甘い夢は儚く
文字数 2,780文字
律が予約を入れてくれたレストランは、高層ビルの中に入っていた。
ガラス張りの壁の向こうでは、暗くなった空の下で、都会の街並みがきらきらとまたたいている。
「きれい……。わたしこんなお店初めて来たよ」
「俺もだよ」
千隼と花音は壁際の席で、美しい夜景にほほ笑みあう。普段の生活では絶対に手が出せないコース料理に、花音がはしゃいでいるのは言わずもがなだ。機嫌よくニコニコと前菜に口をつけていく。
たわいのない会話をしながら、食事を進めていた。料理を堪能しながら、千隼は話をするタイミングを考える。
やはり、すべての料理を食べ終わった頃にすべきだろう。今はとりあえず食事と夜景を最大限に楽しむべきだ。
スプーンでスープに口をつけていた花音が、ふと、真面目な顔つきになる。
「そういえば、さっきの人なんだけど」
その神妙な声色に、千隼の体がぴくりと反応した。
「さっき?」
「ほら、後輩だったっていう……」
「ああ、律くん?」
千隼の声が、少し上ずった。
「律くんが、どうかした?」
花音は不満げに目を伏せ、スープをすくう。
「こんなことあんまり言いたくないけど、あの人とは、あんまり関わらないほうがいいんじゃない?」
花音は平然とスプーンに口をつけ、千隼の反応を見る。
穏やかにほほ笑んだ千隼は、首をかしげた。
「どうして?」
「どうしてって……。あの人ホストでしょ? なんか変なことに巻き込まれそうじゃん」
「あー……」
スープをすくおうとした千隼の手が、とまる。いつもどおりでいるよう気を付けながら、やわらかな声で返した。
「でも、いい子だよ。ほんとうはもっといろんな仕事ができたはずなのに、精神的に壊れちゃっただけで」
「あのさ、ちゃんと見てた?」
花音の顔は、わかりやすく不満げだ。
「あの人、わたしのこと客として見てたじゃん」
「そんなこと」
「見てたって。私のバッグとか靴とか、ブランドものかどうかチェックしてたんだもん。お金持ってるかどうか見られてたんだと思う。……ほんと最悪」
確かに、ホストは女性の外見から金銭に余裕があるか判断するクセがある。しかしさきほどの律の場合は、あくまでも花音の人柄を判断するためだ。そんなこと、花音には絶対に言えないが。
「そう、かなあ?」
「わたしより、あの子の味方するわけ?」
その声にも不満がにじみ、律への嫌悪感がひしひしと伝わってきた。
「いや、そんなことはないけど……」
「ホストなんて、女の子を金だと思ってるんだよ? ほんとクズばっかり」
彼女の声が、ぐさりと突き刺さる。
「さっきあの人が言ってた彼女っていうのも、どうせたくさん金を使ってくれるお客さんのことでしょ。あんなのにだまされちゃって女の子もかわいそうだよね」
反論しようにも、言葉が見つからない。千隼の喉から声が、出てこない。
「そりゃ一般社会でうまくいくわけないよね~。ホストっていう職業を選んでる時点で常識ないんだし」
『一般社会でうまくいくわけない』
その一言が、千隼に強く入りこんでくる。その一言が、頭の中をぐるぐる回る。
「しょせんホストに落ちるような男だったってだけ。どんなにうまくやってようが誇れることじゃないでしょ」
花音はさげすむような笑みで、喉を鳴らしている。今の花音の顔が、好きだった彼女とはまったくの別人に見えてきた。
ふと、千隼は辺りを見渡す。高級繁華街にあるレストランなだけあって。さまざまな男女が客として食事を楽しんでいた。
その中には、明らかに同伴の組み合わせと判断できるような、実業家と若い女性といった二人組もいる。花音は、そういった客が近くにいるということも想像できないのだ。それほどまでに、夜の仕事を、下に見ている。
千隼はスプーンを強く握り、優しい笑みを浮かべ、必死に声を出した。
「あ……律くんはいい子だよ? ホストだからって、いい加減なわけじゃないし。失礼な振る舞いもしないし、人並みの常識はある子だよ。それに、客として見てたなら、もっと、愛想よくしてたんじゃないかな……」
それは、精いっぱいの、自分を守る言葉だった。
「見た目が派手だから、そう見えるのかもしれないけど……」
花音は不機嫌に眉を寄せ、肩をすくめる。
「なんでそういうこと言うの? ほんとうはあの人にいろいろ迷惑かけられてきたんじゃないの? その尻ぬぐいで残業が増えたりしてたんでしょ?」
ここまでくると嫌でも察した。
彼女が千隼の今を、受け入れることは絶対にないのだ、と。
「病んで辞めたなんて言ってたけどさ。仕事で病むまでに対処できることはあったはずだよ。環境になじめないのはなじもうとしない本人の責任なんだから。やっぱり仕事で病むような人は欠陥があるんだよ。人としての欠陥がさ」
無自覚に攻撃する言葉が、千隼の心をぐちゃぐちゃに引き裂いていく。
千隼はもう、なにも返せなかった。
「まあ、あの人、見た目はすごくかっこよかったよね。いかにも仕事できますって感じの雰囲気でさ。ベンチャー企業の若社長なのかなって一瞬思ったけど~」
花音の声が嫌でも頭に入り、ガンガンと響く。
「危うくだまされるところだったよ。スーツ着ててまぎらわしい。店に誘われることはなかったけどさ~、ああいうタイプはあの手この手で店に連れこもうとするよね、絶対」
花音が口を開くたびに、千隼の顔には影が差す。そんな千隼に気づくこともない花音は、心配するような言葉をかけることすらなかった。
「そんなやつのせいで仕事押し付けられちゃってさ。私たちが会える時間もああいうやつのせいでなくなっちゃうんだよ。まじふざけんなって感じ」
自分が辞めたあとも、こういうふうに言われていたのだろうか。
千隼は、前の職場を思い返した。
出社するたびに絶望し、胃もたれした、あの職場を。
「結局辞めてホストみたいな仕事につくぐらいなら、最初から会社に入ってくるなって感じだよね」
スプーンを握る手が、思うように動かない。食欲が急激になくなっていく。
「それに比べて、わたしはほんとにステキな人に巡り合えたなって思うよ」
青白い顔を伏せる千隼に反し、花音は恥ずかしそうにはにかんでいた。
「仕事が忙しいのに日曜日は必ず一緒にいてくれるし、こうやってステキなお店にも連れてきてくれるしね」
「……そうだね」
ぎこちなく返すので精いっぱいだ。自身が今、笑えているのかどうかすらわからない。
少なくとも、花音の言葉はもう響かなかった。千隼が思い描いていた輝かしい未来は、粉々に砕け散る。
テーブルにはいつのまにか、濃い色のソースがかかるミディアムレアのステーキや、ソムリエが選んだ上質な赤ワインが運ばれていた。花音に合わせて口をつけるが、もはや喉に流し込む作業でしかない。
料理が来るたびに喜ぶ花音に対し、千隼はこの場にいることが苦痛にさえ感じていた。