第6話 猫の恋歌
文字数 3,392文字
それからしばらく後の母屋の座敷で、十兵衛は 兄や こと主人の市朗と碁を打っていた。
どこからか三味線の音が漏れ聴こえてくる。
「もう無い。おれの負けだ」
と、十兵衛はさして悔しくもなさそうに良いながら、自分の黒石を碁笥に戻す。
「十兵衛様、ずいぶんと お強くなられましたな」
と、市朗は我が子の成長を見たかのように目を細めた。
「いつまでも子供扱いにするなよ」
十兵衛が苦笑いで頬を掻く様子を見ている市朗は、やはり、いくつになっても兄のような気持ちになるのだ。
「十兵衛様、よろしければ某が髪を結いましょうか?」
「撫子に頼んであるぞ。後でか明日か、結うてくれるであろう」
鷹揚に答える十兵衛に、市朗は少し緊張した声音で問う。
「撫子は、粗相無く務めておりますでしょうや?至らぬ事などございませぬか?」
「おう、さすが兄やと姉やの子。働き者で料理も針仕事も上手い。至りすぎるくらいだ」
十兵衛が えくぼを彫って笑うと、市朗はホッとしたような顔を見せた。
「左様でございますか。ところで、もう一局いかかでございましょう?」
これには十兵衛に緊張が走る。
「兄やがそう言う時は、だいたい何やらおれに話がある時…。まあ、大概は説教であったように覚えておるが?んふっ」
「説教だなどと…。そのように思われておられたのならば、某の不徳」
「あー、もう、よせよ。何だ?何の話だ?」
何やらこのままでは、子供の時分に受けた説教を蒸し返されそうな気配を察して、十兵衛はあわてて促した。
「は、十兵衛様は先に撫子が申しておりました、あれを嫁にという話に、思い当たる節はおありで?」
「あったよ。後になって思い出したのだ。あれは蟄居が解ける前の年、江戸での夏稽古に発つ前だったな」
十兵衛は市朗に、思い出した約束を話して聞かせた。
「…うんと美しうなって、うんと乳が大きくなったら、でございますか?」
「うむ。正しくは、うんと別嬪になって、うんと乳が大きくなったら、だ」
市朗は頭を抱えた。
「あなた様は阿呆でございますか?いえ、悪いのは十兵衛様をきちんとお導き出来ぬかった某。今からでも腹切って詫びせねば、と思うほど酷うございます。しかしながら、義父より十兵衛様のお気持ちは聞き及んでおりますゆえ、どうか、撫子の事、宜しくお願い申し上げます」
「のう、兄や。皆は本当に撫子の相手が おれで良いと思うておるのか?おれだったら、自分の娘が おれのような男に惚れておるなどと言い出したら…」
「子に先立たれる不幸の前には、たとい相手があなた様のような男であろうと、そんなものは大事の前の些事でございます」
市朗はさらりと十兵衛をディスったが、いつもの事なので十兵衛は気にしていない。
「そういうものか…。子を持たぬおれには、わからぬものなのであろうな。」
この時、十兵衛の耳には、父・柳生但馬守の言葉が聞こえたような気がした。
―十兵衛、おまえを廃嫡する。おまえに柳生家は継がせぬ―
「十兵衛様?どうなされましたか?」
十兵衛は白昼夢の中から引き戻された。
「ああ、すまん。兄やが説教ばかりするもので、気が遠くなったよ」
と言って、十兵衛は笑ってはぐらかした。
「今、十兵衛様が子を持たぬ、と言われましたので、かねてより伺いたき事があったのを思い出しました。宜しいでしょうか?」
「構わんよ」
市朗は少しばかり姿勢を正し、
「伺いたき事とは、十兵衛様の御正室・秋篠和泉守様ご息女様と、その お子様方の事でございます。義父は和泉守様とお付き合いがあり、何やら知っておるようですが、某共には話してくれませぬ。その…、」
市朗は言い難そうに言葉を切った。
「おれは、その和泉守様にも、おれの御正室様にも、おれの二人の娘にも、会うた事が無い。それで答えになっておるか?」
十兵衛の答えに、市朗は驚愕の中にも―やはり―という表情を隠せずにいる。
「さっき話した九年前の夏稽古で江戸に戻ったら、上屋敷の奥に孕んでる女がいたんだよ。遠目にチラっと見ただけで顔も分からん。どうやらそれが、おれの奥方らしい。その後は見てないから、下屋敷か別邸に移されたのだろうなあ」
「それは、やはり、但馬守様の…」
「まあ、な。和泉守様は父上とご友人であられたようだから、娘御を二年ほど江戸屋敷で行儀見習い という名目で預かって遊ばせて、何なら主膳とご縁を、そうでなければ大名屋敷での奉公という箔を付けて良縁を、ぐらいに考えておられたのだろう。それなのに、よりにもよって父上の手が付いてしまって、和泉守様は大層ご立腹だったらしい」
主膳とは、十兵衛の同腹で六つ下の弟である。
十兵衛は碁笥の中の碁石を弄びながら、どこか遠くを見るように隻眼を細めている。
「事が露見した時には、もう腹は隠しようもない大きさでな。落としどころが、嫡男の正室だったという訳だ。蟄居が解けたのも、そういう事だ」
十兵衛は何という事も無いかのように、落ち着いた低い声で淡々と話しているが、聞いている市朗は、涙が出そうだった。
―「十兵衛様に、時折しみ入るような孤独の陰が見えるのは、そういう訳だったのか…。正室を取る為に蟄居が解けた、という事は、但馬守様との関係の深さから考えても、上様もこの事を御存知だったのだろう。この方は、本当に独りなのだ」―
市朗は十兵衛を抱きしめたいと思ったが、その役目は撫子に頼む事とする。
存外、二人は似合いなのではないかと市朗は思った。
三味線の音をたどると、それは母屋奥の撫子の私室から流れてくる。
「撫子よ、開けても良いか?」
三味の音が途切れ、
「良くありませぬ」
と返事があったが、
「そうか、では入るぞ」
と言って、十兵衛が唐紙を開けると、 撫子が夜具の上に女座りして三味線を抱えている。
まだ湯帷子のままで、乱れた裾の合わせからは、白い脚がヒザまで あらわに 見えた。
「気分がすぐれませぬ、と申しましたでしょう」
「すぐれぬのは機嫌であろう。おれに、おまえの機嫌を取らせてはくれぬか?」
撫子は黙りこくって下を向いている。
「八乳の三味線か…。」
十兵衛は三味線の胴皮に弦を挟んで縦に四つずつ浮かぶ乳首を、上から下へ ツ、ツ、と なでた。
撫子は自分が なでられたかのように、ピクンと肩をすくめ頬を染める。
「どうした?」
「この三味線は、私。私と同じなのでござります」
「…?どういう意味だ?」
それきり、撫子は口を閉ざして何も答えない。
「おまえの三味線は初めて聴いたが、音に艶があって良いな。機嫌が直ったら、おれの為に何か一曲弾いてくれよ」
そう言うと十兵衛は、撫子の頭をポンポンと優しくなでて、部屋を出て行った。
―「こんな可愛げのない女だから、だめなんだ…」―
撫子は にじむ涙を拭って、顔を上げた。
離れに戻る十兵衛は、撫子の事を考えながらニヤついている。
「あいつは可愛ゆらしいのう。ヘソを曲げるとふくれっ面してだんまりとは、構って欲しいのだろうな、甘えん坊め。さて、女人の機嫌を取るには紅か簪か、それとも帯かな?うふっ」
懐手でアゴの無精髭をなでながら、背中がゾクゾクするような、落ち着かないが心地の良い不思議な気分で思案していた。
撫子は、衣桁に掛けた小袖の中から、一番娘らしい華やかな物を身につけて離れに向かった。
十兵衛の髪がまだそのままだったので、髪を結いながら先の態度をさりげなく謝って、三味線も聴いてもらおうと思っていたが、あいにく十兵衛は昼寝中であった為、いつもどおり針仕事などして待つことにした。
しばらくすると女中が離れに来て呼ばわるので、十兵衛は目を覚ました。
「お嬢様、ご内儀様がお呼びにございます」
わざわざ呼びに来るような用とは何だろうと訝りながら、撫子は十兵衛に、戻ったら髪を結うので、出来れば寝ずに待っていてほしいと告げて母屋へ向かった。
撫子を呼びに来た女中は、ついでに離れで使う奈良紙や炭などの補充をしながら、撫子の三味線に目を留める。
「お嬢様ぐらい腕の良い方に弾かれるなら、この猫も三味線になった甲斐があるでしょうね」
「三味線は猫で作るのか?」
十兵衛は、何か動物の皮であるのは知っていたが、猫だとは思っていなかったのだ。
「さようで。まだ生娘の白猫の皮を張るから、成仏出来ずに雄を呼んで、盛り鳴きするような色っぽい音で鳴るんだって、言いますけどねえ」
―この三味線は、私―
十兵衛は撫子の言った言葉の意味が分かったような気がした。
どこからか三味線の音が漏れ聴こえてくる。
「もう無い。おれの負けだ」
と、十兵衛はさして悔しくもなさそうに良いながら、自分の黒石を碁笥に戻す。
「十兵衛様、ずいぶんと お強くなられましたな」
と、市朗は我が子の成長を見たかのように目を細めた。
「いつまでも子供扱いにするなよ」
十兵衛が苦笑いで頬を掻く様子を見ている市朗は、やはり、いくつになっても兄のような気持ちになるのだ。
「十兵衛様、よろしければ某が髪を結いましょうか?」
「撫子に頼んであるぞ。後でか明日か、結うてくれるであろう」
鷹揚に答える十兵衛に、市朗は少し緊張した声音で問う。
「撫子は、粗相無く務めておりますでしょうや?至らぬ事などございませぬか?」
「おう、さすが兄やと姉やの子。働き者で料理も針仕事も上手い。至りすぎるくらいだ」
十兵衛が えくぼを彫って笑うと、市朗はホッとしたような顔を見せた。
「左様でございますか。ところで、もう一局いかかでございましょう?」
これには十兵衛に緊張が走る。
「兄やがそう言う時は、だいたい何やらおれに話がある時…。まあ、大概は説教であったように覚えておるが?んふっ」
「説教だなどと…。そのように思われておられたのならば、某の不徳」
「あー、もう、よせよ。何だ?何の話だ?」
何やらこのままでは、子供の時分に受けた説教を蒸し返されそうな気配を察して、十兵衛はあわてて促した。
「は、十兵衛様は先に撫子が申しておりました、あれを嫁にという話に、思い当たる節はおありで?」
「あったよ。後になって思い出したのだ。あれは蟄居が解ける前の年、江戸での夏稽古に発つ前だったな」
十兵衛は市朗に、思い出した約束を話して聞かせた。
「…うんと美しうなって、うんと乳が大きくなったら、でございますか?」
「うむ。正しくは、うんと別嬪になって、うんと乳が大きくなったら、だ」
市朗は頭を抱えた。
「あなた様は阿呆でございますか?いえ、悪いのは十兵衛様をきちんとお導き出来ぬかった某。今からでも腹切って詫びせねば、と思うほど酷うございます。しかしながら、義父より十兵衛様のお気持ちは聞き及んでおりますゆえ、どうか、撫子の事、宜しくお願い申し上げます」
「のう、兄や。皆は本当に撫子の相手が おれで良いと思うておるのか?おれだったら、自分の娘が おれのような男に惚れておるなどと言い出したら…」
「子に先立たれる不幸の前には、たとい相手があなた様のような男であろうと、そんなものは大事の前の些事でございます」
市朗はさらりと十兵衛をディスったが、いつもの事なので十兵衛は気にしていない。
「そういうものか…。子を持たぬおれには、わからぬものなのであろうな。」
この時、十兵衛の耳には、父・柳生但馬守の言葉が聞こえたような気がした。
―十兵衛、おまえを廃嫡する。おまえに柳生家は継がせぬ―
「十兵衛様?どうなされましたか?」
十兵衛は白昼夢の中から引き戻された。
「ああ、すまん。兄やが説教ばかりするもので、気が遠くなったよ」
と言って、十兵衛は笑ってはぐらかした。
「今、十兵衛様が子を持たぬ、と言われましたので、かねてより伺いたき事があったのを思い出しました。宜しいでしょうか?」
「構わんよ」
市朗は少しばかり姿勢を正し、
「伺いたき事とは、十兵衛様の御正室・秋篠和泉守様ご息女様と、その お子様方の事でございます。義父は和泉守様とお付き合いがあり、何やら知っておるようですが、某共には話してくれませぬ。その…、」
市朗は言い難そうに言葉を切った。
「おれは、その和泉守様にも、おれの御正室様にも、おれの二人の娘にも、会うた事が無い。それで答えになっておるか?」
十兵衛の答えに、市朗は驚愕の中にも―やはり―という表情を隠せずにいる。
「さっき話した九年前の夏稽古で江戸に戻ったら、上屋敷の奥に孕んでる女がいたんだよ。遠目にチラっと見ただけで顔も分からん。どうやらそれが、おれの奥方らしい。その後は見てないから、下屋敷か別邸に移されたのだろうなあ」
「それは、やはり、但馬守様の…」
「まあ、な。和泉守様は父上とご友人であられたようだから、娘御を二年ほど江戸屋敷で行儀見習い という名目で預かって遊ばせて、何なら主膳とご縁を、そうでなければ大名屋敷での奉公という箔を付けて良縁を、ぐらいに考えておられたのだろう。それなのに、よりにもよって父上の手が付いてしまって、和泉守様は大層ご立腹だったらしい」
主膳とは、十兵衛の同腹で六つ下の弟である。
十兵衛は碁笥の中の碁石を弄びながら、どこか遠くを見るように隻眼を細めている。
「事が露見した時には、もう腹は隠しようもない大きさでな。落としどころが、嫡男の正室だったという訳だ。蟄居が解けたのも、そういう事だ」
十兵衛は何という事も無いかのように、落ち着いた低い声で淡々と話しているが、聞いている市朗は、涙が出そうだった。
―「十兵衛様に、時折しみ入るような孤独の陰が見えるのは、そういう訳だったのか…。正室を取る為に蟄居が解けた、という事は、但馬守様との関係の深さから考えても、上様もこの事を御存知だったのだろう。この方は、本当に独りなのだ」―
市朗は十兵衛を抱きしめたいと思ったが、その役目は撫子に頼む事とする。
存外、二人は似合いなのではないかと市朗は思った。
三味線の音をたどると、それは母屋奥の撫子の私室から流れてくる。
「撫子よ、開けても良いか?」
三味の音が途切れ、
「良くありませぬ」
と返事があったが、
「そうか、では入るぞ」
と言って、十兵衛が唐紙を開けると、 撫子が夜具の上に女座りして三味線を抱えている。
まだ湯帷子のままで、乱れた裾の合わせからは、白い脚がヒザまで あらわに 見えた。
「気分がすぐれませぬ、と申しましたでしょう」
「すぐれぬのは機嫌であろう。おれに、おまえの機嫌を取らせてはくれぬか?」
撫子は黙りこくって下を向いている。
「八乳の三味線か…。」
十兵衛は三味線の胴皮に弦を挟んで縦に四つずつ浮かぶ乳首を、上から下へ ツ、ツ、と なでた。
撫子は自分が なでられたかのように、ピクンと肩をすくめ頬を染める。
「どうした?」
「この三味線は、私。私と同じなのでござります」
「…?どういう意味だ?」
それきり、撫子は口を閉ざして何も答えない。
「おまえの三味線は初めて聴いたが、音に艶があって良いな。機嫌が直ったら、おれの為に何か一曲弾いてくれよ」
そう言うと十兵衛は、撫子の頭をポンポンと優しくなでて、部屋を出て行った。
―「こんな可愛げのない女だから、だめなんだ…」―
撫子は にじむ涙を拭って、顔を上げた。
離れに戻る十兵衛は、撫子の事を考えながらニヤついている。
「あいつは可愛ゆらしいのう。ヘソを曲げるとふくれっ面してだんまりとは、構って欲しいのだろうな、甘えん坊め。さて、女人の機嫌を取るには紅か簪か、それとも帯かな?うふっ」
懐手でアゴの無精髭をなでながら、背中がゾクゾクするような、落ち着かないが心地の良い不思議な気分で思案していた。
撫子は、衣桁に掛けた小袖の中から、一番娘らしい華やかな物を身につけて離れに向かった。
十兵衛の髪がまだそのままだったので、髪を結いながら先の態度をさりげなく謝って、三味線も聴いてもらおうと思っていたが、あいにく十兵衛は昼寝中であった為、いつもどおり針仕事などして待つことにした。
しばらくすると女中が離れに来て呼ばわるので、十兵衛は目を覚ました。
「お嬢様、ご内儀様がお呼びにございます」
わざわざ呼びに来るような用とは何だろうと訝りながら、撫子は十兵衛に、戻ったら髪を結うので、出来れば寝ずに待っていてほしいと告げて母屋へ向かった。
撫子を呼びに来た女中は、ついでに離れで使う奈良紙や炭などの補充をしながら、撫子の三味線に目を留める。
「お嬢様ぐらい腕の良い方に弾かれるなら、この猫も三味線になった甲斐があるでしょうね」
「三味線は猫で作るのか?」
十兵衛は、何か動物の皮であるのは知っていたが、猫だとは思っていなかったのだ。
「さようで。まだ生娘の白猫の皮を張るから、成仏出来ずに雄を呼んで、盛り鳴きするような色っぽい音で鳴るんだって、言いますけどねえ」
―この三味線は、私―
十兵衛は撫子の言った言葉の意味が分かったような気がした。