たとえ悪者になってでも 2

文字数 2,820文字




「ちょっと酒足りなくなってな。で、次の卓だけど」

 律は入り口に顔を向けたまま、小声で伝える。

「店長、そのまえに千隼さんを休憩に出して」

「あ?」

「千隼さんの知り合いが来てる。千隼さんがホストやってるって知らないから」

「げえ、まじかよ、こんな忙しいときに……」

「俺がここで対応するから、そのうちに千隼さんを厨房(ちゅうぼう)に入れて」

 店長は険しい顔でうなずく。インカムでスタッフたちに指示を出しながら離れていった。

 スタッフに声をかけられた千隼が、卓席を出ようとしている。その姿を確認し、律は出入口の手前に立った。レジカウンターと律のせいで、二人からは店の中が見えないようになっている。

「いらっしゃい、トウコさん」

 トウコはびくりと震え、顔を向ける。穏やかにほほ笑む律を見て、トウコも笑顔で近づいた。

「どうしたの、律。出迎えなんて珍しいんじゃない?」

「来てるところが見えたからつい」

「他のお客さんもいるのに?」

 トウコの後ろにいる花音は、写真を見つめたままわなわなと震えていた。ゆっくりと律に顔を向け、憤怒に満ちた目でにらみつける。

 当然のことだ。今までエリート会社員だと思っていた男が、実は大嫌いなホストだったのだから。

「どーいうことなの!」

 大声を張り上げて詰め寄る花音に、トウコは困惑した顔を向ける。

「ちょっとやめてよ、そんな声出さないで!」

「あんたは黙ってて!」

 律は臆することなく、笑みを浮かべたままだ。

「私のことだましてたってわけ? 二人で一緒になって!」

「ちょっとなに? どういうこと?」

「ほんと最低! どこにいるのよ! 今も知らない女のとなりでへらへらしてるんでしょ!」

 感情的になる花音を前に、律は短く息をつく。

「まあ、そういう仕事だからね」

 いまだに困惑しているトウコをそのままに、律は笑みを消した。

「だから秘密にしておきたかったんでしょ。そういう反応するってわかってるから」

「大手の外資勤めっていうのも! いい大学卒業したエリートってのも! 残業が毎日厳しいってのも全部ウソだったわけ?」

 これ見よがしなため息で返す。

「ほんと。きみって自分のことばっかりで、彼氏のことはなにも知らないんだね。もっと彼氏のことを見ようとしてたら、そんな言葉出てこないと思うよ」

 花音は拳を握りしめ、声を張り上げた。

「あんたに私たちのなにを知ってるのよ! こっちはね、結婚も本気で考えてたの! ずっとだまされてたのよ!」

 花音の声は店の中にまで聞こえていた。スタッフや客が、出入口のほうに顔を向けるほどだ。

 律は鼻を鳴らす。

「結婚を本気で考えてたのに、こんなところに来れちゃうんだ?」

「客としてくるぶんにはいいでしょ! ホストと結婚するわけじゃないんだし! でもあいつがホストなら話は別よ!」

 律の顔が険しくなる。めんどくさげに頭を()きつつ、冷ややかな声を出した。

「あのさあ、きみ、そもそも店に一回も来たことないよね?」

 花音は、律の発言の意図が分からず、首をかしげる。

「はあ? あるわけないでしょこんな店。こんなところ、ホストと同じような底辺の女が通う場所でしょうが」

 その言葉が、ブーメランになっていることも花音は気づかない。

 花音を見る律の目は、あいかわらず冷たかった。静かに、淡々と、威圧のある声で続ける。

「ってことはつまり、きみは彼に対してお金を使ってないってことだよね?」

「……は?」

 怒りと混乱のあまり、花音は言葉が出てこない。律の言葉をかみ砕いて理解する余裕もない。

「お店にも通ってない、彼のためにお金も使ってない。おれたちにとっては、それでだまされたなんて言われてもとんだお笑いなんだけど?」

 歯ぎしりとともに、花音の全身が震えだす。

「うるさい! うるさい! 私を客扱いするな! 私が何年一緒にいたと思ってんだよ!」

 花音は叫びながら手を振り上げた。乾いた音が響き渡る。

「あー! もう! なんなのよ!」

痛む手を握る花音は、目の前の状況に固まった。花音がひっぱたいたのは律ではなく、律をかばった千隼だ。

 後ろにいる律は顔をしかめ、店長を探す。レジ横にいた店長と目が合うと、あきらめたように首を振っていた。

 千隼の声が、律の耳に届く。

「ごめん、律くん。迷惑かけちゃって」

 千隼は律を見て、悲し気にほほ笑んでいた。頬がうっすらと腫れかけている。

 花音の歯ぎしりが、また響いた。

「なんでよ。なんでそんなやつかばうのよ。なんで私よりそんなやつのこと……」

 千隼は、花音と目を合わせようとしなかった。顔を向けようともしない。千隼を見上げる花音は、(うな)るように続ける。

「最低。何年もわたしのこともてあそんでたんでしょ。私のことなんて大事じゃなかったんだね」

 その目は軽蔑に満ち、人間を見る目をしていなかった。

「しょせんあんたなんか社会のゴミよ。二度と私に近づかないで! このウソつき野郎!」

 身をひるがえし、いら立ちを伴う足音を響かせながら階段をのぼっていく。

 花音の姿が見えなくなったころ、律は千隼に顔を向けた。たたかれた頬に手を当てたまま、顔を伏せている。

「追いかけないんですか?」

「え?」

 律は不愛想な顔と、いつもの調子で続ける。

「こういうとき、男って追いかけるもんですよ」

「あー……いや、でも」

 追いかけたところでなんともならない。それは律もわかっている。

「最後くらいはちゃんと言い返しておきたいって、思わないんですか?」

 自身の、心の整理のためにも。

「少し離れるくらいなら、大丈夫ですから」

 千隼の背中をポンとたたく。

「え? あ、えっと……」

 律の顔は、確かにいつもどおりだった。それでも、千隼を見すえるその瞳は、何もかもを見透かす力強さを秘めている。

 千隼は戸惑いつつも、薄い笑みを浮かべた。

「うん。……ありがとう。すぐに戻ってくる」

 律に言われたとおり、小走りで階段をのぼっていく。

 一連の出来事に居合わせ、ぼうぜんとしていたトウコは(われ)に返った。

「えっと……? つまり、あの子の彼氏が、その、千隼くんだったってこと?」

 わたわたと混乱しているトウコに、律は困ったように眉尻を下げた。

「さあ? それはわかんないけど」

 店にいるこの状況で、律が肯定することはできない。

「トウコさんも言ったほうがいいんじゃない? 友達、なんでしょ?」

 とたんにトウコの顔がゆがむ。

「いや全然そんなんじゃないから。ただの同期! ……でも、いろいろ心配だからようす見てくるわ。ごめんね、律。わたしが彼女を連れてきたばかりに」

 律はほほ笑んで首を振る。

「トウコさんのせいじゃないから大丈夫だよ」

「ほんとうにごめんね。律は仕事に戻ってて」

 階段をのぼっていくトウコの後ろ姿を、律は営業スマイルで見送った。姿が見えなくなったころ、笑みを消し、店長に体を向ける。

「店長、ちょっと暇そうなやつ厨房(ちゅうぼう)に集めといて。……心配しなくても大丈夫だよ。千隼さん、ちゃんと戻ってくるから」



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