第36話 女難 其の十四

文字数 3,103文字

撫子はくすぐったくも心地よい甘い快感に、眠りの中から(うつつ)へと引き戻された。ちゅっちゅっと肌を吸われる感触に、思わず吐息が漏れる。
「ん、ぅんっ……はぁ、あ」
目を開くと、夜も明け白々とした中で胸に舌を這わせる十兵衛と目が合った。白い乳房には、紅梅が咲いたように点々と跡が残されていた。
「もう……。このような お(たわむ)れを、いけませぬ」
いつものように唇を尖らせて言うが、瞳は言葉とは裏腹に情欲に潤む。
「口では そうは言うても、なあ?」
片えくぼを彫ってニヤリと笑った十兵衛は、撫子の寝間着の内へと手を滑らせた。
()いな。夫婦(めおと)はそうでなくてはイカン。しかし、朝餉(あさげ)の用意が出来たそうじゃ。交合(まぐわ)いは腹拵(はらごしら)えの後にいたせ」
枕元(まくらもと)で二人のジャレ合いを眺めていたらしい たらちねが、満面の笑みを浮かべている。
「これは、たらちね様。そこに居られましたのか。ご無礼を致しました」
十兵衛は隻眼を(みは)り 、口から心の臓が飛び出るかというほどに驚いたが、それを隠して平静を装うと夜具から身を起こし、撫子も抱え起こして衿の合わせを閉じ(あらわ)になっていた乳房をしまってやった。
気づいているのかいないのか、撫子は まだ目の回りの赤みも冷めやらぬ(なまめ)かしい表情(かお)でにっこり笑うと、
「お仕度を致しまする。お待ち下さりませ」
と言いおいて続きの間へと消えた。

火鉢の炭が()こっているのは市朗がやっておいてくれたものであろう。十兵衛が夜具を畳み安座して煙管(きせる)をくゆらせ始めると、たらちねが膝内へ入って来た。そうしていると撫子の幼い頃が思い出されて何とも言えず温かい気持ちになり、つい頭などなでたりしてしまう。
ー「そうか、たらちね様と撫子は面差しが似ているのだ」ー
「どうした?わしが三國一の美女だからというて、見蕩(みと)れるでないぞ」
「ああ、お許しを。それはさておき、たらちね様は大きうなられましたな?」
昨夜は十兵衛の膝下より小さく人形のようだった たらちねが、今朝は普通の子供ぐらいの大きさになっていた。
「うむ。わしはあまり人に姿を見られるのを頓着しておらんでな。うっかり林家(ここ)の者達に見られた時にびっくりさせてはいかんじゃろ?ついでにわしは市朗の孫だという事にしておいたから、おぬしも心得ておくがよい。叔父上(おじうえ)
「たらちね様のように可愛ゆらしい姪なら、嬉しゅうござるな」
隻眼を細めて、十兵衛が たらちねの髪を手で()きながら幼かった撫子との日々を思い出していると、唐紙が開いて小袖に着替えた撫子が乱箱(みだればこ)を抱えて戻って来た。
「まあ。仲の およろしいこと」
「妬くな妬くな。わしは先に階下(した)に行くぞ」
いたずらっ子のような笑みを浮かべ、たらちねはパタパタと足音を立てて出て行く。それを見送り撫子はふふっと笑った。

「婿どの、先にいただいておるぞ」
座敷では既に皆が膳についていた。与次兵衛(よじべえ)新左衛門(しんざえもん)親子はいたが、気分がすぐれぬとやらで太夫の姿はない。
「そやし、河原様のとこは美男美女揃いの お家でんな。娘御(むすめご)も御孫様も御主人によう似てはります」
膳についた撫子と市朗、たらちねを見て新左衛門が言うのを
「娘と孫はともかく、このじじいが美男などと世辞も過ぎれば嫌味ですぞ」
市朗は笑って流したが、五十路の今も男の色気の漂う美男であるのは間違いない。
「今日は撫子と婿どのと孫は出掛けますゆえ、わしが警固の任につきましょうぞ。老いたりとはいえ新陰流の印可(いんか)をいただいた身。まだまだ賊ごときに遅れはとりませぬ」
それを聞いていた給仕の女衆(おんなし)の目の色が変わった事からも、それがうかがえる。くっくっと与次兵衛が笑いながら、
「それは有難いことどすが、女衆達の気ぃがそぞろになって大変どっせ」
と言うのに流し目でニヤリと笑って見せた市朗は、謙遜してみせるものの自分が今でも十二分にイイ男だと知っているのである。
叔父上(おじうえ)叔母上(おばうえ)、早う参りましょう」
「これこれ、おたね。そう急かすな」
「だって じじ様……」
さすがに童女に見える たらちねを、そのまま母を意味する名で呼ぶ訳にもいかず、『た』らち『ね』と頭と尾の文字を取って呼ぶ事にしたらしい。祖父と孫の寸劇を演じる二人に撫子が
「そうですね。では わたくしは先に お部屋へ戻り、旦那様のお出掛けの ご用意を致しましょう」
と言い、ささっと握り飯を作って二階へ戻って行った。

二階へ戻った撫子は、先代の吉野太夫・徳子の(のこ)した美しい唐櫃(からびつ)の上に載せられた水盤の前に握り飯を置き、
「善女様おはようござります。どうぞ、お召し上がりくださりませ」
と、手を合わせた。
すると、浅い水盤の底が見えないほど深くなったかと思うと、金色(こんじき)に輝く小さな蛇が姿を現した。善女龍王である。
「おはよう、撫子。私はおまえの神ではないのに。このような事をせずともよいぞ」
「いいえ。善女様は わたくしの大切な旦那様をお守り下さりました。御恩に報いるのは当たり前の事にござります」
善女龍王は少し驚いたように目を ぱちくりさせると、微笑んだ。
「そうか。では遠慮無う いただこう」
ー「なんと お可愛ゆらしいのでしょう……」ー
握り飯をかじる小さな金色の蛇を眺めながら、撫子は心の内でつぶやいたのだった。食べ終えた善女龍王は、昨夜のように何かあれば水盤に呼び掛けるように言い残して水底へと消えて行った。

半刻(はんとき)あまり後、洛北にある今宮神社の参道を十兵衛と撫子、たらちねは歩いていた。
六丸(りくまる)のおる大徳寺は この神社のすぐ隣なのだ」
「まあ、左様にござりますか」
「何やら良い匂いがするぞ!炙り餅だと」
「お詣りが先にござりますよ」
何でもない話をしながら、撫子は幼い日に同じように この参道を徳子と十兵衛と三人で歩いた事を思い出す。
ー「あの時、炙り餅の店を見つけたのは わたくしで、お詣りが先だと言ったのは徳子姉(とくこねえ)だった……」ー
「十兵衛さま、この件が片付きましたら ご一緒に徳子姉のお墓に お参りしとうござります」
撫子が不意に徳子の名を出した事に十兵衛は少し驚いたように隻眼を(みは)ったが、すぐに思い出した。
「そうか。ここは前に徳子と三人で来た事があったのう。墓参りか……。うむ、そうしよう」
十兵衛がホロ苦い笑みを浮かべたのを見て、撫子は少し胸がチクリと痛んだが何も無いふりをして笑って見せる。二人の間には、撫子には窺い知れない何かがある事も、死人には勝てない事も、分かっているのだ。
「十兵衛、肩ぐるませよ」
はしゃぐ たらちねを見ながら、あの頃が一番幸せだったのかもしれないと思う撫子であった。

参拝を終えて、店先の縁台で たらちねは炙り餅に舌鼓を打っていた。
「これは美味いのう。おかわりしても良いか?」
「それはもう、お好きなだけ。ほらほら、垂れておりますよ」
かいがいしく たらちねの世話を焼く撫子を見ながら、十兵衛はいつかの未来に己との子の世話を焼く撫子の姿を夢想する。
ー「撫子は良い妻だ。きっと良い母になる。おれも、良い夫・良い父になれるよう努めねばな」ー
しばらくそうしていると、不意に たらちねが顔を上げた。
「十兵衛、行ってまいれ」
十兵衛も何かに気づき ゆったりと縁台から立ち上がると、愛刀・三池典太の(つか)を拳で一つ とんと叩き、白い歯を見せて笑う。
「はっ。行ってまいります。撫子をお頼み申します」
「まかせよ」
訳も分からず不安そうな(おも)もちで一人と一柱の顔を見比べる撫子の頭を、十兵衛は子供にするようにワシャワシャとなでて、
「心配せずともよい。すぐに戻るで、たらちね様、ではないな。おたねと遊んでおってくれ」
と言うと、散策にでも行くような風情でふらりと歩き出す。その背中を見送っていると、遠くに覚えのある男が十兵衛を待つように立っているのが見えたのであった。
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登場人物紹介

柳生十兵衛三巌

主人公

剣豪として知られる柳生家当主で少し助平なイケおじ


河原 撫子

ヒロイン

美人で爆乳で淫らな十兵衛の嫁

柳生但馬守宗矩

故人

主人公・十兵衛の父

助平ジジイ

河原 市朗

ヒロイン・撫子の父

幼少の頃の十兵衛の傅役だった

イケオジィ

河原 すず

ヒロイン・撫子の母

若い頃、十兵衛の母・おりんの方様の侍女だった

ばあや

撫子のばあや

撫子が生まれる前は、すずの侍女だった

徳川家光

三代将軍


お藤

宗矩の側室

六丸の母

柳生 六丸

十兵衛の末弟

宗矩と お藤の子


お蔦

茶店の娘

撫子の幼なじみ


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