第10話 長夜
文字数 3,916文字
開け放たれ、煌々とした月光に照らされた書院に延べられた、目も絢な夜具の中で、今宵、比翼連理の契りを交わした二人は、互いに身も心も満たされて抱き合っていた。
「いたわってやれぬで、すまぬな。痛いところは無いか?」
十兵衛は少し、きまずそうに撫子にたずねる。
―「つい我を忘れてしもうた。筆下ろしの時も、こんなに夢中になどならなかったものを」―
「いえ、痛くなど…。良い気持ちにござりましたよ」
頬を染めて恥ずかしげにこたえる撫子を、十兵衛はぎゅっと抱きしめた。
「しかし、疲れたであろう?今宵はもう寝 もうぞ」
そう言われた撫子は不安そうに眉を寄せ、かぶりを振ると、
「嫌。眠りとうありませぬ。十兵衛様、口を吸って…」
と、目に涙を溜める。
十兵衛は優しく触れるだけの口づけをすると、急にどうした事かとたずねた。
「眠るの、怖い…。これが夢だったら…。目が覚めたら、十兵衛様はいないかもしれないもの」
十兵衛は、ぽろぽろと涙をこぼす撫子を手枕し、頭を撫で、背をさすってやった。
「よし、よし。おれの女房殿は何と愛 いのだろう。夢見心地なのは、むしろおれの方だ。おまえのような、若く美しく可愛ゆらしい嫁が貰えるなどと、もののけに化かされておるのではないかと心配になるぞ。ほれ、十兵衛は ちゃんとここにおる。安心して眠れ」
「はい…」
撫子は十兵衛の胸に顔を押し付けると、落ちるように寝息を立て始めた。
―「無理をさせてしもうたのう」―
眠る撫子を抱きしめ、滑らかな肌の感触を楽しんでいた十兵衛は、澄んだ秋の夜風にまぎれて運ばれて来た殺気を、感知した。
「やっと来るか?」
撫子を起こさぬよう、ゆっくりと腕を抜いて起き上がった十兵衛は、乱箱から下帯と袷を取り着流しに身に付けると、愛おしげに撫子の頬をなでて、帯に愛刀・三池典太を差して母屋へ向かった。
「御岳父様 、そろそろのようでござるよ」
「そのようだな。ところで、」
と、市朗は十兵衛のいでたちを見る。
下帯に襦袢無しの着流し、髪は総髪のままで脇差しは無く、愛刀・三池典太のみ。
そして、情事の残り香をまとっていた。
「なんというお姿ですか…」
嘆息する市朗は、たすき掛けに袴を穿いて、腰には大小を帯びている。
「まあ、そう言われるな。身支度をしようにも、可愛い撫子が離してくれませんでな。そういえば、長七郎は?」
「あれはいいのです。わしらとは違う泰平の世を生きる子に、人の斬り方を教える必要はありますまい」
「それもそうでござるな。御岳父様は、人の斬り方を覚えておいでかな?」
市朗はフッと薄く笑う。
「ぬかせ小童 が。誰に向かって口を利いておるのか。おぬしに女の抱き方と人の斬り方を教えたのは、このわしぞ。」
「丸くなられたと思うておったが、やはり あなた様は おれの兄やだ」
と、十兵衛は隻眼をニヤッと笑わせて白い歯を見せる。
「では、やりますか」
「そうですな。ああは申したものの、拙者ももう歳。婿どの、励んでお斬りなされよ」
人を斬るだ何だと物騒な事を、まるで野菜でも切るかのように話しながら、二人は表へと出た。
一方、その頃―
「ええ、クソっ!」
又吉は亀屋で抱えている女郎を抱いていた。
「撫子め、見てやがれ。身体中の穴という穴、ぜんぶ犯してやらねえと、気が納まらねえ!」
相手が売り物であることも忘れ、女郎に乱暴な己れの欲望を打ち付けながら、
「撫子、おおう、なで、し、こぉ…」
と、撫子の名を呼びながら、又吉は果てた。
引き抜いた肉茎を女の湯文字で拭うと、十兵衛に擦り下ろされた背中の痛みを まぎらわす為に、グイっと酒をあおり、
「野郎ども、行くぞ!」
と大声で呼ばわった。
これから、又吉と一緒に夕刻、十兵衛にやられた八名を含む総勢二十一名で、寝静まっているであろう河原家へ、お礼参りとふたたび撫子を拐かしに行こうというのだ。
「又吉ィ」
声を掛けてきたのは父親の与平であった。
「相手がいかな柳生十兵衛であっても、この数でかかれば恐るるに足らん。ところで、おれは撫子のような小便臭い小娘より、母親の内儀の方がいいんだが…」
「親父は年増好みだからな。分かったよ、行ってくら」
どこまでもゲスな親子である。
又吉は手勢を引き連れ、死出の旅とは露とも知らず、河原家へと向かった。
二十一名の賊が、今まさに河原家の板戸を破ろうとする、その時、
「そのような真似をせずとも、柳生十兵衛はここにおるぞ。おれに用であろう?」
思わぬタイミングで声を掛けられ、驚愕する賊どもの前に、門に掲げられた提灯の灯りに照らされた、十兵衛と市朗の姿が浮かび上がる。
「せっかく拾った命を捨てに来るとは、欲の無い連中だな」
十兵衛は笑っているが、賊どもは吹き付ける殺気に圧されて足がすくみ、まるでガマの油のような汗を吹き出している。
「とりあえず、右端の奴、一番目に死ぬか?」
向かって右端、右目が閉じている十兵衛からは見えていないはずの奴が、ヒィ、と声を上げて後すざる。
「一度は見逃してやっておるで、今さら死にとうはないと言われても困る。おれはうぬらを、片っぱしから斬ることに決めたのだ。…どれ、全部で二十一人おるな」
いつの間にやら、月明かりで人数を勘定している。
「といって、撫子が離してくれなんだせいで、今夜は おれも疲れておるでのう。こっちから順々に斬って回るのも面倒じゃ。うぬらの方から、まとめて来ぬか」
と、挑発するように手招きすると、又吉はギリギリと歯噛みして十兵衛をにらみつける。
一人を皮切りに、賊の全員が何とか短刀を抜き払って構えた、その時、市朗がスッと進み出て、一人をいきなり袈裟がけに斬った。
血煙を上げて倒れる姿に、
「何をまた不精ったらしい事を…。さっさと斬ってしまわねば、後片付けをする皆さんが、待たされてしまうではないか」
「おお、そうでありましたな。では」
そう言うと十兵衛は、自分たち二人を半円に囲むように立ってジリジリとしている連中の前を、左から右に駆け抜けると、一番手前の六人が ばたばたと地に倒れていき、しかもそのままピクとも動かなくなっていた。
いつの間に抜いたものか、十兵衛の手には血刀が提げられてある。
「わっ」
それを合図に、賊どもは悲鳴を上げて散り散りに逃げ去ろうとする。
「あ、こら!てめえら、待て」
又吉が叫ぶ間にも、十兵衛と市朗はそやつらを追い掛け容赦なく切り捨てていく。
辺りは一面血の海になり、残るは又吉ただ一人。
「畜生…」
つぶやいて、どこから手に入れたものか、又吉が打刀を抜いたその刹那、刀身は三つに折れて地に落ちた。
と、直後、何とも形容しがたい、悲鳴のようなものを上げて、又吉が転げ回る。
顔を押さえた手のひらの間から、どぱっと鮮血が流れ出した。
十兵衛は、又吉の刀を折ると同時に、鼻ばしらを縦に割っていたのだ。
「次は、どこを斬る?」
低く落ち着いた声で、恐ろしい事を血まみれの愛刀・三池典太を提げた十兵衛がきく。
「うぬを斬るのは、ひどく楽しいな。一寸刻みにしていくのも良いとは思わんか?」
又吉は、腰を抜かして失禁し、もはや発狂寸前だと見てとれる。
そこへ白刃が閃いて、又吉の首がゆっくりと、すべり落ちた。
「何を遊んでおられます。その首は亀屋に届けますでなあ」
市朗が又吉の着ていた物で自分の同田貫の刀身を拭うと、鞘に納めて そう言った。
さすがに十兵衛の傅役 であった男、これも一筋縄ではいかない奴である。
亀屋の表戸を叩くと、待ちかねた様子で与平が出てきたが、そこにいたのが市朗と十兵衛であった事で、又吉の首を見るまでもなく、全てを悟ったようであった。
「ほう。では、ご子息の行状については、何もご存じなかった、と言われますのじゃな?」
慇懃 に市朗がたずねる。
与平がは青い顔をして小刻みに震えているようだった。
「へ、へえ…」
「では、この首は置いていくで、しっかり供養してやるがよい」
布に包んで籠に入れた又吉の首を渡すと、与平の顔色はいよいよ青黒くなって、こちらもまるで死人のようである。
「では、夜分に失礼した。子の事は親の責。追って会所の方から話があるでな」
「あいわかりました…ご迷惑をお掛け申した」
そう言うと与平は、十兵衛の隻眼を穴が開くほど見つめた。
「片目が珍しいかえ?」
「いえ、滅相も…。剣士としてご高名な柳生十兵衛様とお見受けいたします」
「うむ、そうであるが。どこかで会うた事があるか?」
「いいえ。ただ、並ぶものがない、というお噂を存じ上げておるだけでございます」
「そうか」
亀屋を後にした十兵衛は与平の事が気になったが、何も思い出せなかった。
市朗も与平が十兵衛を見ていた様子が気になったが、今のところは何か動きがあるまで放っておく他ない。
月はもう、ずいぶんと西に傾いている。
夜明けが近いのであろう。
河原家の近くまで来ると、まだ鉄サビのような血の臭いがわだかまっていたが、死体と血液はきれいに片付けられていたので、臭いもじきに消えさるはずである。
このところの又吉の目に余る行いを、苦々しく思っていた宿場内と周辺の多くの者が、片付けに手を貸してくれたようだ。
もちろん、あの可哀想な おしま の父と兄も。
市朗は残って待っていた年寄り連中と、会所に行くというので、十兵衛は撫子の待つ離れへと帰った。
そろりと書院の中をうかがうと、撫子はまだぐっすりと眠っている。
十兵衛は急いで湯をつかい返り血を洗い流し、撫子の眠る夜具にすべりこんだ。
「ん…、十兵衛様?」
「起こしてしもうたか。ちと厠にな。おまえも抱っこして、連れて行ってやろうよ?」
「もう、子供扱いして。まだ後でよろしゅうござります」
寝ぼけている撫子を腕枕して胸に抱くと、十兵衛は深い深い眠りに落ちていった。
「いたわってやれぬで、すまぬな。痛いところは無いか?」
十兵衛は少し、きまずそうに撫子にたずねる。
―「つい我を忘れてしもうた。筆下ろしの時も、こんなに夢中になどならなかったものを」―
「いえ、痛くなど…。良い気持ちにござりましたよ」
頬を染めて恥ずかしげにこたえる撫子を、十兵衛はぎゅっと抱きしめた。
「しかし、疲れたであろう?今宵はもう
そう言われた撫子は不安そうに眉を寄せ、かぶりを振ると、
「嫌。眠りとうありませぬ。十兵衛様、口を吸って…」
と、目に涙を溜める。
十兵衛は優しく触れるだけの口づけをすると、急にどうした事かとたずねた。
「眠るの、怖い…。これが夢だったら…。目が覚めたら、十兵衛様はいないかもしれないもの」
十兵衛は、ぽろぽろと涙をこぼす撫子を手枕し、頭を撫で、背をさすってやった。
「よし、よし。おれの女房殿は何と
「はい…」
撫子は十兵衛の胸に顔を押し付けると、落ちるように寝息を立て始めた。
―「無理をさせてしもうたのう」―
眠る撫子を抱きしめ、滑らかな肌の感触を楽しんでいた十兵衛は、澄んだ秋の夜風にまぎれて運ばれて来た殺気を、感知した。
「やっと来るか?」
撫子を起こさぬよう、ゆっくりと腕を抜いて起き上がった十兵衛は、乱箱から下帯と袷を取り着流しに身に付けると、愛おしげに撫子の頬をなでて、帯に愛刀・三池典太を差して母屋へ向かった。
「
「そのようだな。ところで、」
と、市朗は十兵衛のいでたちを見る。
下帯に襦袢無しの着流し、髪は総髪のままで脇差しは無く、愛刀・三池典太のみ。
そして、情事の残り香をまとっていた。
「なんというお姿ですか…」
嘆息する市朗は、たすき掛けに袴を穿いて、腰には大小を帯びている。
「まあ、そう言われるな。身支度をしようにも、可愛い撫子が離してくれませんでな。そういえば、長七郎は?」
「あれはいいのです。わしらとは違う泰平の世を生きる子に、人の斬り方を教える必要はありますまい」
「それもそうでござるな。御岳父様は、人の斬り方を覚えておいでかな?」
市朗はフッと薄く笑う。
「ぬかせ
「丸くなられたと思うておったが、やはり あなた様は おれの兄やだ」
と、十兵衛は隻眼をニヤッと笑わせて白い歯を見せる。
「では、やりますか」
「そうですな。ああは申したものの、拙者ももう歳。婿どの、励んでお斬りなされよ」
人を斬るだ何だと物騒な事を、まるで野菜でも切るかのように話しながら、二人は表へと出た。
一方、その頃―
「ええ、クソっ!」
又吉は亀屋で抱えている女郎を抱いていた。
「撫子め、見てやがれ。身体中の穴という穴、ぜんぶ犯してやらねえと、気が納まらねえ!」
相手が売り物であることも忘れ、女郎に乱暴な己れの欲望を打ち付けながら、
「撫子、おおう、なで、し、こぉ…」
と、撫子の名を呼びながら、又吉は果てた。
引き抜いた肉茎を女の湯文字で拭うと、十兵衛に擦り下ろされた背中の痛みを まぎらわす為に、グイっと酒をあおり、
「野郎ども、行くぞ!」
と大声で呼ばわった。
これから、又吉と一緒に夕刻、十兵衛にやられた八名を含む総勢二十一名で、寝静まっているであろう河原家へ、お礼参りとふたたび撫子を拐かしに行こうというのだ。
「又吉ィ」
声を掛けてきたのは父親の与平であった。
「相手がいかな柳生十兵衛であっても、この数でかかれば恐るるに足らん。ところで、おれは撫子のような小便臭い小娘より、母親の内儀の方がいいんだが…」
「親父は年増好みだからな。分かったよ、行ってくら」
どこまでもゲスな親子である。
又吉は手勢を引き連れ、死出の旅とは露とも知らず、河原家へと向かった。
二十一名の賊が、今まさに河原家の板戸を破ろうとする、その時、
「そのような真似をせずとも、柳生十兵衛はここにおるぞ。おれに用であろう?」
思わぬタイミングで声を掛けられ、驚愕する賊どもの前に、門に掲げられた提灯の灯りに照らされた、十兵衛と市朗の姿が浮かび上がる。
「せっかく拾った命を捨てに来るとは、欲の無い連中だな」
十兵衛は笑っているが、賊どもは吹き付ける殺気に圧されて足がすくみ、まるでガマの油のような汗を吹き出している。
「とりあえず、右端の奴、一番目に死ぬか?」
向かって右端、右目が閉じている十兵衛からは見えていないはずの奴が、ヒィ、と声を上げて後すざる。
「一度は見逃してやっておるで、今さら死にとうはないと言われても困る。おれはうぬらを、片っぱしから斬ることに決めたのだ。…どれ、全部で二十一人おるな」
いつの間にやら、月明かりで人数を勘定している。
「といって、撫子が離してくれなんだせいで、今夜は おれも疲れておるでのう。こっちから順々に斬って回るのも面倒じゃ。うぬらの方から、まとめて来ぬか」
と、挑発するように手招きすると、又吉はギリギリと歯噛みして十兵衛をにらみつける。
一人を皮切りに、賊の全員が何とか短刀を抜き払って構えた、その時、市朗がスッと進み出て、一人をいきなり袈裟がけに斬った。
血煙を上げて倒れる姿に、
「何をまた不精ったらしい事を…。さっさと斬ってしまわねば、後片付けをする皆さんが、待たされてしまうではないか」
「おお、そうでありましたな。では」
そう言うと十兵衛は、自分たち二人を半円に囲むように立ってジリジリとしている連中の前を、左から右に駆け抜けると、一番手前の六人が ばたばたと地に倒れていき、しかもそのままピクとも動かなくなっていた。
いつの間に抜いたものか、十兵衛の手には血刀が提げられてある。
「わっ」
それを合図に、賊どもは悲鳴を上げて散り散りに逃げ去ろうとする。
「あ、こら!てめえら、待て」
又吉が叫ぶ間にも、十兵衛と市朗はそやつらを追い掛け容赦なく切り捨てていく。
辺りは一面血の海になり、残るは又吉ただ一人。
「畜生…」
つぶやいて、どこから手に入れたものか、又吉が打刀を抜いたその刹那、刀身は三つに折れて地に落ちた。
と、直後、何とも形容しがたい、悲鳴のようなものを上げて、又吉が転げ回る。
顔を押さえた手のひらの間から、どぱっと鮮血が流れ出した。
十兵衛は、又吉の刀を折ると同時に、鼻ばしらを縦に割っていたのだ。
「次は、どこを斬る?」
低く落ち着いた声で、恐ろしい事を血まみれの愛刀・三池典太を提げた十兵衛がきく。
「うぬを斬るのは、ひどく楽しいな。一寸刻みにしていくのも良いとは思わんか?」
又吉は、腰を抜かして失禁し、もはや発狂寸前だと見てとれる。
そこへ白刃が閃いて、又吉の首がゆっくりと、すべり落ちた。
「何を遊んでおられます。その首は亀屋に届けますでなあ」
市朗が又吉の着ていた物で自分の同田貫の刀身を拭うと、鞘に納めて そう言った。
さすがに十兵衛の
亀屋の表戸を叩くと、待ちかねた様子で与平が出てきたが、そこにいたのが市朗と十兵衛であった事で、又吉の首を見るまでもなく、全てを悟ったようであった。
「ほう。では、ご子息の行状については、何もご存じなかった、と言われますのじゃな?」
与平がは青い顔をして小刻みに震えているようだった。
「へ、へえ…」
「では、この首は置いていくで、しっかり供養してやるがよい」
布に包んで籠に入れた又吉の首を渡すと、与平の顔色はいよいよ青黒くなって、こちらもまるで死人のようである。
「では、夜分に失礼した。子の事は親の責。追って会所の方から話があるでな」
「あいわかりました…ご迷惑をお掛け申した」
そう言うと与平は、十兵衛の隻眼を穴が開くほど見つめた。
「片目が珍しいかえ?」
「いえ、滅相も…。剣士としてご高名な柳生十兵衛様とお見受けいたします」
「うむ、そうであるが。どこかで会うた事があるか?」
「いいえ。ただ、並ぶものがない、というお噂を存じ上げておるだけでございます」
「そうか」
亀屋を後にした十兵衛は与平の事が気になったが、何も思い出せなかった。
市朗も与平が十兵衛を見ていた様子が気になったが、今のところは何か動きがあるまで放っておく他ない。
月はもう、ずいぶんと西に傾いている。
夜明けが近いのであろう。
河原家の近くまで来ると、まだ鉄サビのような血の臭いがわだかまっていたが、死体と血液はきれいに片付けられていたので、臭いもじきに消えさるはずである。
このところの又吉の目に余る行いを、苦々しく思っていた宿場内と周辺の多くの者が、片付けに手を貸してくれたようだ。
もちろん、あの可哀想な おしま の父と兄も。
市朗は残って待っていた年寄り連中と、会所に行くというので、十兵衛は撫子の待つ離れへと帰った。
そろりと書院の中をうかがうと、撫子はまだぐっすりと眠っている。
十兵衛は急いで湯をつかい返り血を洗い流し、撫子の眠る夜具にすべりこんだ。
「ん…、十兵衛様?」
「起こしてしもうたか。ちと厠にな。おまえも抱っこして、連れて行ってやろうよ?」
「もう、子供扱いして。まだ後でよろしゅうござります」
寝ぼけている撫子を腕枕して胸に抱くと、十兵衛は深い深い眠りに落ちていった。