第33話 女難 其の十一
文字数 4,654文字
その日の夕刻、神泉苑 に程近い堀川沿いを、全て黒のぶっ裂き羽織と小袖に裁 っ付 け袴 を身につけ大小を差し深編笠 を被った柳生十兵衛が行きつ戻りつしながら、ある邸 の通用門の様子をうかがっていた。すると、その門扉 が開き中から家人 らしき男が出て来て行商人を呼び止め門に背を向ける形で立ち話を始めたのをみとめると、スッと門の内に入り込み周囲を見回して人影の無いのを確かめ素早く床下に潜り込んだ。
冬の夕暮れ時のこと半刻 も経てば あたりは真っ暗になり、みな屋内に引っ込み人気 も絶える。十兵衛は床下を出ると、深編笠の代わりに懐から出した黒い頭巾に着け替えた。
フと、胸のあたりに温かいものを感じて手を当てる。林家を出る時に撫子が首に掛けてくれた守り袋が懐にある。
ー『きっと、乳神様 がお護りくださりますよ』ー
撫子の「乳が大きくなりますように」という願いを叶え、河原宿 では女人や子供の守り神として信仰を集める神様だが、今の自分にその守り袋が必要か?と思いもしたものの、無事を願ってくれる撫子の気持ちが嬉しく、こうして大切に懐に入れて来たのだった。
「さて、鬼 が出るか蛇 が出るか……」
そう独 り言 ちてニヤリと笑うと、十兵衛は今いる邸の裏方の使用人区域と表方の客人・主人区域を隔てる塀を、ひらりと飛び越えた。
その頃の撫子はといえば、林家の台所を借りて一心不乱に何やら擂り鉢であたっている最中であった。
「お父様、もっと しっかり押さえてくださりませ」
「おお、すまん」
堀川沿いに建つ浄土井邸を探りに行く十兵衛に替わり、撫子の父・市朗が護衛に来るついでに市場で おつかいを頼まれてくれるよう知らせの文に添えてあったのだ。
叩いた鴨肉と山の芋に、生姜と味噌を加えて更にあたる。
「鴨のつみれ汁か。今宵は冷えるでな。戻った十兵衛どのが大喜びするだろうよ」
父の言葉に頷くも、その表情はさえない。
「ちと様子を見に行かれただけであろう?心配せずとも十兵衛どののことじゃ、すぐ無事に戻られようぞ」
「はい。左様にござりますね……」
撫子とて十兵衛の強さは充分に知っている。忍んで行く先は武家ではなく公家。先日の林家襲撃を鑑 みても牢人者 を集めて来たぐらいなので、そう警護の人手のあつい家とは思えぬが、何とも言えない胸騒ぎがするのであった。
江戸の世までくると、公家の邸は平安調の寝殿造 りではなくなっているが、そこかしこに名残のある建築様式となっている。透廊 も その一つだ。
それは建物と建物の間をつなぐ渡り廊下のようなものであるが、柱と欄干だけで壁は無く吹きさらしである。
その透廊から入った邸内はほぼ真っ暗であったが、夜目の利く十兵衛には問題無い。
当時、灯明に使う油や蝋燭 は高価なもので必要最低限にしか灯されなかった。
今宵の黒装束姿は、そういう灯りの届かない暗がりに溶け込むのに丁度よいのだ。
間取りが分からない為、方角などから推測して奥向 きがあると思われる方向に見当を付け歩を進める。
「何だ?この匂いは……」
初めは微 かであったが、奥に進むにつれ香 らしき匂いが強くなる。焚いている者がいるはずなので慎重に歩いて行くと、廊下に光が漏れている部屋があり、複数人だとおぼしき声も聞こえる。
そして香の匂いもいよいよ強く、頭の痛くなるような甘だるい匂いが充満して吐き気をさえ催すようだ。
十兵衛が光の漏れる板戸を そっと細く開けて覗くと、そこには驚くべき光景が繰り広げられていた。
「これは……!」
思わず隻眼を瞠 る。
二十畳ほどもあろうかという広間は百目 蝋燭で照らされ、何組もの男女が一糸纏わぬ姿で交合 い、正面の壁には黒狐に跨 がり乳房も露な姿の髑髏 杯と剣をもった女神を描いた掛軸が掛けられてあり、その前には高い台に恭しく置かれた金色 の髑髏。
掛軸と髑髏を背に、尼形 ではあるものの頭巾は無く長い髪を垂らした尼というには妖艶に過ぎる女と、直衣 姿の細面で切れ長の目の中性的な青年が一段高い所に並んで座している。
「あの男、太夫に似ておるな。あれが当代の公卿で太夫の兄に違いない。それにしても、この有り様は一体何なのだ?噂どおりでは無いものの怪しげな儀式ではある」
交合う男女のうち、男は全て剃髪 して首から数珠 を下げており僧侶のように見えなくもない。女はおそらく使用人として雇われたのち行方知れずとなった娘たちであろう。皆、若く美しいはずであるが窶 れ果て、薬でも盛られているのか、はたまた発狂しているのか目は虚 ろでケラケラと笑っていたり涎 を垂らしていたり、とても正気とは思えない姿だった。
最前から聞こえていた声は男たちと段上の二人のものだったようで、それぞれが何やら経を唱えているように聞こえる。
途切れること無くバラバラに唱えられるそれに耳が慣れてくると、突然にハッキリと聞こえだした。
ーナウマク・サマンダ・ボダナン・キリカ・ソワカー
「ん、キリカとは……荼枳尼 真言か」
そう認識した途端、十兵衛は雷にでも撃たれたような衝撃とともに、広間の中の全てが何を意味しているのかが分かった。
「こやつら、内 三部 経 派 なのか!?いや、まさかそのような」
荼枳尼、漆と金銀箔を施した髑髏、返魂香、真言を唱えながらの交合い
十兵衛とて書物や古い民間伝承でしか知らない、とうの昔に滅びたと思われていた淫祠邪教 の儀式が今、目の前にあるのだ。
「何やら思っていたよりも、話は大きく深いようだ。帰り義父上 と相談せねば」
そう思い、覗いていた隙間から離れようとした時、段上の尼形の女と目が合った。有り得ない事だった。女とは四、五間 の隔 たりがあり、隙間は二分 も開けてはいない。明るいとはいえ、しょせん蝋燭の光である。気付かれるはずは無いのだ。しかし、
「大きな鼠 が入り込んでおるようじゃわえ。出あえ」
ねっとりとした色香を含んだ女の声が響く。
「まずい」
十兵衛は廊下の板戸を蹴破って庭へ飛び出し愛刀・三池典太を抜いた。
廊下をバタバタと走る音が近付いて来る。足音から五人程であろうかと思われた。十兵衛が蹴破った所から出て来る一人目の脚を横薙ぎに斬ると、何が起きたのか分からず目を見開き つんのめって声を上げながら地面に転がり落ちて行く。その手にあった短槍 を取り上げ、その後ろに続ていた二人目をその槍で刺した。
槍に貫かれ廊下に倒れ込んで来た男を見た残りの奴らは用心して飛び出さずに庭の様子を確かめると、両膝から下を失 くし もがく男の影と、煌めく白刃を提 げた黒装束の男が立っているのが星明りに見えた。
「おのれ……」
三人目の男が懐に手を入れたと同時に、十兵衛は自分の足元に転がる男の襟首を掴んで引き上げる。
「がはっ!」
男の体に三本の円錐形の手裏剣が深々と突き刺さり、瀕死であった男は断末魔の叫びを上げて息絶えた。
「しまった!」
十兵衛は自分が ぶら下げている男から手裏剣を抜き取り、その姿 を眺めると手を離し、ニヤリと笑う。
「とどめを入れてやるとは慈悲深いことだな。この手裏剣の形といい、伸ばした髪といい、うぬらは根来 者 か。なるほど林家に押し入って来た牢人どもとは違うようだ」
他の二人が用心しながら別の戸を開けて庭に降り、刀を抜いてジリジリと回り込む。瞬 く間 に二人を片付けた十兵衛に飲まれているのだ。この時点で既 に勝ち目は消えている。
「広間の連中は内三部経派ではないか?同じ真言宗とはいうても、彼奴 らは邪道 外法 の徒であろう。廃 れたとはいえ根来寺のような正統派の流れを汲む うぬらが、なぜ あのような者どもと手を組む?」
「うるさい!貴様に何が分かる?根来寺再興は我らの悲願。その為ならば手段など選ばん!」
廊下の上の男が叫ぶと同時に背に担いだ刀を抜きながら飛び掛かって来ると、それを合図に他の二人も左右から間合いを詰めてきた。
「返すぞ」
十兵衛が先ほどの手裏剣を投げ返すと、それは予想していなかった攻撃であったらしく咄嗟 にかわす事が出来ず喉笛と胸に食い込む。
そのまま くるりと舞 でも舞 うように三池典太を水平に一回転させると、左右の二人の腹が割 けた。
「邪教に与 したる事、あの世で大日如来に詫びするがいい」
懐紙で刀身に付いた血を拭っていると、邸内から
「わらわが行こう。真言を絶やすでないぞ」
という あの女のねっとりとした声が聞こえ、滑るように庭へ降りて来た。
三十路過ぎといったところか。尼形 ではあるものの、若い女には無い熟れた色香をまとい、血に濡れたような赤い唇に潤んだ瞳を十兵衛に向けている。庭に転がる死体を眺めて
「柳生十兵衛であるな?噂どおり、おぬしは強いのう」
と言うと、ニタリと笑う。
十兵衛は典太を鞘に納めはしたものの、この見たままとは思えない不穏さを漂わせる女を怪しんだ。
「うぬは何者か?」
「荼枳尼 じゃ」
「何?」
「ホホ、そのような恐ろしげな声など出さずとも。わらわは逞 しい男が好きじゃ。どうだえ?明妃 たるわらわの相方、明王 にならぬか?わらわと交合 い即身成仏の境地に至れば、現世の望みはほしいままぞ」
「断る。おれの現世の望みは全て叶っておるのでな」
「つれない男よのう。ますます欲しくなったわえ」
「!?」
女が近付いて来るのに すざって距離を取ろうして、十兵衛は驚いた。体が金縛りにあったように動かなくなってしまったのだ。
女は身を寄せて十兵衛の頭巾を外すと、
「ほう。とうは立っておるが美々 しき色男ではないかえ。右目の傷など却ってそそられるようじゃ」
と言って、その頬をツ、ツ、となぞった。
その時、自身の意に反してゾクゾクと背筋が震え摩羅がピクリと脈動した事に驚き、動かぬ体を必死に動かそうとするも脂汗が流れるばかりで、己の体ではないかのように指先一つ動かせない。
「さあ、わらわのものになるがよい」
女が更に身を寄せて、十兵衛の袴の紐に手を掛けたその時、
「させん!」
幼い子供の声が響くと同時に、十兵衛の胸から白く眩しい光が迸 り その全身を包むと、女は「ギャッ!」と悲鳴をあげて飛び退いた。
白い光に包まれた小さな手が十兵衛の手を掴んで引っ張ると、動かなかった体が動くようになっており、引かれるままに走り出す。
「おのれぇー!黒狐、追え!」
後ろで口惜しげな女の声が聞こえ、振り返って見ると黒い靄 の中から現れたように見える一頭の黒い狐が、こちらに向かって走り出すのが見えた。
「いかん。あやつ匂いを追って来るから厄介じゃな。目眩ましでは逃げきれん」
十兵衛の手を引く童女 がつぶやくと、
『たらちね殿、こちらへ』
という声がどこからともなく聞こえ
「ありがたい」
童女はそう言うと、十兵衛を庭の片隅の草むらに引っ張り込んだ。
ザブン!
という水音と共に十兵衛の体が沈む。そこは草むらの中に隠れた池のような形の古い湧水の井戸だったのだ。
草むらの向こうで獣の足音が右往左往していたが、
「もうよい。水音が聞こえた。塀を乗り越え堀川へでも落ちたか……」
という女の声と共に足音は遠ざかっていった。
「十兵衛、もう大丈夫じゃ。腰の水筒の水をここの水と入れ替えるがいい。帰るぞ」
顔を上げると、歳の頃は十ばかりではあるが大きさが一尺ぐらいしかない人形のような童女がそこにいた。
「あのぅ、あなた様はいったい……?」
「詳しい話しは帰ってからじゃ。撫子が心配しておるぞ」
「は、はあ」
十兵衛は言われるがままに水筒の水を草むらにこぼすと、この井戸の水と入れ替えて上がった。
冬の京の夜に全身ずぶ濡れであったが不思議と温かく感じられ、十兵衛はもう何があっても驚かないといった心境で、童女に手を引かれて愛しい妻の元へ夜道を急いだのだった。
冬の夕暮れ時のこと
フと、胸のあたりに温かいものを感じて手を当てる。林家を出る時に撫子が首に掛けてくれた守り袋が懐にある。
ー『きっと、
撫子の「乳が大きくなりますように」という願いを叶え、
「さて、
そう
その頃の撫子はといえば、林家の台所を借りて一心不乱に何やら擂り鉢であたっている最中であった。
「お父様、もっと しっかり押さえてくださりませ」
「おお、すまん」
堀川沿いに建つ浄土井邸を探りに行く十兵衛に替わり、撫子の父・市朗が護衛に来るついでに市場で おつかいを頼まれてくれるよう知らせの文に添えてあったのだ。
叩いた鴨肉と山の芋に、生姜と味噌を加えて更にあたる。
「鴨のつみれ汁か。今宵は冷えるでな。戻った十兵衛どのが大喜びするだろうよ」
父の言葉に頷くも、その表情はさえない。
「ちと様子を見に行かれただけであろう?心配せずとも十兵衛どののことじゃ、すぐ無事に戻られようぞ」
「はい。左様にござりますね……」
撫子とて十兵衛の強さは充分に知っている。忍んで行く先は武家ではなく公家。先日の林家襲撃を
江戸の世までくると、公家の邸は平安調の
それは建物と建物の間をつなぐ渡り廊下のようなものであるが、柱と欄干だけで壁は無く吹きさらしである。
その透廊から入った邸内はほぼ真っ暗であったが、夜目の利く十兵衛には問題無い。
当時、灯明に使う油や
今宵の黒装束姿は、そういう灯りの届かない暗がりに溶け込むのに丁度よいのだ。
間取りが分からない為、方角などから推測して
「何だ?この匂いは……」
初めは
そして香の匂いもいよいよ強く、頭の痛くなるような甘だるい匂いが充満して吐き気をさえ催すようだ。
十兵衛が光の漏れる板戸を そっと細く開けて覗くと、そこには驚くべき光景が繰り広げられていた。
「これは……!」
思わず隻眼を
二十畳ほどもあろうかという広間は
掛軸と髑髏を背に、
「あの男、太夫に似ておるな。あれが当代の公卿で太夫の兄に違いない。それにしても、この有り様は一体何なのだ?噂どおりでは無いものの怪しげな儀式ではある」
交合う男女のうち、男は全て
最前から聞こえていた声は男たちと段上の二人のものだったようで、それぞれが何やら経を唱えているように聞こえる。
途切れること無くバラバラに唱えられるそれに耳が慣れてくると、突然にハッキリと聞こえだした。
ーナウマク・サマンダ・ボダナン・キリカ・ソワカー
「ん、キリカとは……
そう認識した途端、十兵衛は雷にでも撃たれたような衝撃とともに、広間の中の全てが何を意味しているのかが分かった。
「こやつら、
荼枳尼、漆と金銀箔を施した髑髏、返魂香、真言を唱えながらの交合い
十兵衛とて書物や古い民間伝承でしか知らない、とうの昔に滅びたと思われていた
「何やら思っていたよりも、話は大きく深いようだ。帰り
そう思い、覗いていた隙間から離れようとした時、段上の尼形の女と目が合った。有り得ない事だった。女とは四、五
「大きな
ねっとりとした色香を含んだ女の声が響く。
「まずい」
十兵衛は廊下の板戸を蹴破って庭へ飛び出し愛刀・三池典太を抜いた。
廊下をバタバタと走る音が近付いて来る。足音から五人程であろうかと思われた。十兵衛が蹴破った所から出て来る一人目の脚を横薙ぎに斬ると、何が起きたのか分からず目を見開き つんのめって声を上げながら地面に転がり落ちて行く。その手にあった
槍に貫かれ廊下に倒れ込んで来た男を見た残りの奴らは用心して飛び出さずに庭の様子を確かめると、両膝から下を
「おのれ……」
三人目の男が懐に手を入れたと同時に、十兵衛は自分の足元に転がる男の襟首を掴んで引き上げる。
「がはっ!」
男の体に三本の円錐形の手裏剣が深々と突き刺さり、瀕死であった男は断末魔の叫びを上げて息絶えた。
「しまった!」
十兵衛は自分が ぶら下げている男から手裏剣を抜き取り、その
「とどめを入れてやるとは慈悲深いことだな。この手裏剣の形といい、伸ばした髪といい、うぬらは
他の二人が用心しながら別の戸を開けて庭に降り、刀を抜いてジリジリと回り込む。
「広間の連中は内三部経派ではないか?同じ真言宗とはいうても、
「うるさい!貴様に何が分かる?根来寺再興は我らの悲願。その為ならば手段など選ばん!」
廊下の上の男が叫ぶと同時に背に担いだ刀を抜きながら飛び掛かって来ると、それを合図に他の二人も左右から間合いを詰めてきた。
「返すぞ」
十兵衛が先ほどの手裏剣を投げ返すと、それは予想していなかった攻撃であったらしく
そのまま くるりと
「邪教に
懐紙で刀身に付いた血を拭っていると、邸内から
「わらわが行こう。真言を絶やすでないぞ」
という あの女のねっとりとした声が聞こえ、滑るように庭へ降りて来た。
三十路過ぎといったところか。
「柳生十兵衛であるな?噂どおり、おぬしは強いのう」
と言うと、ニタリと笑う。
十兵衛は典太を鞘に納めはしたものの、この見たままとは思えない不穏さを漂わせる女を怪しんだ。
「うぬは何者か?」
「
「何?」
「ホホ、そのような恐ろしげな声など出さずとも。わらわは
「断る。おれの現世の望みは全て叶っておるのでな」
「つれない男よのう。ますます欲しくなったわえ」
「!?」
女が近付いて来るのに すざって距離を取ろうして、十兵衛は驚いた。体が金縛りにあったように動かなくなってしまったのだ。
女は身を寄せて十兵衛の頭巾を外すと、
「ほう。とうは立っておるが
と言って、その頬をツ、ツ、となぞった。
その時、自身の意に反してゾクゾクと背筋が震え摩羅がピクリと脈動した事に驚き、動かぬ体を必死に動かそうとするも脂汗が流れるばかりで、己の体ではないかのように指先一つ動かせない。
「さあ、わらわのものになるがよい」
女が更に身を寄せて、十兵衛の袴の紐に手を掛けたその時、
「させん!」
幼い子供の声が響くと同時に、十兵衛の胸から白く眩しい光が
白い光に包まれた小さな手が十兵衛の手を掴んで引っ張ると、動かなかった体が動くようになっており、引かれるままに走り出す。
「おのれぇー!黒狐、追え!」
後ろで口惜しげな女の声が聞こえ、振り返って見ると黒い
「いかん。あやつ匂いを追って来るから厄介じゃな。目眩ましでは逃げきれん」
十兵衛の手を引く
『たらちね殿、こちらへ』
という声がどこからともなく聞こえ
「ありがたい」
童女はそう言うと、十兵衛を庭の片隅の草むらに引っ張り込んだ。
ザブン!
という水音と共に十兵衛の体が沈む。そこは草むらの中に隠れた池のような形の古い湧水の井戸だったのだ。
草むらの向こうで獣の足音が右往左往していたが、
「もうよい。水音が聞こえた。塀を乗り越え堀川へでも落ちたか……」
という女の声と共に足音は遠ざかっていった。
「十兵衛、もう大丈夫じゃ。腰の水筒の水をここの水と入れ替えるがいい。帰るぞ」
顔を上げると、歳の頃は十ばかりではあるが大きさが一尺ぐらいしかない人形のような童女がそこにいた。
「あのぅ、あなた様はいったい……?」
「詳しい話しは帰ってからじゃ。撫子が心配しておるぞ」
「は、はあ」
十兵衛は言われるがままに水筒の水を草むらにこぼすと、この井戸の水と入れ替えて上がった。
冬の京の夜に全身ずぶ濡れであったが不思議と温かく感じられ、十兵衛はもう何があっても驚かないといった心境で、童女に手を引かれて愛しい妻の元へ夜道を急いだのだった。