たとえ悪者になってでも 1
文字数 2,714文字
土曜日。飲み屋で一番の稼ぎどき。平日の比ではないくらいに客が入る。
同伴を終えた律は、席に座る前にトイレへ向かった。中に入ると、手洗い場の前で千隼がたたずんでいる。水は流しっぱなしだ。排水溝に水が落ちるのを影の差す顔で見すえていた。
無視して通り過ぎたものの、ずっとそこにいられては出すものも出せまい。
顔を向け、声をかける
「そうとう、きつかったみたいですね」
鏡の中で、千隼と目が合った。
「昨日、眠れませんでした? 激しすぎて寝る暇がなかったとか?」
律らしくもない冗談だったが、陰鬱な顔の千隼が笑うことはない。
律はため息をつき、聞きなおす。
「仕事、できそうですか?」
「……まあ、やるしかないよ」
ようやく、千隼は水を止めた。
「ねえ、律くん。……俺って、欠陥品かな? 人として」
ものものしい悲哀がただよう声だった。
律は千隼を見据え、口を開く。が、千隼がさえぎった。
「いや、いいよ。変なこと聞いちゃった。……ごめんね」
千隼はいつもどおりの穏やかな笑みを浮かべ、トイレを出ていく。律はその後ろ姿から、今日一日を乗り越えられるか不安になるほどの疲弊を、感じ取っていた。
†
「ほら~、絶対ヤバい場所じゃん」
地下にあるホストクラブ、Aquarius《アクエリアス》へと続く階段に、花音の声が落ちた。シャンパンコールが下からかすかに聞こえてくる。
「ほんと信じらんないんだけど。あんたみたいな生真面目な女がこんな場所にハマってるなんて」
花音がとなりに顔を向ける。そこにいるのは、律の指名客であるトウコだ。花音のようなおしゃれでかわいらしい格好ではなく、いつもと同じオフィスカジュアルだった。
真面目な表情で先を降りていく。トウコの後ろに花音が続いた。
「よくないよ~、通い詰めるのも。ホストなんて、ただ貢がせることしか考えてない男ばっかでしょ。金で接客変えてんだよ。客はただのカモなんだって」
「じゃあ帰れば? 来たいって言ったのはあんたでしょ」
トウコは正面を向いたままだ。花音に対して素っ気ない。
「だって気になったんだもん。あんたが指名してんの、律って名前なんでしょ? 調べたらかなり有名らしいじゃん?」
「そうよ。Aquarius《アクエリアス》のナンバーワンだもん。週末にわたしが指名したところで、席に座ってはくれないくらい忙しいんだから」
花音はきょとんとする。
「え? じゃあなんで行ってんの?」
「いや、だから、人が少ない平日に行ってんの。今日行ったって、席に座ってくれるかわかんないよって何回も言ったじゃん」
トウコは顔をゆがませ、小さく舌打ちした。
「ていうか、彼氏がいるなら行かないほうがいいんじゃない? こういう店」
「平気平気。私のこと大好きなんだから、こんないかがわしい店ばっかの街に来るわけないもん」
「あっそ。でも自分は行くわけね」
どうでもいいとばかりに先を降りていくトウコに、花音は鼻で笑う。シャンパンコールの音は大きくなり、マイクを通した女性客の声が聞こえてきた。
「ほんと終わってる。男に貢ぐなんて」
トウコは立ち止まり、花音をにらみつける。
「楽しみ方は人それぞれでしょ。店にはいる以上はそういう言動ひかえてよね」
圧のあるトウコに、花音はむすっとした顔で返す。
「なによ~。たかがホストでしょ。だいたいね、彼氏がいないからこんなとこにハマるのよ。健全な人づきあいができてたらこんなところにはこないの」
「どの口が言ってんの? あんただって行きたがってたくせに」
「わたしは彼氏いるからいいもん。あ、そうか。ここに来る客はホストを彼氏だと思ってるのか。じゃあ抜け出せないのも無理ないか~」
二人の後ろから、女性がすり抜けて降りていく。一人で来ている女性は、花音の言葉にちらりと視線を向けていた。
それに気づいたトウコが、ため息をつく。
「そうやって客を馬鹿にするようなこと言うのもやめて。あなたも今から、その客になるんだから」
「違うもん。今日は律ってやつに会いに来ただけだもん」
トウコは眉間にしわを寄せ、額に手を当てた。花音と話すだけで疲れてくる。
こんなことなら来なければよかった。そもそも今日は帰宅して、缶チューハイでも飲んで過ごすはずだったのに。
花音があまりにも律に会いたいとしつこかったのだ。つれてきたらきたでこのザマ。一緒に店に入って、律に友達だと思われるのが恥ずかしい。
早く入って早く帰ろう。願わくば律が忙しくして、自分の席に座りませんように。
ホストクラブに行くにしては珍しい望みを抱えながら、トウコは早足で階段を下りていく。
店前のホールにたどり着いた。ビルの地下にしては明るく、広々としている。
開きっぱなしの扉の向こうに、レジで領収書を書いている男性スタッフが見えた。ここから見るだけで、高級感にあふれる上品な内装をしていることがよくわかる。コールやマイクの音をのぞけば、ライトが派手に舞うことはなく、BGMもゆったりとしていた。
花音はきょろきょろと、あたりを見渡す。ホールの壁には顔写真が飾られ、前回の売り上げ順に並んでいた。
「は? なんで写真ないわけ?」
一位に飾られた額の中には写真が入っていない。下のプレートに律の名前が貼られているだけだ。
「そりゃそうでしょ。律くん、顔出ししてないもん」
「ふ~ん。やましいことしてるからだ?」
なんとなく写真を見ていた花音は、四位の写真を目にし、固まった。
「……は?」
そこにあるのは千隼の写真だ。スーツ姿に黒髪は、他の写真に比べて紳士的な雰囲気が勝り、目立っている。
「ああ、千隼くんね」
写真を見つめる花音に気づき、トウコも一緒に写真を見る。
「はじめて店に来たときについてくれたのを覚えてる。彼も律くんと一緒で変わった人だね。ホストだけどホストっぽくない感じが……」
花音の顔を見て、口を閉じる。
トウコですら今までに見たことのないような、ゆがんだ表情が浮かんでいた。
†
席を抜けた律が、レジカウンターに近づく。領収書を書き終えたスタッフに声をかけた。
「ねえ、店長どこ行ったか知らない?」
「いえ、こちらにはきてませんが」
「店長に出ろって指示されたから出たのに、肝心の店長がいなくなってんの」
「別の卓席の対応されてるんじゃないですか? それか
「あ~、さっきからコール続いてるからな~」
出入り口に客の気配を感じ、顔を向ける。ホールの写真を見る二人の姿を見つめ、眉をひそめた。
女性たちが見ている写真は、千隼のものだ。
「すまんすまん、律!」
店長が駆け寄ってきた。