涙は誰も気付くことなく

文字数 1,819文字



 リオのとなりには、ヘルプのホストが座っていた。拓海は先ほどから戻ってこない。別の卓で注文されたシャンパンの対応に忙しい。

 リオが席を立つと、ヘルプもついてこようとする。

「あ、大丈夫。私ドアの前に立たれると気遣っちゃうから、ここで待ってて」

 リオが向かう先は、女性用トイレだ。男性用トイレより掃除が行き届き、アメニティも充実している。その個室で、便座に座ったとたん、リオの目から涙があふれだした。

 声を出さず、息も漏らさず、ただひたすらに、とめどなく流れる涙をこぼしていく。鼻水で鼻が詰まり、口で呼吸するようになっても、唇を噛んで、必死に声を漏らさないよう耐えていた。

 気がすむまで涙を流したあと、個室を出る。鏡にうつるリオの目は真っ赤に充血し、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。涙を拭いて、鼻をかんだら、アメニティの綿棒で化粧のヨレをぬぐっていく。

 泣いていたとは気づかれないくらいに化粧を整え、トイレを出た。

 当然、リオを待っているホストはいない。

「あ」

 だから、ここで誰と会っても、それは偶然に過ぎなかった。

 女性用トイレからフロアに戻る方向に、男性用トイレがある。ちょうどトイレで吐き戻した(りつ)が、出てきたところだった。

 目は合うが、すぐさまリオに背を向けた。

「あ、あの」

 リオの声に立ち止まり、振り返る。リオは周りに誰もいないことを確認し、続けた。

「律さんって、デリヘルの経営をしてるんですよね?」

「誰にきい……あー……」

 拓海だ。拓海しかいない。

「……お願いが、あるんですけど」

 わざわざ律に話しかけるくらいだ。そのお願いの内容を、律はなんとなくわかっていた。

「律さんのところって、すごく、高級なデリヘルなんですよね? 経験はあるんです。だから、仕事はこなせると思います」

 リオは真剣な表情で頭を下げた。

「お願いします。律さんのところで、働かせてください」

 リオの頭を見下ろす律の顔は、女性客に向けるそれではない。ホストやスタッフに向けるのと同じくらいに冷徹だ。

「ごめんけど、それは無理だね」

 顔をあげたリオの目に、困惑の色が浮かんでいる。

「じゃあ、どうすれば、働かせてくれますか? 見た目が悪いなら、どこなおせばいいですか?」

「それ以前の問題なんだよ」

 あくまでも冷たい目で、突き放す声だった。

「なんて聞いてるかは知らないけど、俺、Aquarius(アクエリアス)のお客さまを自分の店で働かせることはしないって決めてるから」

「え? でも」

「拓海から、なんて聞いてるかは知らないけど。俺、自分の客ですら自分の店で働かせたこと、ないよ?」

 リオに譲歩するようなことは何一つ言わなかった。これ以上お願いしても無駄だと悟ったのか、リオは眉尻を下げ、顔を伏せる。

 息をついた律が、卓席に向かおうと背を向けたときだった。

「なに人の女口説いてんすか」

 リオを迎えに来た拓海が、律をにらみつけていた。先ほどまでの会話は聞いていなかったらしい。聞いていれば気まずさが顔に出るはずだ。

 律は鼻を鳴らす。

「へえ、口説いてるように見えたんだ? だったら、離れないようにちゃんと握っておくべきじゃない?」

「はあ?」

 文句を続けようとした拓海に、リオが駆け寄る。

「もう、怒らないで。たまたま鉢合わせて世間話しただけなんだから~」

 拓海の腕に絡みつき、一緒に卓席へ戻っていく。そのふたりの後ろ姿を、律は先ほどと同じ冷ややかな目で見すえていた。

 

          †



「え?」

 リオの会計時、トレーには分厚い量の万札が置かれた。

 レジに持ってくスタッフを、拓海は丸くした目で見送る。その姿に、リオは喉を鳴らした。

「大丈夫だって。拓海のためならこれくらい」

「いやいや、掛けになるって言ってたじゃん」

「そうだけど……仲直り記念だから」

 無邪気に笑うリオは、拓海をまっすぐに見つめる。

「これからはちゃんと、拓海のこと支えるからね」

「リオ~……」

 拓海は感極まった表情で、涙を浮かべていた。

「じゃあ、なんかお礼させてよ。このあと空いてるなら一緒に」

「いいの? 他の女の子と約束してたんじゃない?」

「リオ以外どうだっていいよ。俺のためにこんなに尽くしてくれてんだから」

 リオは首を振る。

「私のことは大丈夫だよ。私がやりたくてやってるんだし。気を遣わないで」

「気を遣うとかじゃなくて。俺が、リオと行きたいんだって。終礼終わるまで待ってて」

 真剣な顔で見つめる拓海に、リオはぎこちなくうなずいた。



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