第5話 背中合わせ
文字数 5,884文字
折からの秋のカラリとした晴天続きに、河原家では屋敷蔵内の物の虫干しを進めていた。
その中には、書画などにまざり、目にも艶やかな、厚く真綿を詰め込んだ深紅の布団と美しい錦の夜着があった。
これは市朗とすずの婚礼に誂えられた物で、お披露目の為に生地や真綿をたくさん使ったと誇る目的で、広く大きく厚く作られている。
しかも、何とも贅沢な事に、祝言の五日間だけしか使っていない。
撫子は子供の頃から虫干しの時だけ目にする、この美しい夜具が大好きで、
「撫子がお嫁に行く時は、この夜具を持たせてね」
と言い、一人娘の嫁入り道具なのだから、新しい物を持たせてやると言っても、これが良いと聞かなかった。
実際、京の都でも指折りの大店の一人娘である長七郎の嫁、照葉の持参した夜具より上等な品であり、 武家から入婿を取るにあたって、河原家はかなり金も気も使ったのであろう。
風通しが主な目的なので、少しだけ日に当てると、後は客や短期契約の使用人を入れない母屋奥の座敷に明日まで置いておく。
もちろん盗難防止の為なので、普段あまり仕事の無い市朗と長七郎が交代で不寝番である。
昼前に一段落ついたので、撫子は十兵衛を起こしてある行動に出る事にした。
「十兵衛様、そろそろ お目覚め下さりませ」
心地よい声が十兵衛の耳をくすぐり、隻眼を薄く開けると、撫子が自分の顔を覗きこんでいる。
「もう日が高うござりますよ。起きて朝餉を召し上がりま、 あっ!」
十兵衛は夜具の中に撫子を引っ張り入れて胸に抱くと、その髪に顔を埋めて 優しく背中をさすり、手のひらでポンポンと軽くはたきながら、
「おまえは相変わらず、足が冷たいな」
と言って、自分のふくらはぎで撫子の足を挟み、温めた。
明け方から宿泊客の朝餉の用意や虫干しやで忙しく立ち働いていた撫子は、ついウトウトとしながら十兵衛の背中に手を回してギュッと抱き付き、幼き日に寒い時候になると、いつも十兵衛がこうして自分を夜具の中に入れてくれて、足を温めながら寝かし付けてくれた事を思い出し、
「ずっと あのまま、子供のままでいられたら、どんなに良かったか…」
そう思ったのを最後に、撫子の意識は途切れた。
そして十兵衛もまた、すうすうと寝息を立て始めた撫子を更に抱き寄せながら、幼い撫子の温もりを感じながら眠りについた幸せを思い出していた。
十二年余りの長きにわたる蟄居の日々の中で、この娘の天真爛漫な笑顔や可愛らしい しぐさが、どれだけ心の慰めとなったか。
十兵衛は撫子の美しい髪の中に手を差し入れ、優しく愛撫するように撫でた。
その途端に撫子はパチっと目を覚まし、顔を上げると、
「私、どのくらい眠って…」
と、不安げに十兵衛を見た。
「なに、ほんのしばらくだったぞ。なんなら今夜、ゆっくり抱いて寝てやろうか?」
と笑う十兵衛に、
「はいはい、ご冗談はそれぐらいに。朝餉を召し上がられませ。お好きな玉子焼きがござりますよ。」
と言うと、夜具から出て隣の板の間へ十兵衛を促した。
十兵衛に出がらしのお茶を煮出した物でうがいをさせている間に、撫子は板の間から続く台所で味噌汁を温め、置き畳に安座した十兵衛の前に膳を置いて飯をよそった。
「この玉子焼きは、おまえが?」
「さようでござります」
「ふうん、美味いな」
十兵衛はそれだけ言うと、後は黙って箸を進めた。
「十兵衛様、朝餉が お済みになられたら、髪を洗って差し上げますね」
「んん、髪?」
「はい。髪でござります」
朝餉が済むと、十兵衛は寝っ転がって煙草を吸うのも許されず、風呂場へ追いやられる。
脱衣場で十兵衛が褌一枚になったところに、撫子が煮溶かしたふのりの入った桶を持ってきた。
「まだ湯壺に入っておられなかったのですか?あ、下帯は撫子に下されませ。洗いますゆえ」
と、褌に手を掛けようとするのを、十兵衛は苦笑いで制し、
「下帯ぐらい自分で外せるよ。おまえは何とも思わんのか?」
と聞くと、撫子はキョトンとして首を傾げる。
「いやその、おれの摩羅だよ。見ても平気なのか?ん、待てよ、むしろ見たいのか?」
と言って十兵衛はニヤッと笑った。
「あいにく、父や兄のは見たことはござりませぬが、十兵衛様のは いっぱい見ておりまする。あの頃より大してお変わりはござりませぬでしょうに。お早く外して、湯壺へ入られませ」
「分かったよ、ほら」
苦笑いで外した下帯を撫子に寄越すと、十兵衛は洗い場へ降りて行き、手桶を使って自らの摩羅、ふぐり、いしき、そして 足を洗うと、ざぶんと湯壺に身を沈めた。
風呂場に来た撫子の藍染めの湯帷子からは、ムッチリと豊かな乳房が盛り上がり、薄い生地からはポチっと小さな尖端も浮かんでいる。
「お体が温まったら お知らせ下さりませね」
撫子の姿にニヤニヤと目尻を下げていた十兵衛は、不意に声を掛けられドキッとしたのを気取られぬよう、
「おう」
と落ち着き払ったような返事をして、湯で顔を洗ったのだった。
十兵衛を待つ間、撫子は洗い場の隅で先ほど十兵衛が脱いだ褌や寝間着に足袋などを洗濯していた。
―「何とまあ働き者な事だな。裕福な商家の娘というのは、何もしないのではないのか?」―
などと考えながら、十兵衛はその姿を眺めていた。
十兵衛の実家である柳生家のような大身旗本~大名の家では、幼児期までは乳母が育て、男子にはその後 男の傅役などが付いて世話をし、元服後は小姓や近習など、基本的に男の身の回りの世話は男がするものなので、今、撫子がしてくれるような町方の世話女房のように、全てを気心知れた女が一人で見てくれるというのは、十兵衛には、くすぐったいような嬉しいような気分だ。
「こういうのも悪くないな」
と、まんざらでもない気持ちになったところで、のぼせそうになり、
「もういいぞ」
と言って、洗い場の腰掛けに座した。
「後で髪結いさんをお呼びいたしますか?」
とたずねながら、撫子は十兵衛の茶筅髷の紐を解いていく。
「いや、おまえが結うてくれ」
「はい」
解いた長い髪を丁寧に湯で流し、ふのりを馴染ませて頭皮を揉む絶妙な指使いと力加減に、十兵衛は思わず「うー」とか「あー」の声が出てしまう。
撫子はクスクスと笑いながら、続けて洗髪用の粗い櫛で髪をすいてから、
「十兵衛様、下を向いて下さいませ。流しますよ」
と、次々にお湯を掛けてすすいでいく。
きれいにすすぎ終わった髪を優しく絞った撫子は、足元に置いていた徳利の栓を抜いた。
その徳利から風呂場中に広がる良い香りは、十兵衛がよく知るものであった。
「撫子よ、この香りは…」
「少し冷とうござりますよ」
撫子はフフ、と笑って徳利の中身を十兵衛の頭にたらして揉み込んでいく。
「おまえの髪がいつも良い香りなのは、これのせいなのだな」
「これは橘の実を煮出した汁にござります。さ、もう一度湯にお浸かりなされませ。次はお背中でござりまするよ」
撫子は十兵衛の背の中程まである髪を、頭上に紐で器用に結わえながら言った。
「ふう、至れり尽くせりだな…」
十兵衛は再び湯船の中から、洗髪に使った道具の片付けや、この後使う糠袋と手拭いの用意をする撫子を見ていた。
湯気や汗、跳ねた湯で濡れた湯帷子は、ぴったりと肌に貼り付き、撫子が動くたびに重そうにゆさゆさと弾む乳房と、ぷくんとした尖端もはっきりと見てとれる。
そして、くびれた腰から下も、桃のような丸い尻の割れ目までくっきりと浮かぶほどにまとわりついて、何とも目のやり場に困るのだが、撫子は自分がどのような姿になっているのか気が付いていないようなので、十兵衛は遠慮なく楽しんで眺めた。
―「いやはや、絶景でござるな」―
などど のんきにニヤついていたが、昨日の爺様からの話が十兵衛の心を弛ませたのだろうか、あろう事にも、十兵衛の摩羅が、その頭 をもたげ始めたではないか。
―「これは、ちとマズイ…」―
と、思ったところに、
「十兵衛様、どうぞ こちらへ」
撫子に促された十兵衛は、
―「ええ、もう どうにでもなれ、だ」―
そのまま腰掛けた。
背から流し始めた撫子には気付かれていないようだったが、時おり背に当たる撫子の乳の感触に、今や十兵衛の摩羅は完全に天を仰いでいた。
「前を失礼して…」
言いかけた撫子を十兵衛は止めた。
「背中だけでいい。年頃の娘が、そこまでせずともよい。もう上がる」
「では、今一度温まられてから、お上がり下さりませ」
と撫子が言うと、十兵衛は一度ザブンと湯壺に身を沈め、
「おまえも ゆっくり湯をつかってこい」
と言いおいて、脱衣場へ上がって行った。
風呂場で一人になった撫子は湯帷子を脱ぎ、一糸纏わぬ姿で湯壺に肩まで沈むと、先ほど見た十兵衛の身体を思い浮かべていた。
広い背、厚い胸、引き締まった胴、どれを一つ取っても四十路の男とも思えぬ筋骨隆々たる体躯は、まだ子供だった八年前に見たまま、否、ますます無駄の削げ落ち、精悍な浅黒い肌と相まって『男』の匂いが むんむんとする。
撫子は、湯の中で揺れる自分の乳房を見ながら、
―「あの大きな手で、触れて欲しいのに…」―
という思いと共に、チラと見えた天を仰ぐ十兵衛の逞しい摩羅を思い出し、その豊かな胸は早鐘を打つように高鳴った。
ハァ、と切なげな吐息を洩らし、自分の肩を抱き締めた撫子の肌が、美しい朱鷺色に染まっているのは、熱い湯のせいだけではない。
処女とはいえ、撫子も十九歳の娘盛り、母や ばあや からの性教育としての春画や、娘組の皆と一緒に見る艶本や経験者の話など、それなりに勉強している。
十兵衛のあの状態がどういうものなのかは、ちゃんと識っているのだ。
―「それなのに、十兵衛様は、私に触れても下さらなかった」―
―「私では、だめなのですね」―
―「この世に唯一人、あの方のものになる為に、今まで生きてきたのに」―
撫子は、声を殺して泣いた。
ただただ、自分が哀れで惨めだった。
自分は十兵衛にとって、お嫁にどころか、肉欲を満たす為の道具にすら選ばれないのだ、と。
一方、そのような撫子の気持ちなど露とも知らない十兵衛は、一人悶々としていた。
頭から湯帷子を被いだだけの姿で広縁に座り、火照った身体を冷ましていたが、まだ撫子の艶かしい姿態と胸の感触が頭にチラついて離れない。
―「あれはイカン」―
―「上様は、湯殿のお世話をする御女中に手を付けられたと聞いておるが、さもあろう」―
―「おれとて、本音を言えば まだ風呂場にいたかった。何なら…」―
風呂場で、十兵衛が撫子に何も出来なかったのは、まだ肝心の撫子の気持ちを確かめていないのと、撫子の両親である兄やと姉やに話をしていないからだ。
こういうところは、何故か几帳面に手順を踏みたがる男なのである。
十兵衛は、自分の気を逸らす為に、煙草の煙を輪に吹かした。
ひとしきり泣いた撫子は、涙を湯で流して湯帷子を着直すと、洗濯物を入れたたらいを持ち風呂場から直に庭に出て来て洗濯物を干し、湯帷子一枚で煙管をくわえている十兵衛に、
「いつまでもそのようなお姿でいると、お風邪を召しますよ」
と小言を言い、風呂場へ戻って行った。
十兵衛の為に用意された乱れ箱には、真新しい褌、袷、黒足袋が、それぞれ三つずつ。
緋縮緬の褌は、撫子の湯文字と同じ生地、袷の一枚は先に撫子が縫っていた物だと気付く。
―「これは全て撫子が…?おれがここに来て、まだ何日だ?」―
とりあえず、褌を締めてみた。
が、驚いた事に寸法がピッタリでであった。
六尺豊かの大男で腰回りも張っている十兵衛には、自分の近習が用意する褌はいつも微妙に短く思っていたのだが、これは実に締め心地が良い。
―「ふうん、撫子は実に良い女に育っておるではないか」―
もちろん、十兵衛のような恋路に疎い男でも、女が自分の湯文字と揃いの生地で作った褌を男に贈る意味は知っている。
十兵衛は、緋色の褌に湯帷子を肩に引っ掛け、背中のムズムズと落ち着かないような気分を感じながら、満更でもない顔で隻眼を細めた。
「お寒くあられませぬか?」
戻った撫子は、新しい湯帷子の下には湯文字を巻き、きちっと帯を締めている。
十兵衛から少し離れてしどけなく女座りすると、裾から白いふくらはぎと桃色のくるぶしが覗く。
いつもなら子供のように すぐ側に寄って来るのに、そうしない事を訝りながら、
「どうした?側に来ぬのか?」
と、十兵衛が聞くと、
「まだ汗が引きませぬゆえ…」
などと、顔も見ずに答えた。
「そうか、おれは気にせぬので膝枕してくれ」
「えっ!?」
返事も待たずに十兵衛は撫子の膝に頭を乗せる。
嫌だと言えない自分にモヤモヤしながら、撫子は十兵衛の髪を優しく手櫛にした。
不意に、
「おまえと初めて会うたのは、ちょうど今頃の時期だったのう」
と、十兵衛は話し始めた。
「おれには三人の弟と四人の妹がおるが、守りなどしてやった事も無く、赤子を抱いたのは、おまえが生まれて初めてだった。小さな紅葉のような手で、おれの指を握って離さぬおまえが可愛くてなあ。いつまでも飽かずに抱いておった」
「私に名をお付けになったのは、十兵衛様だと聞かされております」
「うむ、屋敷に戻って祝いの品と文を贈ったのだが、おまえにはまだ名がついておらぬかったから『可愛い、おれの撫でし子へ』と書いたらば、『名を撫子と致しました』と返事が来たのだ」
「まあ…。そのようなお話は聞かされておりませぬでした。ただ、名付け親になってくだされた、とだけ」
撫子は十兵衛の髪をくるくると弄びながら、少し笑った。
「そうか。しかし季節は合っておるが、おまえが撫子よりもずっと艶やかな花になったのは、ちと算盤違いだったか」
そう言って白い歯を見せた十兵衛に、撫子は凍るような冷たい声で、
「摘む者とて無い花など、只の草と同じでござります」
と、答えたのにハッ!として十兵衛は身を起こした。
撫子は顔を伏せ、
「湯中りでござりましょうか。気分がすぐれませぬので、下がらせていただきます」
と言うと、足早に離れを出ていった。
その姿を見送りながら、
「しまった、失敗したのう…。年頃の娘の扱いは、兵法どおりにはゆかぬものだな。」
と、頭をポリポリと掻きながら、十兵衛は独りごちた。
その中には、書画などにまざり、目にも艶やかな、厚く真綿を詰め込んだ深紅の布団と美しい錦の夜着があった。
これは市朗とすずの婚礼に誂えられた物で、お披露目の為に生地や真綿をたくさん使ったと誇る目的で、広く大きく厚く作られている。
しかも、何とも贅沢な事に、祝言の五日間だけしか使っていない。
撫子は子供の頃から虫干しの時だけ目にする、この美しい夜具が大好きで、
「撫子がお嫁に行く時は、この夜具を持たせてね」
と言い、一人娘の嫁入り道具なのだから、新しい物を持たせてやると言っても、これが良いと聞かなかった。
実際、京の都でも指折りの大店の一人娘である長七郎の嫁、照葉の持参した夜具より上等な品であり、 武家から入婿を取るにあたって、河原家はかなり金も気も使ったのであろう。
風通しが主な目的なので、少しだけ日に当てると、後は客や短期契約の使用人を入れない母屋奥の座敷に明日まで置いておく。
もちろん盗難防止の為なので、普段あまり仕事の無い市朗と長七郎が交代で不寝番である。
昼前に一段落ついたので、撫子は十兵衛を起こしてある行動に出る事にした。
「十兵衛様、そろそろ お目覚め下さりませ」
心地よい声が十兵衛の耳をくすぐり、隻眼を薄く開けると、撫子が自分の顔を覗きこんでいる。
「もう日が高うござりますよ。起きて朝餉を召し上がりま、 あっ!」
十兵衛は夜具の中に撫子を引っ張り入れて胸に抱くと、その髪に顔を埋めて 優しく背中をさすり、手のひらでポンポンと軽くはたきながら、
「おまえは相変わらず、足が冷たいな」
と言って、自分のふくらはぎで撫子の足を挟み、温めた。
明け方から宿泊客の朝餉の用意や虫干しやで忙しく立ち働いていた撫子は、ついウトウトとしながら十兵衛の背中に手を回してギュッと抱き付き、幼き日に寒い時候になると、いつも十兵衛がこうして自分を夜具の中に入れてくれて、足を温めながら寝かし付けてくれた事を思い出し、
「ずっと あのまま、子供のままでいられたら、どんなに良かったか…」
そう思ったのを最後に、撫子の意識は途切れた。
そして十兵衛もまた、すうすうと寝息を立て始めた撫子を更に抱き寄せながら、幼い撫子の温もりを感じながら眠りについた幸せを思い出していた。
十二年余りの長きにわたる蟄居の日々の中で、この娘の天真爛漫な笑顔や可愛らしい しぐさが、どれだけ心の慰めとなったか。
十兵衛は撫子の美しい髪の中に手を差し入れ、優しく愛撫するように撫でた。
その途端に撫子はパチっと目を覚まし、顔を上げると、
「私、どのくらい眠って…」
と、不安げに十兵衛を見た。
「なに、ほんのしばらくだったぞ。なんなら今夜、ゆっくり抱いて寝てやろうか?」
と笑う十兵衛に、
「はいはい、ご冗談はそれぐらいに。朝餉を召し上がられませ。お好きな玉子焼きがござりますよ。」
と言うと、夜具から出て隣の板の間へ十兵衛を促した。
十兵衛に出がらしのお茶を煮出した物でうがいをさせている間に、撫子は板の間から続く台所で味噌汁を温め、置き畳に安座した十兵衛の前に膳を置いて飯をよそった。
「この玉子焼きは、おまえが?」
「さようでござります」
「ふうん、美味いな」
十兵衛はそれだけ言うと、後は黙って箸を進めた。
「十兵衛様、朝餉が お済みになられたら、髪を洗って差し上げますね」
「んん、髪?」
「はい。髪でござります」
朝餉が済むと、十兵衛は寝っ転がって煙草を吸うのも許されず、風呂場へ追いやられる。
脱衣場で十兵衛が褌一枚になったところに、撫子が煮溶かしたふのりの入った桶を持ってきた。
「まだ湯壺に入っておられなかったのですか?あ、下帯は撫子に下されませ。洗いますゆえ」
と、褌に手を掛けようとするのを、十兵衛は苦笑いで制し、
「下帯ぐらい自分で外せるよ。おまえは何とも思わんのか?」
と聞くと、撫子はキョトンとして首を傾げる。
「いやその、おれの摩羅だよ。見ても平気なのか?ん、待てよ、むしろ見たいのか?」
と言って十兵衛はニヤッと笑った。
「あいにく、父や兄のは見たことはござりませぬが、十兵衛様のは いっぱい見ておりまする。あの頃より大してお変わりはござりませぬでしょうに。お早く外して、湯壺へ入られませ」
「分かったよ、ほら」
苦笑いで外した下帯を撫子に寄越すと、十兵衛は洗い場へ降りて行き、手桶を使って自らの摩羅、ふぐり、いしき、そして 足を洗うと、ざぶんと湯壺に身を沈めた。
風呂場に来た撫子の藍染めの湯帷子からは、ムッチリと豊かな乳房が盛り上がり、薄い生地からはポチっと小さな尖端も浮かんでいる。
「お体が温まったら お知らせ下さりませね」
撫子の姿にニヤニヤと目尻を下げていた十兵衛は、不意に声を掛けられドキッとしたのを気取られぬよう、
「おう」
と落ち着き払ったような返事をして、湯で顔を洗ったのだった。
十兵衛を待つ間、撫子は洗い場の隅で先ほど十兵衛が脱いだ褌や寝間着に足袋などを洗濯していた。
―「何とまあ働き者な事だな。裕福な商家の娘というのは、何もしないのではないのか?」―
などと考えながら、十兵衛はその姿を眺めていた。
十兵衛の実家である柳生家のような大身旗本~大名の家では、幼児期までは乳母が育て、男子にはその後 男の傅役などが付いて世話をし、元服後は小姓や近習など、基本的に男の身の回りの世話は男がするものなので、今、撫子がしてくれるような町方の世話女房のように、全てを気心知れた女が一人で見てくれるというのは、十兵衛には、くすぐったいような嬉しいような気分だ。
「こういうのも悪くないな」
と、まんざらでもない気持ちになったところで、のぼせそうになり、
「もういいぞ」
と言って、洗い場の腰掛けに座した。
「後で髪結いさんをお呼びいたしますか?」
とたずねながら、撫子は十兵衛の茶筅髷の紐を解いていく。
「いや、おまえが結うてくれ」
「はい」
解いた長い髪を丁寧に湯で流し、ふのりを馴染ませて頭皮を揉む絶妙な指使いと力加減に、十兵衛は思わず「うー」とか「あー」の声が出てしまう。
撫子はクスクスと笑いながら、続けて洗髪用の粗い櫛で髪をすいてから、
「十兵衛様、下を向いて下さいませ。流しますよ」
と、次々にお湯を掛けてすすいでいく。
きれいにすすぎ終わった髪を優しく絞った撫子は、足元に置いていた徳利の栓を抜いた。
その徳利から風呂場中に広がる良い香りは、十兵衛がよく知るものであった。
「撫子よ、この香りは…」
「少し冷とうござりますよ」
撫子はフフ、と笑って徳利の中身を十兵衛の頭にたらして揉み込んでいく。
「おまえの髪がいつも良い香りなのは、これのせいなのだな」
「これは橘の実を煮出した汁にござります。さ、もう一度湯にお浸かりなされませ。次はお背中でござりまするよ」
撫子は十兵衛の背の中程まである髪を、頭上に紐で器用に結わえながら言った。
「ふう、至れり尽くせりだな…」
十兵衛は再び湯船の中から、洗髪に使った道具の片付けや、この後使う糠袋と手拭いの用意をする撫子を見ていた。
湯気や汗、跳ねた湯で濡れた湯帷子は、ぴったりと肌に貼り付き、撫子が動くたびに重そうにゆさゆさと弾む乳房と、ぷくんとした尖端もはっきりと見てとれる。
そして、くびれた腰から下も、桃のような丸い尻の割れ目までくっきりと浮かぶほどにまとわりついて、何とも目のやり場に困るのだが、撫子は自分がどのような姿になっているのか気が付いていないようなので、十兵衛は遠慮なく楽しんで眺めた。
―「いやはや、絶景でござるな」―
などど のんきにニヤついていたが、昨日の爺様からの話が十兵衛の心を弛ませたのだろうか、あろう事にも、十兵衛の摩羅が、その
―「これは、ちとマズイ…」―
と、思ったところに、
「十兵衛様、どうぞ こちらへ」
撫子に促された十兵衛は、
―「ええ、もう どうにでもなれ、だ」―
そのまま腰掛けた。
背から流し始めた撫子には気付かれていないようだったが、時おり背に当たる撫子の乳の感触に、今や十兵衛の摩羅は完全に天を仰いでいた。
「前を失礼して…」
言いかけた撫子を十兵衛は止めた。
「背中だけでいい。年頃の娘が、そこまでせずともよい。もう上がる」
「では、今一度温まられてから、お上がり下さりませ」
と撫子が言うと、十兵衛は一度ザブンと湯壺に身を沈め、
「おまえも ゆっくり湯をつかってこい」
と言いおいて、脱衣場へ上がって行った。
風呂場で一人になった撫子は湯帷子を脱ぎ、一糸纏わぬ姿で湯壺に肩まで沈むと、先ほど見た十兵衛の身体を思い浮かべていた。
広い背、厚い胸、引き締まった胴、どれを一つ取っても四十路の男とも思えぬ筋骨隆々たる体躯は、まだ子供だった八年前に見たまま、否、ますます無駄の削げ落ち、精悍な浅黒い肌と相まって『男』の匂いが むんむんとする。
撫子は、湯の中で揺れる自分の乳房を見ながら、
―「あの大きな手で、触れて欲しいのに…」―
という思いと共に、チラと見えた天を仰ぐ十兵衛の逞しい摩羅を思い出し、その豊かな胸は早鐘を打つように高鳴った。
ハァ、と切なげな吐息を洩らし、自分の肩を抱き締めた撫子の肌が、美しい朱鷺色に染まっているのは、熱い湯のせいだけではない。
処女とはいえ、撫子も十九歳の娘盛り、母や ばあや からの性教育としての春画や、娘組の皆と一緒に見る艶本や経験者の話など、それなりに勉強している。
十兵衛のあの状態がどういうものなのかは、ちゃんと識っているのだ。
―「それなのに、十兵衛様は、私に触れても下さらなかった」―
―「私では、だめなのですね」―
―「この世に唯一人、あの方のものになる為に、今まで生きてきたのに」―
撫子は、声を殺して泣いた。
ただただ、自分が哀れで惨めだった。
自分は十兵衛にとって、お嫁にどころか、肉欲を満たす為の道具にすら選ばれないのだ、と。
一方、そのような撫子の気持ちなど露とも知らない十兵衛は、一人悶々としていた。
頭から湯帷子を被いだだけの姿で広縁に座り、火照った身体を冷ましていたが、まだ撫子の艶かしい姿態と胸の感触が頭にチラついて離れない。
―「あれはイカン」―
―「上様は、湯殿のお世話をする御女中に手を付けられたと聞いておるが、さもあろう」―
―「おれとて、本音を言えば まだ風呂場にいたかった。何なら…」―
風呂場で、十兵衛が撫子に何も出来なかったのは、まだ肝心の撫子の気持ちを確かめていないのと、撫子の両親である兄やと姉やに話をしていないからだ。
こういうところは、何故か几帳面に手順を踏みたがる男なのである。
十兵衛は、自分の気を逸らす為に、煙草の煙を輪に吹かした。
ひとしきり泣いた撫子は、涙を湯で流して湯帷子を着直すと、洗濯物を入れたたらいを持ち風呂場から直に庭に出て来て洗濯物を干し、湯帷子一枚で煙管をくわえている十兵衛に、
「いつまでもそのようなお姿でいると、お風邪を召しますよ」
と小言を言い、風呂場へ戻って行った。
十兵衛の為に用意された乱れ箱には、真新しい褌、袷、黒足袋が、それぞれ三つずつ。
緋縮緬の褌は、撫子の湯文字と同じ生地、袷の一枚は先に撫子が縫っていた物だと気付く。
―「これは全て撫子が…?おれがここに来て、まだ何日だ?」―
とりあえず、褌を締めてみた。
が、驚いた事に寸法がピッタリでであった。
六尺豊かの大男で腰回りも張っている十兵衛には、自分の近習が用意する褌はいつも微妙に短く思っていたのだが、これは実に締め心地が良い。
―「ふうん、撫子は実に良い女に育っておるではないか」―
もちろん、十兵衛のような恋路に疎い男でも、女が自分の湯文字と揃いの生地で作った褌を男に贈る意味は知っている。
十兵衛は、緋色の褌に湯帷子を肩に引っ掛け、背中のムズムズと落ち着かないような気分を感じながら、満更でもない顔で隻眼を細めた。
「お寒くあられませぬか?」
戻った撫子は、新しい湯帷子の下には湯文字を巻き、きちっと帯を締めている。
十兵衛から少し離れてしどけなく女座りすると、裾から白いふくらはぎと桃色のくるぶしが覗く。
いつもなら子供のように すぐ側に寄って来るのに、そうしない事を訝りながら、
「どうした?側に来ぬのか?」
と、十兵衛が聞くと、
「まだ汗が引きませぬゆえ…」
などと、顔も見ずに答えた。
「そうか、おれは気にせぬので膝枕してくれ」
「えっ!?」
返事も待たずに十兵衛は撫子の膝に頭を乗せる。
嫌だと言えない自分にモヤモヤしながら、撫子は十兵衛の髪を優しく手櫛にした。
不意に、
「おまえと初めて会うたのは、ちょうど今頃の時期だったのう」
と、十兵衛は話し始めた。
「おれには三人の弟と四人の妹がおるが、守りなどしてやった事も無く、赤子を抱いたのは、おまえが生まれて初めてだった。小さな紅葉のような手で、おれの指を握って離さぬおまえが可愛くてなあ。いつまでも飽かずに抱いておった」
「私に名をお付けになったのは、十兵衛様だと聞かされております」
「うむ、屋敷に戻って祝いの品と文を贈ったのだが、おまえにはまだ名がついておらぬかったから『可愛い、おれの撫でし子へ』と書いたらば、『名を撫子と致しました』と返事が来たのだ」
「まあ…。そのようなお話は聞かされておりませぬでした。ただ、名付け親になってくだされた、とだけ」
撫子は十兵衛の髪をくるくると弄びながら、少し笑った。
「そうか。しかし季節は合っておるが、おまえが撫子よりもずっと艶やかな花になったのは、ちと算盤違いだったか」
そう言って白い歯を見せた十兵衛に、撫子は凍るような冷たい声で、
「摘む者とて無い花など、只の草と同じでござります」
と、答えたのにハッ!として十兵衛は身を起こした。
撫子は顔を伏せ、
「湯中りでござりましょうか。気分がすぐれませぬので、下がらせていただきます」
と言うと、足早に離れを出ていった。
その姿を見送りながら、
「しまった、失敗したのう…。年頃の娘の扱いは、兵法どおりにはゆかぬものだな。」
と、頭をポリポリと掻きながら、十兵衛は独りごちた。