頼まれたからやるわけじゃない

文字数 2,467文字




 Aquarius(アクエリアス)の営業終わり、律はいつものように少し吐き、出入り口に向かう。フロアを歩く中、視界に入ったのは、卓席に座る千隼の後頭部だ。一人で、必死にスマホをタップしていた。

 律は辺りを見渡す。店長が律の行動を見ていたらめんどうだ。頼みごとを聞いてくれたと思われても困る。

 今のところ、店長は見当たらない。厨房(ちゅうぼう)で酒棚の整理でもしているのだろう。

 それなら、と音を立てず、ゆっくりと千隼に近づいていく。背後から、スマホをのぞきこんだ。

 スマホの画面にうつっているのは、メッセージアプリのトーク画面だ。相手のアイコンは女性の自撮りだった。相手からのメッセージが続いている。

『ええ? 先週のフレンチたいしたことなかったよ。店も古いしさ』

『今度はアフタヌーンティーに行きたいな~、ホテルの二階のやつ』

『絶対絶対つれてってね!』

『そこじゃなきゃ嫌だから! ちゃんと予約しといてね』

 相手からのメッセージに、千隼は真面目に返している。

 律は視線をそらし、しばらくためらいながらも、声をかけた。

「それ、客ですか?」

「うわあっ」

 体を震わせた千隼はスマホを胸に当てつつ、振り向いた。律だと気づいた瞬間、へらりと笑う。一般的なホストに比べて、毒気がまったくない。

「律くん、お疲れさま。……どうしたの? 律くんから話しかけてくるなんて珍しいね」

「まあ、そうですね」

 律はため息をつきながら卓席に入り、隣に座る。不思議そうに顔を向けた千隼だが、なにかに気づいて声をあげた。

「あ、いい匂いする。香水?」

 色っぽさのある甘い匂いが、律の全身からほのかに漂っている。

「さっきまで吐いてたんでゲロクサいだけですよ。鼻大丈夫ですか」

「え? 香水の匂いするよ。律くんが隣に座るとこんな感じなんだ。そりゃみんな律くんのこと好きになるよね」

 落ち着いた優しい声で、律の懐に入ろうとしてくる。そもそも千隼と二人きりで話すのは、初めてのことだった。

 律はいつものように素っ気なく尋ねる。

「で? さっきのは?」

 千隼は茶化すような笑みを浮かべた。

「人のスマホ勝手にのぞかないでよ」

 そう言いつつ辺りを見渡す。他のホストが近くにいないことを確認し、声を潜めた。

「客じゃないよ、彼女」

 照れたように笑う千隼に対し、律は表情筋をぴくりとも動かさない。

「……エースとか太客のことをそう呼んでるんじゃなくて?」

「違う違う、ガチのほう」

「あ~……そうですか」

 店長が心配していた千隼の上の空は、女がらみだったのだと拍子抜けする。これ以上話を聞く必要もない。

 どうやって席を抜けようか考えていると、聞いてもいないのに千隼はにこやかに話しだす。

「すごくかわいい子なんだ~。明るくて子供っぽくて裏表がなくて。俺がサラリーマンやってたときから付き合ってて……」

「そうですか」

「ちょっと不器用なところもあるけど。会うだけで元気になれる存在なんだ。休みの日は絶対一緒にすごすようにしててね……」

 彼女に対する愛情が、嫌でも伝わってくる。千隼指名の客がきけば卒倒ものだ。なんなら刺されてつるし上げられるかもしれない。

 律はため息をつく。

「そういうプライベートなこと、俺に話してもいいんですか?」

「え? ……だって、律くんは誰にも言わないでしょ」

 少し話しただけで、千隼の人の良さが伝わってくる。律が心配になるほどだ。

 人のことを簡単に信用しすぎじゃないのか。それでよくホストやってるな、という言葉を飲み込んだ。

「お互い、いい歳だからさ。近いうちに、結婚も考えてるんだけど」

「それは難しいんじゃないですか」

 律のとがった声に、千隼の顔から笑みが消えた。

 徐々に眉尻が下がり、表情に影が差す。静かに、落ち着いた声で返した。

「……だよね。わかってる。今のままじゃ無理だよ」

 千隼が上の空になる本当の原因はこれだ。彼女にうつつを抜かしていたのではなく、彼女との将来に思い悩んでいた。

 たとえ結婚したかったとしても、今の千隼には越えるべき高いハードルが多すぎる。

 いろいろと聞きたいこともあったが、律は一つだけ、尋ねることにした。

「そもそも、自分がホストだってこと、その子は知ってるんですか?」

 千隼はぎこちなく首を振る。

「……向こうは、俺がまだサラリーマンだと思ってるよ」

「ばれるのも時間の問題だと思いますけどね」

「そう、だね」

 千隼はスマホを見つめ、ぎゅっと握る。メッセージが来ているようだが、律の前だからか返そうとしない。

「千隼さんが結婚したいと思ってるなら、はやめに打ち明けるべきじゃないですか?」

「……わかってる」

 さきほどまでのほんわかとした雰囲気は、すでに消え去っていた。

 暗く、自信のない声で、千隼は続ける。

「でも、俺にとっては、彼女も仕事も同じくらい大事だし、どちらかを捨てることなんて、できないし……」

「どちらを選ぶにせよ、二つとも手に入れるにせよ、彼女ともっと話し合うべきでしょ。自分だけでぐるぐる、考えるんじゃなくて」

「うん……」

 律は腕組みをしながら背をもたれた。顔を伏せる千隼に視線を向ける。

「千隼さんがずっと悩むってことは、彼女と話し合うのを避けられない時期に来てるってことなんじゃないですか。きっちり話し合って落としどころをつけるべきです」

「それは、わかってるんだけど」

 顔を上げて反論しようにも、律と目が合えば弱弱しく息をつくことしかできない。

 不安や迷い、抵抗がごちゃ混ぜになっている。千隼は、はっきりと主張や反論ができるほど、強い性格をしていない。

「たとえ、どんな結果になろうと。満足するまで話し合えたらそれでいいんじゃないですか。夫婦としてやっていくのに話し合いもできないようじゃ、結婚生活も知れたもんですよ」

 千隼は小さくうなずいた

 このようすでは、すぐに解決しそうにない。少し話を聞くだけだったのに、予想以上にめんどくさい事情に首を突っ込んでしまったようだ。

 とりあえず、この日は千隼をそのままにし、店を出た。のぞき見たトーク画面の会話内容に、違和感を覚えたまま――。

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