一番先の一つを噛み取ると、そのまま食べた。
十兵衛は団子が四つになった串を持ってその様子を見ていたが、撫子が団子を飲み込んだのでもう一度串を差し出すと、撫子はまたそのまま二個目を噛み取る。
「なぜ自分で串を持たんのだ?」
く、く、と十兵衛が笑いながら問うと、
「昔みたいに食べさせて下さるのだとばかり。では十兵衛様には私が食べさせて差し上げます。お口を開けて下さりませ」
と、笑いながら団子を十兵衛の口許に持ってきた。
十兵衛はそれを一つ口にすると、
「後はおまえが食べよ。ちゃんと自分で持て」
と、持っていた串を撫子に渡し煙管をくわえた。
不意に、
「あっ!」
撫子が小さく声を上げる。
十兵衛が目を向けると、撫子の口許から団子の甘たれが零れ、衿の開きから胸の谷間へ落ちていくのが見えた。
「やっ」
両手が団子でふさがっており、皿は撫子から手の届かない十兵衛の隣にある。
困り顔で身を捩る撫子の正面に回った十兵衛は、撫子の衿元を少しだけ開き、白い鉢を並べて伏せたような膨らみの間に付いたたれを指で拭い取って舐めると、ニヤリと笑って、
「んふっ、まるで団子のようだの」
などと言いながら、撫子の乳を二、三度つついた。
撫子の頬はさっと紅を掃いたように染まり、衿を直しながら、
「ならば、お召し上がりになればよろしいのに」
と、十兵衛の隻眼をまっすぐに見つめた。
思わぬ反撃に今度は十兵衛の方が熟柿のように赤くなり、目を逸らして頬をぽりぽりと掻いた。
―調子が狂うではないか。―
十兵衛とて木石漢では無い。
自ら放蕩無頼を認める女好きである。
まして今の撫子は十兵衛好みで誂えたように、垂髪にした絹糸の黒髪、白磁の肌、血赤珊瑚の唇と新月の夜の瞳に豊かな乳房を持つ美女ときている。
何のしがらみも無ければ、とっくに新鉢を割っているだろう。
しかし、これは兄・姉と慕う二人の大切な一人娘、十兵衛にとっても妹や娘とも想ってきた相手で、簡単に手を出して良いものではない。
ところが本人は、幼な子のように甘えたりじゃれついて来るかと思えば、フとした時に誘うように女の顔を見せてくる。
撫子は撫子なのだと頭では分かっていても転んでしまいそうな自分に、十兵衛は戸惑っていた。
十兵衛がそんな事を考えているとは露とも知らない撫子は、
「すぐに戻りますから、お待ちになってて下さりませ」
そう言い残し、茶店のすぐ横の小さな道へ入って行った。
「あれぇ、撫子ちゃんは?」
戻ったお蔦に、すぐ脇の道へ入って行った事を告げると、
「ああ、いつもの乳神様詣りか。毎日毎日よく続くもんだわ」
と、笑った。
十兵衛が乳神様とは?と問うと、すぐそこに子授けと乳の出に御利益のある祠があり、撫子は子供の頃から毎日、雨の日も風の日も欠かさずお詣りを続けて来たのだという。
以前お蔦が何の願掛けかたずねたところ、乳が大きくなるように、と答えたのだそうな。
「まー、それを聞いた時は笑っちゃいましたけど、今の撫子ちゃん見たら私も詣っとくんだったと思いますよぅ」
と言ってコロコロと笑う。
十兵衛は、お蔦が昔から人懐こく話し上手な子であった事を思い出していた。
お蔦は一息つくと、
「十兵衛様がまたこの宿場に来られてから、撫子ちゃんが前みたいに笑うようになりました。この三年ほどは物思わしげな様子が増えて、良い縁談が山のように来てるっていうのに、想う人とは添えないから独りでいい。親に孝養を尽くして、後は死ぬまで家で働くって言ってたんです」
でも、と続ける。
「私は、最近の撫子ちゃんは儚げで、神隠しに遭うみたいに突然消えちゃうんじゃないかって思えて、怖かった…」
そして言い難そうに、
「私ら町人と違って、お武家様は色々あるのは知ってます。けど、撫子ちゃんの想い人って」
お蔦は脇道から下駄の音が近付いて来るのに気づき、言葉を切ると小声で、
「つまらぬ話を致しました。お忘れ下さい」
と告げ、脇道から出てきた撫子にいつもの調子で、
「まあた乳神様かい?それ以上でかくなったら引き摺って歩く事になるよぅ」
と冷やかしたのを、撫子は、
「お蔦ちゃんも今からでもお詣りしたら?まだ間に合うかもよ」
と受けた。
そんなやり取りを眺めながら、内心の悩ましさを隠すように十兵衛は煙草をくゆらせた。