悲惨な未来にならないように 2
文字数 2,089文字
赤信号で車が停まった。とたんに着信音が響き渡る。部長は耳にはまったワイヤレスイヤホンをつつき、返事をした。
「……はい。はいはい。ああ、夏妃さんね。コバコホテル、了解了解。……うん、大丈夫。間に合う間に合う」
部長はもう一度イヤホンをつつき、後部座席のカナに声をかける。
「ごめんカナさん、途中で女の子のせるわ」
「はい、わかりました」
部長は青になった信号をまっすぐに進み、別のホテルへとハンドルを切る。スピードも上がり、少しばかり運転が荒くなった。
ホテルの地下にある駐車場に入り、目立たないすみに停め、部長だけが降りる。別の女性のもとへ向かっていった。
車に残るカナは窓に頭をもたれ、目を伏せる。カナの瞳は、先ほどよりも暗く染まっていた。
「無理をしなきゃ、お金は稼げないからなぁ……」
その先は、ため息しか出てこなかった。駐車場に響く高いヒール音に顔を上げる。窓を見ると、部長が妖艶な女性を連れて戻ってきていた
部長が運転席に座り、黒いレースのタイトスカートをはいた女性が、カナのとなりに乗り込んだ。
甘く色っぽいムスクの香りが、車内に広がっていく。
「あらカナさんじゃない。久しぶり」
女性はカナに落ち着いた笑みを向ける。
年齢を重ねたからこそにじみでる色っぽさを、これでもかと漂わせていた。
カナはぺこりと頭を下げる。
「お久しぶりです」
「仕事は慣れた?」
「はい、だいぶ」
後部座席で会話が続く中、部長は車を発進させる。
「この仕事、いろんなお客様がいるものねぇ。大変じゃない?」
「おかげさまでなんとか……」
部長はカナとの会話を夏妃に任せる。カナは初日に比べると、他の女性と雑談ができるほどになっていた。
†
「う~っす、戻りましたよ~」
カナを家の近くまで送り届けた部長が、事務所に戻ってきた。洋室に直行し、ソファに体重をかけて座り込む。
「お疲れさまでした、部長」
メイコが洋室に近づき、中途半端に開いていた引き戸を全開にした。リビングと洋室を遮るものがなくなり、事務所が広々とした印象に変わる。
「今お茶を用意しますね」
「おう、ありがと」
メイコが去ると、正面から冷静な声が放たれた。
「悪かったな。部長に全部押し付けるようなことして」
くたびれた顔をした部長の正面には、律が座っている。いつものように不愛想な顔で、紅茶を飲んでいた。
「へえ? めずらしいんじゃねえの? 社長が自分から謝るなんて」
「まあ。少し強引だったと思って」
メイコが紅茶の入ったカップを運び、テーブルに置く。部長は礼を言って口をつけた。メイコが洋室を出るのを見送った律は、部長に視線を戻す。
「悪いけどもう少し続けてもらうから。カナさんが完全に心開いてるのは部長みたいだし」
「そうかねぇ? こういうのは俺よりもあんたのほうが得意そうだけど?」
「こういうのは相性だから。人に好かれる技術にも限度はあるよ」
「ま、おれは構わねえけどな。つきっきりのほうが楽だし」
部長は紅茶を一口飲んで、テーブルに置く。
「なんか、旦那が借金しちゃって大変らしいよ、カナさん」
「ふうん、そうなんだ?」
そっけない返事だ。
「興味なさそうだな」
「だってプライベートだろ? 首つっこんだところでろくなことにならねえよ」
律はあくまでカナに仕事を続けてもらうために部長をつけたのだ。キャストの女性たちに深入りするためではない。
ホストクラブに来る女性と比べ、デリヘルのキャストにはとことん濃い一線を引いていた。
「でもなかなかしんどそうな旦那みたいだぞ。あれじゃ旦那の尻拭いするために働いてるようなもんだな。……ま、あくまでカナさんの話を聞いた印象だけど」
「へぇ。そうなんだ?」
律はぬるい紅茶に口をつけ、ちびちびと飲む。話に付き合うものの、共感も同情もしない。
「こいつは他の女の子にも言えることだけどよ。なんだって自分の借金でもないのに、自分が働いて返そうとするかね。こうなったら別れるの一択だろ」
「さあな。そんなの、本人にしかわかんねえ事情があんだろ」
二人の話に聞き耳を立てていたのか、リビングのデスクに座る優希が声を放つ。
「もしかしたらその旦那、嫁が稼いだ金で遊んでるかもしれないっすねぇ」
部長はゆがめた顔を優希に向けた。
「おまえ、怖いこと言うなよな」
「なに言ってんすか。これもこの世界じゃよくある話でしょ」
平然と言ってのける優希に反論できず、気だるげに背をもたれる。下品に足を広げ、天井を見上げた。
「この仕事で金稼いで、ちょっとでも報われりゃいいがなぁ。少なくとも、最悪で悲惨な結果にはならないように」
その言葉に、だれも相づちを打とうとしなかった。みんな、考えていることは同じだ。部長が言う最悪で悲惨な結果になることこそ、この業界ではよくある話なのだ、と。
女性の体を擦り切れるまで使い、骨の髄まで金を搾り取り……最終的にはゴミクズのように捨てる。そんな男は、日の目を見ないだけでザラにいるのだから。