第19話 おはねのひいさま
文字数 2,170文字
冬の初めの京を、十兵衛と撫子は訪れていた。
当時は新年に合わせて新しい着物を誂える習慣があり、それを見越して宿場の呉服屋と小間物屋に置く商品の仕入れをする為である。
その日、撫子は叔父に任せてある店で見本の確認や発注をするので、その間 十兵衛は京に道場を構える弟子を訪ねに街へ出ていたのだった。
「京に出たのは久しぶりだが、ここは変わらぬのう。それにしても…」
十兵衛は自分を尾 けて来る若い侍がいることが気にかかる。
「雑な尾行よのう。このまま信三郎の道場に行って、何か厄介な事になればいかんな。どれ…」
少し歩みを早めてヒョイと狭い小路に入った十兵衛に、尾行者もあわてて駆け出し後を追って小路に入ると、
「おれに何か用か?」
男の目の前に十兵衛がいた。
予想もしていなかったとみえて、男は混乱して反射的に刀に手を掛けるが、その柄頭 に十兵衛は添えるように拳を当てて、
「このような街中で何をしようというのだ」
と、少し呆れたように言う。
男はますますアワアワして刀を抜こうとするが、刀身が鞘に吸い付いているかのように、びくともしない。
十兵衛の拳は、そっと触れるように添えられているだけで、全く力が入っているように見えぬにもかかわらず、である。
「良いのか?おぬしが刀を抜けば、おれも抜かぬ訳にはいくまい。そうなれば、おぬしの命は無いぞ。おれが誰かを知ってて尾 けて来たのであろうが」
薄く笑みさえ浮かべて静かに諭すように話す十兵衛の言葉に、男がやっと我に返り、柄から手を離したのを見て十兵衛も拳を引く。
すると男は、緊張の糸が切れたようにヘナヘナと へたりこんでしまった。
しばし後 、若侍と十兵衛は茶店にいた。
戸沢 喜一郎と名乗った男は、ぬるめの茶を一気に流し込み ひと心地ついたが、まだ蒼白で かすかに震えている。
それもそのはず、まだ十代の後半、二十歳 になるかならずかといったふうな様子で、真剣での立ち合いなど稽古でも経験したことは無いであろう若侍が、相手をそれと知っていて柳生十兵衛に向かって刀を抜こうとしたのである。
今になって、自分のしでかしへの恐怖が込み上げて来るのも、無理からぬ事だろう。
「で?おぬし、何故おれを尾けておった?」
と、何も気にするふうも無く十兵衛が問うと、それに対する戸沢の答えは意外なものであった。
「実は、某がお仕えしている主人は柳生様に所縁 がございまして、京に御滞在とのお噂を聞き、それがまことならば屋敷にお招きするようにと言いつかっております。それで、お声を掛ける機をうかがっておったのでございます」
「ほう、おれに所縁が…?それは、どなた様かな」
「烏丸光広様の御息女、まえ様にございます」
「烏丸光広様の御名は存じ上げておる。おれの父上や禅の師であった沢庵和尚と親交があられたとか。しかし、おれは一面識も無いぞ。ましてその御息女様など…」
「主人は、柳生様が覚えておられずとも、会えばわかると申しておりました」
「ふうん…」
「先 の ご無礼は、後程 どのようにでも お詫び致しますゆえ、平にご容赦いただき、主人の招きをお受けいただけませぬでしょうか」
―これは何かの罠かもしれない―
十兵衛は一瞬そう考えたが、額を膝に付かんばかりに頭を下げる戸沢が嘘を言っているようにも見えなかったので、あえて飛び込んでみることにした。
「わかった。これからお訪ねしても良いのであれば、お招きを受けようではないか」
「それは、かたじけのうございます。それでは、案内 させていただきます」
連れ立って歩きながら、戸沢は十兵衛を観察していた。
将軍家兵法指南の家の嫡男であり、家名に恥じぬ剣の天稟 を持つ十兵衛は有名人で、戸沢も噂はいろいろと聞いている。
いはく、梟雄である。
いはく、剛勇絶倫である。
いはく、酒毒による狂気に侵されている。
女主人に引き会わせるには不安を感じていたが故の尾行であったのだが、戸沢には目の前の人物が噂のヌシとは とても思えなかった。
現に尾行がバレた時、噂を聞いていた戸沢は殺されると思って刀を抜こうとしたのに、死にたくなければ刀を抜くなと咎められたのだ。
「戸沢どのは、どちらの流派を学ばれておいでか?強くなりたければ、他流も学んでみられるがよい。よければ、おれの弟子の道場を紹介してしんぜよう」
自身は大身旗本でありながら、身分が低く親子ほども歳の離れた戸沢にも丁寧な口調で話す十兵衛に、戸沢は好感を抱いた。
程無くして、戸沢は一軒の屋敷の門前で足を止めて呼ばわると、中から戸を開けた老人に、
「まえ様に、柳生十兵衛様を お連れしたと伝えて下され」
と告げて、十兵衛を邸内に招き入れた。
屋敷は小さいながらも、趣味人・風流人として名高かった烏丸公卿の娘御の住まいだけあって、簡素なように見えて庭も邸も隅々まで女主人の美意識の行き届いた見事なものである。
十兵衛が通された茶室も、床 に置かれた香炉には伽羅が焚かれ、能筆家であった烏丸公卿の筆による軸が掛けられていた。
「えろう お待たせしてしもうて…」
唐紙が開き、入って来たのは肩までの切り髪に袈裟を掛けた尼僧であった。
当時は新年に合わせて新しい着物を誂える習慣があり、それを見越して宿場の呉服屋と小間物屋に置く商品の仕入れをする為である。
その日、撫子は叔父に任せてある店で見本の確認や発注をするので、その間 十兵衛は京に道場を構える弟子を訪ねに街へ出ていたのだった。
「京に出たのは久しぶりだが、ここは変わらぬのう。それにしても…」
十兵衛は自分を
「雑な尾行よのう。このまま信三郎の道場に行って、何か厄介な事になればいかんな。どれ…」
少し歩みを早めてヒョイと狭い小路に入った十兵衛に、尾行者もあわてて駆け出し後を追って小路に入ると、
「おれに何か用か?」
男の目の前に十兵衛がいた。
予想もしていなかったとみえて、男は混乱して反射的に刀に手を掛けるが、その
「このような街中で何をしようというのだ」
と、少し呆れたように言う。
男はますますアワアワして刀を抜こうとするが、刀身が鞘に吸い付いているかのように、びくともしない。
十兵衛の拳は、そっと触れるように添えられているだけで、全く力が入っているように見えぬにもかかわらず、である。
「良いのか?おぬしが刀を抜けば、おれも抜かぬ訳にはいくまい。そうなれば、おぬしの命は無いぞ。おれが誰かを知ってて
薄く笑みさえ浮かべて静かに諭すように話す十兵衛の言葉に、男がやっと我に返り、柄から手を離したのを見て十兵衛も拳を引く。
すると男は、緊張の糸が切れたようにヘナヘナと へたりこんでしまった。
しばし
戸沢 喜一郎と名乗った男は、ぬるめの茶を一気に流し込み ひと心地ついたが、まだ蒼白で かすかに震えている。
それもそのはず、まだ十代の後半、
今になって、自分のしでかしへの恐怖が込み上げて来るのも、無理からぬ事だろう。
「で?おぬし、何故おれを尾けておった?」
と、何も気にするふうも無く十兵衛が問うと、それに対する戸沢の答えは意外なものであった。
「実は、某がお仕えしている主人は柳生様に
「ほう、おれに所縁が…?それは、どなた様かな」
「烏丸光広様の御息女、まえ様にございます」
「烏丸光広様の御名は存じ上げておる。おれの父上や禅の師であった沢庵和尚と親交があられたとか。しかし、おれは一面識も無いぞ。ましてその御息女様など…」
「主人は、柳生様が覚えておられずとも、会えばわかると申しておりました」
「ふうん…」
「
―これは何かの罠かもしれない―
十兵衛は一瞬そう考えたが、額を膝に付かんばかりに頭を下げる戸沢が嘘を言っているようにも見えなかったので、あえて飛び込んでみることにした。
「わかった。これからお訪ねしても良いのであれば、お招きを受けようではないか」
「それは、かたじけのうございます。それでは、
連れ立って歩きながら、戸沢は十兵衛を観察していた。
将軍家兵法指南の家の嫡男であり、家名に恥じぬ剣の
いはく、梟雄である。
いはく、剛勇絶倫である。
いはく、酒毒による狂気に侵されている。
女主人に引き会わせるには不安を感じていたが故の尾行であったのだが、戸沢には目の前の人物が噂のヌシとは とても思えなかった。
現に尾行がバレた時、噂を聞いていた戸沢は殺されると思って刀を抜こうとしたのに、死にたくなければ刀を抜くなと咎められたのだ。
「戸沢どのは、どちらの流派を学ばれておいでか?強くなりたければ、他流も学んでみられるがよい。よければ、おれの弟子の道場を紹介してしんぜよう」
自身は大身旗本でありながら、身分が低く親子ほども歳の離れた戸沢にも丁寧な口調で話す十兵衛に、戸沢は好感を抱いた。
程無くして、戸沢は一軒の屋敷の門前で足を止めて呼ばわると、中から戸を開けた老人に、
「まえ様に、柳生十兵衛様を お連れしたと伝えて下され」
と告げて、十兵衛を邸内に招き入れた。
屋敷は小さいながらも、趣味人・風流人として名高かった烏丸公卿の娘御の住まいだけあって、簡素なように見えて庭も邸も隅々まで女主人の美意識の行き届いた見事なものである。
十兵衛が通された茶室も、
「えろう お待たせしてしもうて…」
唐紙が開き、入って来たのは肩までの切り髪に袈裟を掛けた尼僧であった。