すべてを受け入れて、疲弊して
文字数 2,896文字
「待って! 花音、待って!」
繁華街の中を、花音は人にぶつかりながら走っていく。
人をよけながら追いかける千隼のほうが、速かった。追いついた千隼は、花音の腕をつかむ。が、振り払われた。
花音は肩で呼吸しながら、千隼をにらみつける。
「ほんっとだまされたわ。あんた、どういう気持ちで私と一緒にいたわけ? 結婚も考えてたのよ! でもあんたは、私の財布から金をとろうと思ってたわけね」
「花音……」
一歩近づくと、花音は一歩下がり、軽蔑的な視線を向ける。あざけるように口角を上げ、手を振った。
「ほんと無理無理無理無理。無理だから。他の女はよくても私は無理。せいぜい他の女捕まえて営業やってなさいよ」
千隼はそれ以上近づくこともなく、弁明もしなかった。その後ろから、トウコが駆け寄り間に入る。
「ねえ、ちょっと……」
「あんたもほんとうはわたしのことあざ笑ってるんでしょ? あんなこと言っといてだまされたやつって」
感情的にわめく花音に、トウコはため息をついた。
「落ち着きなさいよ。さっきから自分のことばっかりじゃない。彼から少しでも話聞いたの?」
「聞かなくてもいい。ホストやってる連中なんて、どうせ口だけだもん」
花音の目から、涙が零れ落ちる。
「ほんとうにクソみたいな仕事よ。こんな裏切りってある? ホストなんてただの詐欺師じゃない。ウソつきウソつきウソつき!」
あきれた表情のトウコの後ろで、千隼はなんの反応も見せなかった。花音の口から飛び出る言葉を、すべて受け止めていた。
「あんたと何年付き合ってやったと思ってんのよ! わたしの時間返してよぉ!」
何を言われようと、千隼は言い返さない。律に言われてここまで来たにもかかわらず、たち尽くすだけだ。
涙でぐちゃぐちゃになった顔の花音に、トウコが言う。
「その靴も、バッグも、彼がプレゼントしてくれたものなんでしょ? でもあんたは、一度も彼の仕事に貢献したことないんじゃないの?」
ギラリとした鋭い目が、トウコに向いた。怒りに震えながら、歯ぎしりをする。
「ホストなんて、そんなの、いろんな女にやってるんだよ! わたしだけじゃない! くそっ! ふざけんな!」
「私が言いたいのはね、もし彼がホストとして接してるんだったら、むしろあんたに仕事のことちゃんと話してたんじゃないかってこと」
トウコは真剣な表情で続ける。
「あんたは、そういうこと、一度でも言われたことある? 同情さそって金を巻き上げられそうになったこと、ある? 苦しいから店に来て、とか、言われたことあるの?」
花音は返事をせず、しゃくりあげた。化粧が落ちることも気にせず、目を拭く。
「あんたは千隼くんとお店で出会ったわけじゃないし、お店でお金を使ったこともないんでしょ? 信用できないっていう気持ちもわかるけど、一度冷静になってみたほうがいいと思う」
「ふざけんな! ずっとわたしのこと裏切ってたんだよ! ずっと会社員だってウソついて、自分はちゃんとした社会人ですってツラして、底辺の仕事やってたんだよ!」
人々が往来する歓楽街に、花音の声が響き渡る。通りすがりのサラリーマンや夜の仕事場へ向かう者たちが、顔を向けていた。
「ここいらで働くやつらなんて社会のゴミよ! クソよ、クソ! 人としての価値なんてない! 社会になじめない人間のクズだってわかってたら、最初から付き合わなかったのに!」
トウコは眉をひそめる。こんなところでよくそんなことが言えるものだ。自分の人生が普通で正しいのだと、信じて疑わない。
「……ああ、そう」
それ以上言えることもなく、肩を落とした。花音は容赦なく声を張り上げる。
「あんたみたいなホストにハマってる女に、私の気持ちなんてわかるわけない! 私とあんたは違うの!」
トウコは冷ややかな顔をして見つめるだけだ。
「ちゃんと社会に向き合って生きてるの! こんな狂った世界に現実逃避する女じゃないから!」
花音は、ただ立ち尽くすだけの千隼をにらみつける。
「ほんと最悪! 何年もだまされて慰謝料をもらいたいくらいだわ! 二度と私の前に現れないで! この社会不適合者が!」
二人に背を向けて、走り去っていく。激しいヒールの音が、どんどん小さくなっていった。
もう、千隼は追いかけようとしない。
「その……大丈夫?」
トウコがバツの悪い顔で千隼を見上げる。
千隼は穏やかに、ふっきれたような笑みを浮かべた。
「ありがとう。大丈夫だよ」
†
「……おかえり。待ってたよ」
店に戻ってきた千隼とトウコを、律が出迎えた。開きっぱなしの扉の前で、ほほ笑んでいる。
トウコが近寄り、ひかえめに声を出した。
「もしかして、ずっと待ってたの? 他のお客さんもいるのに」
「大丈夫だよ。さっき抜け出してきたところだから」
律のもとにスタッフが来る。察した律が、穏やかに告げた。
「わかってる。先にトウコちゃんを静かな席に案内してあげて」
スタッフは律に頭を下げ、トウコをつれていく。不安げに何度か振り返るトウコに、律は手を振って見送った。
千隼に向き直ったころには、すでに笑みが消えている。
「その調子じゃ、もう仕事にならないんじゃないですか?」
千隼は、疲弊しきっていた。愛想笑いを浮かべる気力は、もう残っていない。
「言い返せました? ちゃんと」
弱弱しく首を振る。短く息をつく律に、小さく告げた。
「彼女の言葉も、一理あるから」
律は返事をせず、真剣な表情で腕を組む。
「俺も、前の仕事を辞めなかったら、同じこと思ってただろうし。……口にだしてたかもしれない」
千隼の目は、暗く濁っていた。
「ごめん、巻き込んでしまって……。全部、俺がはっきりしなかったせいだよね」
その視線が、律の後ろに向く。
「お客さん、まだ入ってるよね。俺も、戻らないと」
「やっぱり、彼女より仕事なんですね」
千隼は意表をつかれた顔で、律に視線を戻す。
「あ、えっとその……」
「別に、いいんじゃないですか。それだけこの仕事に、責任を持ってるってことでしょ。でも、今日はもう帰ってください。気持ちの整理とかいろいろ、必要でしょ」
「でも、お客さんが……」
「千隼さんのお客様は俺とヘルプで対応します。心配しなくても千隼さんの女の子をとったりしませんよ。帰りたがるなら帰らせるし、店で過ごすなら過ごさせます。まあ、ほとんど帰りたがるでしょうけど」
「……ごめん。ごめんね、律くん、俺」
「遅かれ早かれ、こうなることは決まってたんですよ」
律の強い瞳と淡々とした口調に、千隼はきゅっと口を閉じる。
「二人でディナーを過ごしたとき、嫌というほど気づかされたんでしょ? ……現実に」
千隼の瞳が、じわりと潤んでいく。せめて律の前では泣くまいと、唇を
店内にいるスタッフの大声が、律の耳に突き刺さる。
「律さん! 急いでください! お願いします!」
律は店内をチラリと見て、千隼を払いのけるように手を振った。
「じゃあ、そういうことなんで」
律はスタッフに導かれ、その場を離れていく。うなだれたままの千隼は、この日、早退することが決まった。