忙しい日々
文字数 2,476文字
デリヘルグループ
「あ、ヒナノちゃん? お疲れさま」
事務所リビングに、律の穏やかな声が響く。
ホワイトボードの前で、社用の携帯電話から、ホテルにいる女の子と連絡を取っていた。
「そろそろ終了のじか……延長? ちょっと待ってね」
ホワイトボードに書かれた女性たちの予定表のうち、ヒナノの欄を見る。
「ごめんねぇ。次の予約が三十分後だから厳しいね。……うんうん、はーい、よろしく」
切ったとたん、デスクにある別の携帯電話が鳴り、
「はい。『
優希は自身のデスクに座り、ホワイトボードとパソコンの画面を確認しながら対応する。が、この忙しさでは、声に余裕のなさが出てしまっていた。
「あ、えっと、今からですと……お待たせすることに……えっとですね」
事務所には今、律と優希の二人しかいない。
三店舗すべての女性が出ている状況では、ドライバーだけで現場を回せない。
普段事務所にいる部長とメイコが送迎に出ることで乗り切っていた。事務所に残る二人が指示を出し、現場を回していくしかない。
今度は律のスマホが鳴った。ジャケットの裏から白いスマホを取りだす。対デリヘル社員用として使うスマホだ。すぐにタップして耳に当てる。
「……はい。うん、了解」
先ほどとは違う神妙な声だ。ホワイトボードに書かれている内容をペンで指し示しながら続ける。
「じゃあ……そのままホテルベアーに向かって。次はユリさんで一〇〇二号室ね。……うん、一、〇、〇、二、号室。そう、そのあとはホテルフ―ミーにアリスちゃん待機で」
通話を切り、別の相手にかける。
「ああ、部長。今からコバコホテルに向かって。ヒナノちゃんが出てくると思うから。車に乗せたら電話して。それと、そのコバコホテルにアカリちゃんを出して。S一―六号室。……はい。お願いね」
「社長!」
電話を切ったとたん、優希がパソコンを見ながら声を上げる。
「一時からユリアさん入りました」
「ユリアさん? ホテルは?」
「Bタワーホテルです」
律はホワイトボードのユリアの欄をペンでさす。
「あー……今ホテルヴィヴァルディか。どうだろ。メイコさんが急いでギリだな。連絡しておこう」
二人だけでは息つく暇もない。女の子とドライバーの位置関係を把握したうえで、飛び込み客の対応をするのは頭を使う。そんな中、律は各所へ適切に指示を出していた。
「ああ、広瀬さま、お世話になっております」
客からの電話に、律が対応する。スタッフや女の子に対するものとはまた違う、柔和な声だ。
「次回のご予約ですか? アイさんですね? 少々お待ちください」
優希が座るデスクに近づき、パソコンの画面をのぞきこむ。画面には、すでに日程表がだされていた。
「はい。その日でしたら大丈夫ですよ。一日デートコースで。はい。はい。お待ちしております。失礼いたします」
通話を切り、律は深く息をついた。
「落ち着いた、かな?」
客からも、女の子やスタッフからも、電話はこない。時間終了の電話をこちらからかけるまで、余裕がある。
そばにいる優希を見下ろした。優希は律よりも疲れ切った顔でパソコン画面を見すえている。
「俺が来るまで大変だっただろ? 一人で回すの」
「え? ああ……」
律を見上げ、ぎこちなく笑う。
「はい。助かり」
腹の鳴る音がさえぎった。優希は顔を真っ赤にして、腹をおさえる。
「す、すみませんっ! 今日は一日中こんな感じで、なにも食べられなくて」
慌てふためき、照れたように頭を
「あ、えっと、一緒になんか食べませんか? 今日女の子がくれたお菓子があって~。あ、でもメイコさんたちに悪いか」
しゃべるあいだも腹が鳴っている。律は薄い笑みを浮かべ、うなずいた。
「いいよ。休憩にしよう。きっとメイコさんたちも時間見つけてなんか食べてるだろ」
†
洋室のローテーブルに、個包装のお菓子を詰めた缶が置かれている。ソファに座る律が一つ手に取り、封を切った。中身はラングドシャだ。
正面に座る優希は、すでに二つ目を口に入れていた。
「ああ、そうだ、社長。電話が来てましたよ」
口の中を隠すように、軽く握った手を当てる。
「フェアリーアンドミューズの
「優希が勝手に断ってくれて大丈夫だけど?」
「だめでしょ。めったに顔出さないからみなさん会いたがってるって言ってましたよ」
「それは社交辞令だから。近澤さんだったら特に。……まあいいや。こっちから連絡入れておく」
優希のあとに続き、律も少しかじる。用意してもらった紅茶は湯気が立っており、まだ手を付けようとしない。
「それから、レミさんですけど」
優希がゆっくりと
「ちゃんと毎日出勤してくれてますよ。オーラスで」
「へえ、そうなんだ」
「社長から金借りたことで、心入れ替えたんじゃないですか?」
「いや、借りてる以上ちゃんと約束守るのは普通だろ」
吐き捨てるような言い方に、優希は口の中のものを飲み込んで尋ねた。
「もしかして、レミさんが飛ぶと思ってんですか? 金貸したのに?」
律は視線を下げる。カップからは、まだ湯気がかすかにのぼっていた。
「俺、そんなにわかりやすい?」
「はい。返してこないって思うんだったら貸さなきゃいいのに」
律は鼻を鳴らす。
「優希が気にすることじゃねえよ。レミちゃんが頑張ってるのは否定しないし、指名も増えてるみたいだから、とりあえずは様子見だな」
その声に、穏やかさは一切なかった。優希はそれ以上追及せず、お菓子に手を伸ばす。
紅茶からの湯気は、もう見えなくなっていた。律はようやく手に取り、口をつける。律にとってはこれくらい冷めているのがちょうどいい。