第12話 時雨て

文字数 5,012文字

 撫子は、ここちの良い水音で目を覚ました。
 ―「雨だわ…」―
昨夜の媾合の甘い疲れが残る身体で、十兵衛を起こさぬよう、そろり と閨を抜け出した撫子は、広縁に出る。
湿気のある秋の朝の空気は、素肌に寝間着一枚では寒さをおぼえ、板の間へ引っ込むと、すでに湯沸かし用の火鉢と囲炉裏には火が入れられていた。
撫子は顔を洗うと、房楊枝と出がらしを煮出した茶で、ていねいに歯をみがき、髪を櫛ですいて整えてから、十兵衛が眠る書院へと戻る。
「早いな、撫子」
夜具の中の十兵衛は、すでに目を覚ましていた。
「十兵衛様、申し訳ござりません。騒がしうござりましたね」
「いや、目が覚めたのは、おまえが いなくなったからだ」
「まあ、…」
十兵衛の言葉に、新妻は初々しく頬を染めてみせた。
「もう お起きになられますか?」
「うむ、そうだな。用意をしてくれるか?」
「はい」
 
洗顔と歯磨きを済ませ、撫子が座敷で着替える十兵衛の手伝いをしていると、隣の板の間に人の入って来た気配がする。
板の間と座敷との間の唐紙を一枚開けておいたので、二人が起床していると知った ばあや が声を掛けてきた。
「十兵衛様、お嬢様、お目覚めでござりますか?」
「ばあや、登美、おはよう。今、旦那様が お召しかえ中ですよ」
「かしこまりました。では、朝餉の お仕度をいたします」
「お願いね」
明かり障子越しに、広縁を登美らしき影が書院の方へと向かうのが見てとれる。
夫婦の寝室を片づけられるのは、撫子にとっては恥ずかしい事であるが、そういうものだと ばあや に言い含められているので、しかたなく我慢していた。
 
朝餉をとりながら、ばあや がいつものように、撫子に妻の心得を聞かせている。
「ねえ、ばあや。わたくし、いつまでも お嬢様では おかしいと思うのよ…」
「何をおっしゃりますか。お嬢様はお嬢様でござりますよ。ばあやは、元は ご内儀様の侍女でござりました。先代が隠居なされるまで、ご内儀様は お嬢様でござりましたよ」
「そうだった、ばあや は柳生でも江戸でも一緒だったものな」
食事中はあまり喋らない十兵衛が、珍しく話に入ってきた。
「ま、そういう事だ。呼び方など、どうでも良いではないか。おまえは おれの、可愛い撫子であろう?」
十兵衛が隻眼を細め、愛おしげに撫子の頬をなでた。
「まあまあ、なんと睦まじき事」
その様子を ばあや は嬉しそうに眺めていた。

  昼を過ぎても雨は降りつづく。
十兵衛は座敷の広縁近くに肘枕で寝そべって、煙草をくゆらせながら書を読んでいた。
「お寒くは ござりませぬか?火鉢をお持ちいたしましょうか?」
撫子が、十兵衛に薄手の夜着を掛けながら聞く。
「ふふっ、おれは火の気よりも、人肌が恋しいのう」
と言うと、十兵衛は撫子の手をひき、胸に抱いた。
「あっ、もう…」
撫子は唇をとがらせて咎めるように十兵衛を見上げるが、すぐに はだけた衿から のぞく厚い胸板に、甘えるように頬をすりよせる。
十兵衛は腕枕した撫子の髪に顔をうずめていたが、フと何かに気付いたように顔を上げた。
「撫子、おまえが髪を結わぬのは、ひょっとして…?」
と言い、胸元の撫子を のぞきこむと、顔を上げてニッコリと笑ってみせ、また十兵衛の胸に戻る。
「まったく、おまえという奴は…」
撫子をギュッと抱きしめ、十兵衛は その髪を手櫛したり、なでたりしながら、
「髪を結うておっては、こういう事は出来ぬものなあ」
と、ささやいた。
「ええ。腕枕も、してはいただけませぬでしょう?」
「そうだな」
二人は しばし そうやって、互いの体温を楽しんでいたが、不意に十兵衛が、撫子を下に組み敷くと、そっと額に口づけた。
「十兵衛様、まだ早うござりますよ」
十兵衛はニヤっと笑うと、今度は鼻の頭に口づけた。 撫子はクスクスと笑うと一息つき、二人は見つめあい、撫子が瞳を閉じる。
唇と唇が触れあおうとした、その時―
 
 「ん、っうん」

突然の咳払いに、十兵衛は跳ね起きた。
板の間との間の唐紙が開いており、そこには登美が手を仕えていて、
「恐れ入ります。声をお掛けいたしましたが、お返事がありませんでしたので…」
撫子は首まで真っ赤になって座り直した。
「十兵衛様の弟君とおっしゃる六丸(りくまる)様と、その ご母堂様がお訪ねでございます」
十兵衛は思わぬ来訪者に、驚いたように隻眼を瞠る。
「六丸と お藤どのが…?かまわん、こちらに通してくれ」
「かしこまりました」
登美が下がったのを確かめてから、撫子が口を開いた。
「十兵衛様、六丸様とは…」
「うむ、おれの弟だ。まだ十二歳での。すまんが、何か菓子でも用意してやってもらえるか?」
「まあ、まだ お小さくて いらっしゃるのでござりますね…かしこまりました」

しばらくして、旅姿の六丸と お藤が離れに通された。
お藤は年の頃は三十ばかりの、目にも唇にも したたるような色気のある、妖艶な美女である。
六丸はお藤の子で、二十八歳下の十兵衛の異母弟にあたり、母によく似た面差しの美少年だ。
「六丸、お藤どの、久しいな。変わりないか?」
煙管をくわえた十兵衛が、二人に声をかける。
「はい。兄上様も、お元気そうで何よりでございます。…ところで、そちらの お美しい方は、どなた様でございますか?」
六丸は、十兵衛の隣に座る撫子に目を止めた。
「この方は、おれの妻女で撫子という。この家の娘御だ」
「えっ…!」
驚きの言葉を上げたのは、お藤であった。
「ご妻女様とは、どういう事でございますか?」
「それよな。まあ、それは後で話すとして、まず、お二人はなぜ、こちらに参られた?」
煙草をくゆらせながら、十兵衛がきく。
「六丸は、父上の御遺言どおり、出家する為に京の大徳寺へ向かう途中でございます。兄上や爺様婆様にお会いする為、柳生庄に参りました」
「私はその付き添いのため、六丸と共に京へ上ります。その前に十兵衛様に ご挨拶をと思い、陣屋へお訪ねしたところ、こちらにおられると聞きましてございます」
二人の話を聞いた十兵衛は、六丸に、
「六丸よ、大徳寺は亡き父上や おれの友人であった、故沢庵和尚が住持をつとめられた事もある、由緒正しき寺だ。沢庵和尚には、おぬしも可愛がっていただいたであろう?いずれは沢庵様のような立派な僧になられて、柳生庄にもどられるのを、兄は楽しみに待っておるぞ」
と、めずらしく真面目くさった顔で兄らしい事を言う。
六丸も神妙な顔で それを聞いているが、どこかに何やら反骨の気のあるような陰がさしている。
「お藤どのは、六丸を京へ送り届けた後はどうされる?江戸へ帰りなされるか?」
と、煙管に新しい煙草を詰めながら、十兵衛が聞く。
「いいえ、殿様が いなくなられた江戸屋敷に、私の居場所はございません。しばらくは、実家に身を寄せようかと…」
「江戸屋敷に居場所が無いとは…?おれの母が亡うなってから、父上には正室もいない。主膳は別家を構えておるし、おれは大和に引っ込んでおる。誰に はばかる必要がありますかな?」
十兵衛の隻眼が、お藤の腹を探るように、じぃっと見つめていた。
「それは、あのぅ…」
お藤が言いにくそうに、撫子をチラと見やる。
察した撫子が、
「わたくしは、外したほうが よろしゅうござりましょう」
と、立ち上がろうとするのを、十兵衛が手で制した。
「さっき申したように、撫子は おれの妻だ。これに聞かせられぬ話ならば、持って帰ってくれ」
立ち上がりかけていた撫子は、ふたたび腰をおろす。
十兵衛は戻った撫子を見て一つ頷き、優しく笑いかけた。
お藤と六丸の手前、平静を装った撫子であったが、内心では、いますぐ十兵衛に抱きつきたい程に嬉しかったのだった。
それでは、と、お藤が話を続ける。
「今の江戸の奥向きは、お圭様が仕切っておられますゆえ…」
十兵衛の眉が、ピクっと上がったのは、便宜上とはいえ、柳生家現当主の自分に聞き慣れぬ名が出てきたせいである。
「その、お圭とやらが、おれの正室という事になっておる、父上の最後の側室なのだな?」
撫子は先からの穏やかな微笑みをたたえたまま、何事も無いふうを装ったが内心は驚愕していた。
ただでさえ、目の前の美女と美少年の親子の存在に驚いているところに、ずっと自分の心の中に打ち込まれた楔のように感じていた十兵衛の正室が、本当は十兵衛の父・故但馬守の側室であったとは…。
「お藤どのと、その、お圭か?互いに父上の寵を争っていた者同士、やはり上手くは ゆかなんだか。このような時に、正室がおらんと面倒なのだのう… 」
十兵衛は少しばかり思案するように、煙草の煙を輪に吹いて見つめると、
「お藤どのは どうなされたい?本心では江戸へ戻りたいとお考えか?もしそうならば、憂いなきよう、おれも出来る限りの手は尽くそう。どうだ?」
と、切り出した。
お藤の顔に一瞬、歓喜の色が見えたが、すぐに それは消え去り、あきらめ とも悟りとも とれる表情を見せる。
「田舎の百姓の娘の私には、華やかな江戸での暮らしは、毎日が夢のようでございました。戻りたくない、と言えば嘘になります。しかしながら、殿様も六丸もいない江戸へ戻っても…。私は、いずれ戻る六丸を、柳生庄で待ちます」
「左様でござるか。では、一度出た ご実家では居心地が悪かろう。よろしければ陣屋の奥を使われい。家老には後で書を送りおく。あそこは父上が建てられたもの、ご遠慮めさるな。おれは当分柳生庄へは帰らぬし、帰っても爺様の(やしき)にしかおらぬでの」
「ああ、かたじけのうございます」
お藤は、思わぬ申し出に、手をつかえて礼をのべた。
「礼など ご無用にて、面を上げて下され。それより、撫子」
十兵衛が撫子に声をかけると、撫子は高杯を持って六丸の前に置き、
「大人のお話は退屈でござりましたでしょう。さ、お菓子を召し上がれ」
と、すすめた。
高杯には葛菓子が盛られていた。
「あのぅ、撫子様は、兄上の奥方様。ということは、私の義姉上様でございますね?」
六丸が問う。
「そうですよ。だから、撫子様なんて他人行儀な呼び方はやめてくださりませ、六丸どの」
撫子が答えると、六丸は、
「はい、おねいさま!」
と言うと、撫子に抱きつき豊かな胸に顔を埋めた。
「りっ、六丸!何を、おやめなさい!」
お藤があわてて止めようとするが、
「わたくしは構いませぬ。まだ お小さいのに、もう ご出家だなんて、お寂しくていらっしゃるのでしょう」
と、撫子は六丸の頭をなでる。
「私はずっと、撫子様のような優しい姉上が欲しかったのです」
と言いながら、なおも撫子の胸に顔を押し付け ぱふぱふ したりしている六丸に、黙って見ていた十兵衛が、
「六丸、それぐらいにしておけよ。それとも死ぬか?」
と白い歯を見せて言う。
笑っているのだが、冗談に聞こえない雰囲気がある。
「十兵衛様?このような いたいけな子供に何という事をいわれます」
と、撫子が とがめるが、六丸は撫子から見えぬよう、十兵衛に向かって舌を出しているのである。
「撫子よ、見た目に惑わされぬがいい。元服前であっても、そいつは もう子供ではない」
「え…?」
撫子がその意味を理解する前に、六丸が離れた。
「十兵衛の兄上には かなわないなあ。おねいさま、また遊んでね」
「六丸、おぬし、そういうところだぞ?」
お藤が顔面蒼白になって平伏し詫びるが、当の六丸はどこ吹く風である。
「あーもう、よい、お藤どの。お気に召さるな、面をあげよ。六丸、主膳と上手くいかぬのは、あやつが大人気ないのも勿論だが、おぬしにも多分に原因があるぞ。この十兵衛も、いつまでも間には立てぬからな」
そう言うと、十兵衛は灰吹きに煙草の灰を落とした。
「十兵衛様」
何やら撫子が十兵衛に耳打ちをすると、離れから退出していった。
「お藤どの、六丸、今宵はこちらに泊まられい。今、撫子が部屋を用意させに行っておる。江戸からの長旅で疲れもでておろう。ここの温泉は疲れによく効く」
十兵衛は、新しい煙草に火を点けた。
 

 秋霖いまだやまず、秋晴れの訪なうを待つ。
 
 
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登場人物紹介

柳生十兵衛三巌

主人公

剣豪として知られる柳生家当主で少し助平なイケおじ


河原 撫子

ヒロイン

美人で爆乳で淫らな十兵衛の嫁

柳生但馬守宗矩

故人

主人公・十兵衛の父

助平ジジイ

河原 市朗

ヒロイン・撫子の父

幼少の頃の十兵衛の傅役だった

イケオジィ

河原 すず

ヒロイン・撫子の母

若い頃、十兵衛の母・おりんの方様の侍女だった

ばあや

撫子のばあや

撫子が生まれる前は、すずの侍女だった

徳川家光

三代将軍


お藤

宗矩の側室

六丸の母

柳生 六丸

十兵衛の末弟

宗矩と お藤の子


お蔦

茶店の娘

撫子の幼なじみ


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