第21話 秘め事
文字数 4,835文字
「十兵衛様、お帰りなされませ」
玄関で満面の笑みを浮かべた撫子が出迎える。
二人は河原の伯父の店ではなく、別宅に宿泊していた。
「あのう、十兵衛様?今日は お弟子の方の道場へ行かれると聞いておりましたが…。いったい何の道場でござりますか?ずいぶんと良い香りがいたしまするが…」
刀を受け取る撫子は笑顔でたずねるが、目が笑っていない。
十兵衛は一瞬、刀を渡して良いものかと思ったが、
「うむ、長くなるでのう。あちらでゆるりと話そうぞ」
と、落ち着きはらったふりをして答えた。
部屋着に着替える十兵衛を手伝う撫子は、十兵衛の懐から落ちた紅梅色の絹の手巾を拾い上げた。
濃く伽羅の焚き込まれた あきらかに女物の それを手に、撫子は厭わしげに眉間にシワを寄せて聞く。
「十兵衛様、色事の お弟子さんと お稽古でござりましたのですか?それはそれは、楽しうござりましたでしょうね」
「なっ!?馬鹿を申すな!って、待て、泣かぬでくれ。話を聞かぬか!これ」
撫子は、ぽろぽろと白珠 の涙をこぼしていたのだった。
「~と、いう事だったのだ」
二人は、座敷で炬燵 をはさんで向かい合い、十兵衛が煙管をくわえて今日の出来事を全て話すと、
「これがいただいてきた掛け軸だ。素晴らしいだろう?」
と、嬉しそうに広げて撫子に見せた。
これも伽羅の香りがする掛け軸を見もせず、撫子は まだ不機嫌そうに答える。
「烏丸公卿 様の お軸や短冊や お手紙なら、曾 お祖父 様が親しくされておられたとかで、我が家の屋敷蔵にもござりますよ。帰ったらご覧になられて下さりませ」
「これこれ、お前は幼い頃から機嫌を直すのに時が要るのう。ま、そういうところが、いっそう可愛ゆらしいのだが」
十兵衛は隻眼を細めて手を伸ばすと、ふくれっ面をした撫子の頬を優しくふにふにとつまんだ。
柔らかな頬から手を離した十兵衛は、悩まし気な顔をして撫子を見つめる。
「撫子よ、対面ではちと遠いのう。横に来てくれ。今話した事は左門の死の全てでは無い。柳生庄の、ほんの数人の家士と父上と、おれだけが知っている秘密があるのだ。その内、生きて在るのは今や おれ一人。頼む、撫子。一緒に背負うてくれぬか?」
「それが十兵衛様のお望みでござりますれば…」
本音は早逝した絶世の美青年の死の真相に強く好奇心をそそられたのだが、それを隠して撫子は炬燵のやぐらの面を移動した。
「さっき、左門は朝の声掛けに行ったら夜具の中で冷たくなっていた。と、 まえ様に説明したと申したが、本当は箸で自らの喉を突いて こと切れておったというのだ…」
「何という事でござりましょう」
先に聞いた話とは全く違った、凄惨な左門の死に様に撫子は息を飲む。
「しかも、喉を突く前に自らの指を噛み千切り、その血で上様への恋情と件 の お振りの方様への呪いの詞を壁に唐紙に埋め尽くすように書き、その中で果てておったと」
「それはまことにござりまするか?あまりにも、何と申しましょうか、その、」
言い難 そうな撫子を察して十兵衛が、
「物語のようだのう。おれも、俄には信じられなかったが、江戸に報せをくれた左門の世話係というのが、撫子よ、おまえ爺様の石長 老でなあ。あの実直な老爺 が報せて来たことだ、嘘や偽りのあろうはずもない」
煙草をくゆらせながら言葉をつぐ。
「あの お祖父様が、そのような お報せを…」
撫子は亡き石長の祖父の事を思い出す。
河原の祖父と違い、寡黙で近寄りがたい雰囲気のあるものの、女孫の撫子には優しく甘い祖父であったが、嘘偽りや不正を嫌い、その事だけは厳しく『ならぬ』と言い聞かされた。
その祖父が報せた事ならば、事実に相違ないであろう。
「そうして、左門の死後は病死を理由にただちに荼毘に付されて、養生していた離れ屋も外から板で打ち付けられ人目に触れぬようにされたのだ」
黙りこんでしまった撫子を見て十兵衛は、
「すまんな。おまえには ちと惨 たらしい話であったか?」
と、気遣った。
「いえ、そうではありませぬ。先に聞いたお話よりも、むしろ人間味があって私 には好ましう思えます」
「そうか。この話には続きがあってのう」
「聞きとうござります」
「うむ。左門の死後ほどなくして、大奥に美しい若侍の幽霊が出るという噂が流れたのだ」
「それは…」
「そう、左門ではないかと言う者もおったが、いかんせん大奥には左門の顔を知っておる方はおらぬでな。男はおらぬはずの大奥で、若侍の後ろ姿を見掛けて不審に思い声をかけると、振り向いた そやつは見蕩れるほどの美しい顔だが、首から流れ出した血に染まって真っ赤であったとか。他にも例の ご側室、お振りの方様が夜中に目を覚ますと、寝所の隅から じっと こちらを見つめる血まみれの若侍がおり、驚いて人を呼ぶと消えるといった話もあった」
「その お話は、いくら何でも出来過ぎかと…」
能か歌舞伎のような怪談話に、撫子は苦笑いする。
「おれも そう思うたよ。当時の柳生家は大名に列せられたばかり。快く思わぬ向きから流された噂ではないかと。しかし、さっきも言うたが左門の本当の死因は柳生家の忠臣である ご老人方によって固く秘されておったのに、幽霊は首から血を流しておるという」
「あ…!」
「当時のおれは書院番として城勤めをしておったので、何度も上様に捕まって左門は本当に眠っておる間に死んだのかと問い質 されたものよ。荼毘に付しておらなんだら墓を暴かれかねぬご様子であった」
十兵衛は一息つき、煙管の灰を灰吹きに落とすと新しい煙草を詰める。
「そうこうしておる内、左門が亡うなった次の年に お振り様が亡くなられ、同時に幽霊騒動も収まったが、今度は左門が お振りの方様を取り殺したという噂が流れて、父上は随分と胃の痛い思いをなされておられたようだ」
煙草の煙を輪に吹いて十兵衛が撫子を見ると、
「私 は、それは違うと思いまする。私が左門どのなら、上様をお迎えにまいりますよ。恋敵 として お振りの方様を恨んでいるからといって、あの世で憎い相手と顔を付き合わせて何と致しましょう」
と言って紅い唇を弦月の形に、にっこりと笑う。
「もしも十兵衛様が他の女人に お心を移されるような事があれば、私 は死んでから取り殺しにくるような手間は踏みませぬよ?」
撫子の目は、笑っていなかった。
ククっと十兵衛は笑うと、撫子の頭を幼子にするようにワシワシとなでる。
「おまえは そういうところが、実に良い。愛 いのう」
しかしすぐに顔を曇らせると、煙管から昇る煙を目で追いながら驚きの言葉を口にした。
「実はな、お振りの方様が亡くなられた後 、おれは父上の命 で柳生庄へ戻り、閉じられた離れへ入ったのだ」
撫子は黒目がちの目をこぼれ落ちそうなほどに瞠 った。
ついさっき血文字で埋め尽くされていた、と聞かされたその場所に、十兵衛は足を踏み入れたというのだ。
「確かに壁といい唐紙といい、どす黒く色変わりした血で書かれた文字で埋め尽くされていた。しかし、そのほとんど全ては上様への恋心を綴ったもの。お振りの方様へはただ一行 『上様の御子を成した貴女様 が羨ましい。お恨み申し上げます』とだけ」
十兵衛は、薄暗い蝋燭の灯りの中で見た弟の真 の心を思い出す。
直情な おのれと違い、いつも自分を抑えて家に、父上に、上様に、忠実に仕えていた弟の心の内に、あんなにも激しい感情が隠されていようとは。
おそらく左門が命を絶った その場所であろう血溜まりの跡に手を触れ、兄として、このような惨 い死に方をさせずとも、何かしてやれる事があったのではないかと自問したが、全ては遅かったのだった。
「ふっ」
今まで誰にも話せなかった事を吐き出し、心が弛んだものか思わず嗚咽 が漏れそうになり十兵衛がうつむき自分の口を押さえた その直後、柔らかく温かなものに包まれた。
「我慢なさらなくてよろしいのですよ。ここには撫子しかおりませぬ」
十兵衛の頭をなで、背をさすり、撫子が優しくささやくと、十兵衛は幼子が母に甘えるように、撫子の胸に顔を埋 めて、声をあげて泣いたのだった。
日も傾きかけ室内が薄暗くなり始めた頃、泣き疲れた十兵衛は撫子の胸から顔を上げた。
「情けない姿を見せてしもうたな、すまぬ」
気まずそうに頭を掻きながら言う十兵衛に、撫子はこれも幼子にするように、その顔を前掛けで拭ってやる。
「撫子は十兵衛様の妻にござります。どんなに情けない お姿も、撫子には ご遠慮なさる事なく お見せ下さりませ」
「ほんに おまえは菩薩のような女よの」
そう言うと十兵衛は、撫子をその場に組敷き口を吸った。
「はぁ、十兵衛様、このようなところで、おやめ下さりませ。まだ日もありますのに…」
「んん?この別宅には、おれとおまえの二人きりなのであろう。ならば何処でも良いではないか」
撫子は恥じらいながら抵抗をみせるが、次第に声に甘い響きを帯びてくる。
「ん、ふぅ、いけませ、んっ、あぁ…」
「そのように つれない事を言わぬでくれ」
舌を絡ませながら衿を開かれ裾を割られると、撫子も淫心に抗えず十兵衛の下帯の前袋をまさぐり、いまだ新婚の二人は乱れる着衣もそのままに身体を重ねたのだった。
それから三日の後 、烏丸公卿が娘まえ より届いた書状に十兵衛は驚いた。
そこには十兵衛には身に覚えの無い喜捨 への礼と、春になったら柳生庄の芳徳寺へ左門と又右衛門様(但馬守)の墓参りに行きたい旨と、良き伴侶を得られた事への祝いの言葉が綴られてる。
「撫子よ、まえ様へ おれの名で届け物をしたのか?」
十兵衛が撫子に確かめると、
「礼状が来ましたのでござりましょうか?十兵衛様があのような物を簡単に受け取られますので、撫子は大変でござりますよ」
「しかしあれは…」
「左門どのと お父上様への御香華料 だなどと、真に受けなさりますな。相手は京 の人でござりますよ。『買うてくれ』と言う代わりにそのような言い方をなされるのでござります」
「そういうものなのか」
「そういうものでござります。でも、その場で金子をお渡ししようとしても決してお受けにはなりませぬので、それも覚えておいて下さりませ」
「うむ、そうか…。それにしても、おまえは しっかり者だな。さすがは兄や と 姉や の娘だのう」
十兵衛が隻眼を細めて煙管をくわえると、撫子はハッとしたような顔をして下を向いた。
「申し訳ござりませぬ。旦那様に、何と差し出た口を…」
顔を赤らめてモジモジする撫子に、十兵衛は懐手で顎を掻きながら、
「何を今さら。おまえが口やかましいのは子供の時分からよ。世知に疎い おれの女房どのには、むしろ それぐらいが好ましいだろう?」
と言うと、ニヤリと えくぼを彫る。
「でも、本当は しおらしい女人がお好きなのでは?」
目を伏せ、しょんぼりと消え入りそうな声で聞く撫子に、十兵衛はニヤニヤと思い出し笑いを浮かべて、
「おお、閨 の中での しおらしい おまえも 好 いのう。 ゆうべも… 」
と言うのを撫子はアワアワして、
「十兵衛様の助平 !」
と遮 り、紅を掃いたような顔で座敷を走り出て行った。
「困った女房どのだのう。おれが どんなにおまえに惚れておるか、全く分かっておらぬようだ」
十兵衛は、困った、と言いつつ全く困ったように見えない嬉しげな顔で独りごちると、煙草の煙をプカリと一つ輪に吹いた。
玄関で満面の笑みを浮かべた撫子が出迎える。
二人は河原の伯父の店ではなく、別宅に宿泊していた。
「あのう、十兵衛様?今日は お弟子の方の道場へ行かれると聞いておりましたが…。いったい何の道場でござりますか?ずいぶんと良い香りがいたしまするが…」
刀を受け取る撫子は笑顔でたずねるが、目が笑っていない。
十兵衛は一瞬、刀を渡して良いものかと思ったが、
「うむ、長くなるでのう。あちらでゆるりと話そうぞ」
と、落ち着きはらったふりをして答えた。
部屋着に着替える十兵衛を手伝う撫子は、十兵衛の懐から落ちた紅梅色の絹の手巾を拾い上げた。
濃く伽羅の焚き込まれた あきらかに女物の それを手に、撫子は厭わしげに眉間にシワを寄せて聞く。
「十兵衛様、色事の お弟子さんと お稽古でござりましたのですか?それはそれは、楽しうござりましたでしょうね」
「なっ!?馬鹿を申すな!って、待て、泣かぬでくれ。話を聞かぬか!これ」
撫子は、ぽろぽろと
「~と、いう事だったのだ」
二人は、座敷で
「これがいただいてきた掛け軸だ。素晴らしいだろう?」
と、嬉しそうに広げて撫子に見せた。
これも伽羅の香りがする掛け軸を見もせず、撫子は まだ不機嫌そうに答える。
「
「これこれ、お前は幼い頃から機嫌を直すのに時が要るのう。ま、そういうところが、いっそう可愛ゆらしいのだが」
十兵衛は隻眼を細めて手を伸ばすと、ふくれっ面をした撫子の頬を優しくふにふにとつまんだ。
柔らかな頬から手を離した十兵衛は、悩まし気な顔をして撫子を見つめる。
「撫子よ、対面ではちと遠いのう。横に来てくれ。今話した事は左門の死の全てでは無い。柳生庄の、ほんの数人の家士と父上と、おれだけが知っている秘密があるのだ。その内、生きて在るのは今や おれ一人。頼む、撫子。一緒に背負うてくれぬか?」
「それが十兵衛様のお望みでござりますれば…」
本音は早逝した絶世の美青年の死の真相に強く好奇心をそそられたのだが、それを隠して撫子は炬燵のやぐらの面を移動した。
「さっき、左門は朝の声掛けに行ったら夜具の中で冷たくなっていた。と、 まえ様に説明したと申したが、本当は箸で自らの喉を突いて こと切れておったというのだ…」
「何という事でござりましょう」
先に聞いた話とは全く違った、凄惨な左門の死に様に撫子は息を飲む。
「しかも、喉を突く前に自らの指を噛み千切り、その血で上様への恋情と
「それはまことにござりまするか?あまりにも、何と申しましょうか、その、」
言い
「物語のようだのう。おれも、俄には信じられなかったが、江戸に報せをくれた左門の世話係というのが、撫子よ、おまえ爺様の
煙草をくゆらせながら言葉をつぐ。
「あの お祖父様が、そのような お報せを…」
撫子は亡き石長の祖父の事を思い出す。
河原の祖父と違い、寡黙で近寄りがたい雰囲気のあるものの、女孫の撫子には優しく甘い祖父であったが、嘘偽りや不正を嫌い、その事だけは厳しく『ならぬ』と言い聞かされた。
その祖父が報せた事ならば、事実に相違ないであろう。
「そうして、左門の死後は病死を理由にただちに荼毘に付されて、養生していた離れ屋も外から板で打ち付けられ人目に触れぬようにされたのだ」
黙りこんでしまった撫子を見て十兵衛は、
「すまんな。おまえには ちと
と、気遣った。
「いえ、そうではありませぬ。先に聞いたお話よりも、むしろ人間味があって
「そうか。この話には続きがあってのう」
「聞きとうござります」
「うむ。左門の死後ほどなくして、大奥に美しい若侍の幽霊が出るという噂が流れたのだ」
「それは…」
「そう、左門ではないかと言う者もおったが、いかんせん大奥には左門の顔を知っておる方はおらぬでな。男はおらぬはずの大奥で、若侍の後ろ姿を見掛けて不審に思い声をかけると、振り向いた そやつは見蕩れるほどの美しい顔だが、首から流れ出した血に染まって真っ赤であったとか。他にも例の ご側室、お振りの方様が夜中に目を覚ますと、寝所の隅から じっと こちらを見つめる血まみれの若侍がおり、驚いて人を呼ぶと消えるといった話もあった」
「その お話は、いくら何でも出来過ぎかと…」
能か歌舞伎のような怪談話に、撫子は苦笑いする。
「おれも そう思うたよ。当時の柳生家は大名に列せられたばかり。快く思わぬ向きから流された噂ではないかと。しかし、さっきも言うたが左門の本当の死因は柳生家の忠臣である ご老人方によって固く秘されておったのに、幽霊は首から血を流しておるという」
「あ…!」
「当時のおれは書院番として城勤めをしておったので、何度も上様に捕まって左門は本当に眠っておる間に死んだのかと問い
十兵衛は一息つき、煙管の灰を灰吹きに落とすと新しい煙草を詰める。
「そうこうしておる内、左門が亡うなった次の年に お振り様が亡くなられ、同時に幽霊騒動も収まったが、今度は左門が お振りの方様を取り殺したという噂が流れて、父上は随分と胃の痛い思いをなされておられたようだ」
煙草の煙を輪に吹いて十兵衛が撫子を見ると、
「
と言って紅い唇を弦月の形に、にっこりと笑う。
「もしも十兵衛様が他の女人に お心を移されるような事があれば、
撫子の目は、笑っていなかった。
ククっと十兵衛は笑うと、撫子の頭を幼子にするようにワシワシとなでる。
「おまえは そういうところが、実に良い。
しかしすぐに顔を曇らせると、煙管から昇る煙を目で追いながら驚きの言葉を口にした。
「実はな、お振りの方様が亡くなられた
撫子は黒目がちの目をこぼれ落ちそうなほどに
ついさっき血文字で埋め尽くされていた、と聞かされたその場所に、十兵衛は足を踏み入れたというのだ。
「確かに壁といい唐紙といい、どす黒く色変わりした血で書かれた文字で埋め尽くされていた。しかし、そのほとんど全ては上様への恋心を綴ったもの。お振りの方様へはただ
十兵衛は、薄暗い蝋燭の灯りの中で見た弟の
直情な おのれと違い、いつも自分を抑えて家に、父上に、上様に、忠実に仕えていた弟の心の内に、あんなにも激しい感情が隠されていようとは。
おそらく左門が命を絶った その場所であろう血溜まりの跡に手を触れ、兄として、このような
「ふっ」
今まで誰にも話せなかった事を吐き出し、心が弛んだものか思わず
「我慢なさらなくてよろしいのですよ。ここには撫子しかおりませぬ」
十兵衛の頭をなで、背をさすり、撫子が優しくささやくと、十兵衛は幼子が母に甘えるように、撫子の胸に顔を
日も傾きかけ室内が薄暗くなり始めた頃、泣き疲れた十兵衛は撫子の胸から顔を上げた。
「情けない姿を見せてしもうたな、すまぬ」
気まずそうに頭を掻きながら言う十兵衛に、撫子はこれも幼子にするように、その顔を前掛けで拭ってやる。
「撫子は十兵衛様の妻にござります。どんなに情けない お姿も、撫子には ご遠慮なさる事なく お見せ下さりませ」
「ほんに おまえは菩薩のような女よの」
そう言うと十兵衛は、撫子をその場に組敷き口を吸った。
「はぁ、十兵衛様、このようなところで、おやめ下さりませ。まだ日もありますのに…」
「んん?この別宅には、おれとおまえの二人きりなのであろう。ならば何処でも良いではないか」
撫子は恥じらいながら抵抗をみせるが、次第に声に甘い響きを帯びてくる。
「ん、ふぅ、いけませ、んっ、あぁ…」
「そのように つれない事を言わぬでくれ」
舌を絡ませながら衿を開かれ裾を割られると、撫子も淫心に抗えず十兵衛の下帯の前袋をまさぐり、いまだ新婚の二人は乱れる着衣もそのままに身体を重ねたのだった。
それから三日の
そこには十兵衛には身に覚えの無い
「撫子よ、まえ様へ おれの名で届け物をしたのか?」
十兵衛が撫子に確かめると、
「礼状が来ましたのでござりましょうか?十兵衛様があのような物を簡単に受け取られますので、撫子は大変でござりますよ」
「しかしあれは…」
「左門どのと お父上様への
「そういうものなのか」
「そういうものでござります。でも、その場で金子をお渡ししようとしても決してお受けにはなりませぬので、それも覚えておいて下さりませ」
「うむ、そうか…。それにしても、おまえは しっかり者だな。さすがは兄や と 姉や の娘だのう」
十兵衛が隻眼を細めて煙管をくわえると、撫子はハッとしたような顔をして下を向いた。
「申し訳ござりませぬ。旦那様に、何と差し出た口を…」
顔を赤らめてモジモジする撫子に、十兵衛は懐手で顎を掻きながら、
「何を今さら。おまえが口やかましいのは子供の時分からよ。世知に疎い おれの女房どのには、むしろ それぐらいが好ましいだろう?」
と言うと、ニヤリと えくぼを彫る。
「でも、本当は しおらしい女人がお好きなのでは?」
目を伏せ、しょんぼりと消え入りそうな声で聞く撫子に、十兵衛はニヤニヤと思い出し笑いを浮かべて、
「おお、
と言うのを撫子はアワアワして、
「十兵衛様の
と
「困った女房どのだのう。おれが どんなにおまえに惚れておるか、全く分かっておらぬようだ」
十兵衛は、困った、と言いつつ全く困ったように見えない嬉しげな顔で独りごちると、煙草の煙をプカリと一つ輪に吹いた。