第25話 女難 其の三
文字数 2,896文字
いつもは明けやらぬ内から起き出す撫子が、今朝はすっかり日も出たというのに頭から夜着を被いだままミノムシのような姿でいる。
かえって朝寝が好きな十兵衛の方が、もう起きて煙管などふかしながら撫子のそのような姿をニヤニヤと眺めていた。
「撫子よ、もうそろそろ起きぬか?ん?」
「…」
起きている気配は確かにあるが、返事は無い。
「これ、なーでーしーこー?」
十兵衛が呼ばわりながら夜着に手を掛けると、撫子は中から押さえて
「い、嫌でござりますぅ…」
と、消え入りそうな声で言った。
「どうしたというのだ?」
夜着を少しめくり上げて十兵衛が のぞき込むと、
「だって、わたくし、昨夜あのような…。どの顔で…、恥ずかしくて死にそうでござります」
顔を隠して かぶりを振る撫子は、昨夜の嬌声をこの家の皆に聞かれていたであろう事を気にしていたのだ。
「何だ、夫婦 ならば誰でもする事であろう。気にするな。おれは誰に聞かれておったとて気にしてはおらぬぞ。とは言うても、ゆうべの おれは ちと調子に乗りすぎておったのう。おまえに恥ずかしい思いをさせたかった訳では無いのだが、すまん。しかし、いつまでもそうしている訳にもいくまいて。ほれ、出てこい」
そう言うと十兵衛は夜着の中に手を差し入れて夜着ごと撫子を膝に抱いた。
拗ねたように目を伏せて十兵衛の胸に額をぐりぐりと押し付けてくる撫子の背をさすっていると、唐紙の向こうから
「お目覚めですやろか?朝餉のお仕度が出来とおりますえ。階下 へおいでとおくれやす」
と、新左衛門が声を掛けて来たのに十兵衛は
「分かった。参ろう」
と答えて撫子の頭をポンポンとなでた。
座敷では既に珠子と主の与次兵衛が膳についている。
ゆうべ座敷を出た時と同じように十兵衛が撫子を抱きかかえて新左衛門と共に入って来ると、珠子が厭な笑顔で
「おはようさんどす。まあぁ…、」
と、含みのある言い方をした。
「よう お寝 みにならはりましたか?」
与次兵衛はさすがに何事も無いようにたずねるが、どうしても意味ありげに聞こえてしまう。
「うむ。おれはゆっくりと寝 めたが、撫子の方は ちと お疲れがでておるようだの」
十兵衛はそのまま撫子を膝に抱いた格好で安座しながら膳につく。
「そうどすなあ。あないに声を上げはって、さぞ お疲れですやろう」
「これ、」
険のある言い方をする珠子を与次兵衛が咎めようとすると、
「おれが、声を我慢せぬように躾ておるのだ。撫子はそれに応えてくれておるだけでのう。はしたなき娘であるかのような言い様はやめよ。それに、声をひそめておっただけで おぬしも吾子とお励みだったであろう?」
ニヤリと片エクボを彫った十兵衛が顎の無精髭をなでると、珠子は茶碗を取り落とし、新左衛門は盛大にむせた。
「んなっ!」
目を見開き金魚のように口をパクパクさせる珠子と真っ青な顔をした新左衛門に十兵衛は、
「気付かれておらぬと思うてか?おれも舐められたものよのう」
と、のんびりとした口調で言いながら、膝の上の撫子の口に油揚げの煮物を運んでやる。
先程までの狼狽 えぶりなど無かったかのように、撫子は そうされるのが当たり前といった澄まし顔で十兵衛に世話をされて飯を食べたていた。
「あんたはんらは、まだそないなことを…」
与次兵衛は怒りの為かワナワナと震えながら絞り出すように言うと大きく溜め息を吐き、二人に後で自分の座敷に来るように言い下がっていったのだった。
「はあぁ…」
再び十兵衛に抱きかかえられて二階の部屋へと戻った撫子は、脱力したように畳に突っ伏す。
「どうした?なかなかの開き直りっぷりだったではないか」
ニヤニヤとその様子を眺めながら言う十兵衛をキッと一睨みすると、撫子は徳子の弓と伯父から借りた弓の手入れに取り掛かり始めた。
寝そべり煙草をくゆらす十兵衛の表情 には昨日は ああ言ったものの本当に撫子を巻き込んで良いものか、逡巡の色が見てとれる。
「十兵衛様、何も仰らないでくださりませ。撫子は人形でもなければ、もう幼子でもありませぬ。私 は、あなた様の妻にござります」
十兵衛の視線に気付いた撫子が弓から目を離すこと無く そう言うと、十兵衛は隻眼を瞠り大きく一息吐いて何かを吹っ切るようにフッと笑い、
「そうであったな、すまぬ。おれの弓取り殿は心が強いのう。頼りにしておるぞ」
そう言って煙管で灰吹きを叩いた。
撫子が弓の手入れを終え庭に面した回り廊下に出て庭を眺めていると、父から こってり絞られた新左衛門がやって来た。
「奥方様、なんやお恥ずかしいところを…。十兵衛様は?」
「旦那様はお昼寝を。お父様に叱られたのは、お抱えの妓に手を…だからでござりますか?でも、新左衛門どのは太夫を好いておいででござりましょう?」
「うぇっ、は、あ…な、何で…?」
どうやら撫子は図星を指したようで新左衛門は茹で上がったように真っ赤になり、やっとのこと それだけ吐き出した。
「それはもう、色に出 でにけり…と。太夫はそろそろ年季が明けられるのでは?ご内儀様に、という訳には まいりませぬのですか?」
「かないまへんなあ…」
屈託無く聞いてくる撫子に苦笑いしながら、
「断られましてん。あないな気性でっさかい、真っ当な筋からの身請け話やなんて あれしませんのどっせ?それでも、わてではアカンのやて…」
「え?でも、そのぅ…」
昨夜、新左衛門と珠子が媾合 っていたと聞いた撫子は驚いた。
「へえ。太夫はわての初めての方で、今までズルズルと続いとおりますが、太夫にとっては ただの遊びの腐れ縁どすわ。わての方からは惚れた弱みで切る事が出来しまへんにゃ」
「まあ…」
「面白うも無い話を致しましたなあ、堪忍どっせ。せや、十兵衛様がお目覚めにならはったら今日は太夫に お座敷がかかっとおりますよって、揚屋に ご一緒していただけるように お伝えしとおくれやす」
気まずそうな笑顔を見せて それだけ言うと、新左衛門は そそくさと階下へ降りて行った。
庭づたいに 一階のどこかで箏の稽古をしているらしい音が流れてくるのを聞くとはなしに聞きながら、撫子が部屋への明かり障子を開けると、昼寝をしていたはずの十兵衛が起き上がって脇息にもたれ煙管を くわえている。
「十兵衛様、もう お目覚めに?今の お話を…」
「おう、聞いておった。それにしても お前は」
くっくっと笑う十兵衛に、その膝先にいざり寄った撫子は、
「あれぐらい良うござりましょう?新左衛門どのに頑張って太夫を射止めていただくのが一番だと撫子は思いまする。十兵衛様に要らぬ手出しをせぬよう、暴れ馬に手綱をつけていただきませねば」
いつものように紅い唇をツンと尖らすと、上目遣いに十兵衛を見つめる。
十兵衛は煙管を置くと撫子を抱き寄せ、垂髪に施した鬢削ぎを もてあそびながら、
「あの珠子の思惑は おれを どうこうなどという所には無いと思うぞ?」
と言った。
「それは私 もそう思いまするが、十兵衛様を動かす為の手管 と分かっていても厭わしうござります」
「そういうものか?」
「そういうものにござります」
「む…、」
プイとそっぽを向く撫子の頬を十兵衛は両の掌で包み込むようにして ふにふにと揉んだ。
かえって朝寝が好きな十兵衛の方が、もう起きて煙管などふかしながら撫子のそのような姿をニヤニヤと眺めていた。
「撫子よ、もうそろそろ起きぬか?ん?」
「…」
起きている気配は確かにあるが、返事は無い。
「これ、なーでーしーこー?」
十兵衛が呼ばわりながら夜着に手を掛けると、撫子は中から押さえて
「い、嫌でござりますぅ…」
と、消え入りそうな声で言った。
「どうしたというのだ?」
夜着を少しめくり上げて十兵衛が のぞき込むと、
「だって、わたくし、昨夜あのような…。どの顔で…、恥ずかしくて死にそうでござります」
顔を隠して かぶりを振る撫子は、昨夜の嬌声をこの家の皆に聞かれていたであろう事を気にしていたのだ。
「何だ、
そう言うと十兵衛は夜着の中に手を差し入れて夜着ごと撫子を膝に抱いた。
拗ねたように目を伏せて十兵衛の胸に額をぐりぐりと押し付けてくる撫子の背をさすっていると、唐紙の向こうから
「お目覚めですやろか?朝餉のお仕度が出来とおりますえ。
と、新左衛門が声を掛けて来たのに十兵衛は
「分かった。参ろう」
と答えて撫子の頭をポンポンとなでた。
座敷では既に珠子と主の与次兵衛が膳についている。
ゆうべ座敷を出た時と同じように十兵衛が撫子を抱きかかえて新左衛門と共に入って来ると、珠子が厭な笑顔で
「おはようさんどす。まあぁ…、」
と、含みのある言い方をした。
「よう お
与次兵衛はさすがに何事も無いようにたずねるが、どうしても意味ありげに聞こえてしまう。
「うむ。おれはゆっくりと
十兵衛はそのまま撫子を膝に抱いた格好で安座しながら膳につく。
「そうどすなあ。あないに声を上げはって、さぞ お疲れですやろう」
「これ、」
険のある言い方をする珠子を与次兵衛が咎めようとすると、
「おれが、声を我慢せぬように躾ておるのだ。撫子はそれに応えてくれておるだけでのう。はしたなき娘であるかのような言い様はやめよ。それに、声をひそめておっただけで おぬしも吾子とお励みだったであろう?」
ニヤリと片エクボを彫った十兵衛が顎の無精髭をなでると、珠子は茶碗を取り落とし、新左衛門は盛大にむせた。
「んなっ!」
目を見開き金魚のように口をパクパクさせる珠子と真っ青な顔をした新左衛門に十兵衛は、
「気付かれておらぬと思うてか?おれも舐められたものよのう」
と、のんびりとした口調で言いながら、膝の上の撫子の口に油揚げの煮物を運んでやる。
先程までの
「あんたはんらは、まだそないなことを…」
与次兵衛は怒りの為かワナワナと震えながら絞り出すように言うと大きく溜め息を吐き、二人に後で自分の座敷に来るように言い下がっていったのだった。
「はあぁ…」
再び十兵衛に抱きかかえられて二階の部屋へと戻った撫子は、脱力したように畳に突っ伏す。
「どうした?なかなかの開き直りっぷりだったではないか」
ニヤニヤとその様子を眺めながら言う十兵衛をキッと一睨みすると、撫子は徳子の弓と伯父から借りた弓の手入れに取り掛かり始めた。
寝そべり煙草をくゆらす十兵衛の
「十兵衛様、何も仰らないでくださりませ。撫子は人形でもなければ、もう幼子でもありませぬ。
十兵衛の視線に気付いた撫子が弓から目を離すこと無く そう言うと、十兵衛は隻眼を瞠り大きく一息吐いて何かを吹っ切るようにフッと笑い、
「そうであったな、すまぬ。おれの弓取り殿は心が強いのう。頼りにしておるぞ」
そう言って煙管で灰吹きを叩いた。
撫子が弓の手入れを終え庭に面した回り廊下に出て庭を眺めていると、父から こってり絞られた新左衛門がやって来た。
「奥方様、なんやお恥ずかしいところを…。十兵衛様は?」
「旦那様はお昼寝を。お父様に叱られたのは、お抱えの妓に手を…だからでござりますか?でも、新左衛門どのは太夫を好いておいででござりましょう?」
「うぇっ、は、あ…な、何で…?」
どうやら撫子は図星を指したようで新左衛門は茹で上がったように真っ赤になり、やっとのこと それだけ吐き出した。
「それはもう、色に
「かないまへんなあ…」
屈託無く聞いてくる撫子に苦笑いしながら、
「断られましてん。あないな気性でっさかい、真っ当な筋からの身請け話やなんて あれしませんのどっせ?それでも、わてではアカンのやて…」
「え?でも、そのぅ…」
昨夜、新左衛門と珠子が
「へえ。太夫はわての初めての方で、今までズルズルと続いとおりますが、太夫にとっては ただの遊びの腐れ縁どすわ。わての方からは惚れた弱みで切る事が出来しまへんにゃ」
「まあ…」
「面白うも無い話を致しましたなあ、堪忍どっせ。せや、十兵衛様がお目覚めにならはったら今日は太夫に お座敷がかかっとおりますよって、揚屋に ご一緒していただけるように お伝えしとおくれやす」
気まずそうな笑顔を見せて それだけ言うと、新左衛門は そそくさと階下へ降りて行った。
庭づたいに 一階のどこかで箏の稽古をしているらしい音が流れてくるのを聞くとはなしに聞きながら、撫子が部屋への明かり障子を開けると、昼寝をしていたはずの十兵衛が起き上がって脇息にもたれ煙管を くわえている。
「十兵衛様、もう お目覚めに?今の お話を…」
「おう、聞いておった。それにしても お前は」
くっくっと笑う十兵衛に、その膝先にいざり寄った撫子は、
「あれぐらい良うござりましょう?新左衛門どのに頑張って太夫を射止めていただくのが一番だと撫子は思いまする。十兵衛様に要らぬ手出しをせぬよう、暴れ馬に手綱をつけていただきませねば」
いつものように紅い唇をツンと尖らすと、上目遣いに十兵衛を見つめる。
十兵衛は煙管を置くと撫子を抱き寄せ、垂髪に施した鬢削ぎを もてあそびながら、
「あの珠子の思惑は おれを どうこうなどという所には無いと思うぞ?」
と言った。
「それは
「そういうものか?」
「そういうものにござります」
「む…、」
プイとそっぽを向く撫子の頬を十兵衛は両の掌で包み込むようにして ふにふにと揉んだ。